#024 代償
『さ。じゃあ3つ目の質問をして? <それはどういう意味ですか?>って』
KANAさんからのメッセージを目にして……俺は一瞬、思考が止まる。
だってつまりそれは――
「それは……どういう意味ですか……?」
『はい、良く出来ました。では3つ目のお返事。あたしの持っているアナザー、条件によっては孝人くんのために使ってあげてもいいかなって、考えてます』
「……っっ」
――それは正直、考えてもいない可能性だった。
まさに目の前に転がってきた幸運。僥倖。
「お願い……したいです。ぜひ」
『確認するわね? 代償として孝人くんが支払えるものなら、支払って良い覚悟があるのよね?』
「はいっ……それで深山が助かるのなら」
『ふぅん……深山、ね。女の子?』
まるで母さんみたいなことを聞いてくる、と舌を巻いた。
男女差別かもしれないが、女性は一気に理論を跳躍させていきなり本質に飛び込んでくることがある気がする……いわゆる直感、というヤツだろう。
その度にロジック派の俺は、大いに乱されてしまう。
「男女は関係ないです。俺のクラスメイトで……以前から何度も助けてくれて。だから、俺の助けたい人です」
『はい、わかりましたっ。いいでしょう、あたしのアナザーを使えば確実にその深山さんを助けられますよ。今すぐにでも♪』
「本当ですか……!?」
どんな条件が来るかはわからない。
……でも、俺はそれをどんな努力や犠牲を払ってでも応えるべきと思った。
だってこのEOEで3つしか確認されていない貴重なアイテムを使ってくれると言っているんだ。それは俺も全身全霊で応えなきゃ嘘になる。
こんなチャンスは、もうたぶん二度と無いんだ。
『それじゃ、あたしのアナザーを使うための、孝人くんへの交換条件』
「……はい」
『ふふふっ。そんな緊張しないで? 痛かったり、つらかったりしないわ?』
「え。そう……なんですか?」
『決して悪いようにはしないわ……でもお姉ちゃん、ちょっとショックかも~。孝人くんにそんなことお願いしちゃう人だって思われてたのね……くすん』
「……すみません。正直、今もまだ身構えてます」
『ええ、それはこの世界でとっても正しい心構えだから許しちゃいますっ』
「KANAさん……勿体ぶらないで、お願いします」
『わかりました。では――』
KANAさんは一呼吸置いて。
『――孝人くんのこれからの人生、あたしにちょうだい』
「えっ」
『それが条件』
「…………っ」
正直、考えが……まとまらない。
「それはっ……その、奴隷、みたいな――」
『ううん、もぅ~! 悪いようにはしないって言ってるじゃないの~? 美味しいご飯も暖かいお布団も、自由な時間も、生活に困らないお金も用意してあげるわ。もちろん孝人くんがやりたいことがあれば、むしろお姉さんが色々応援してあげるから♪』
「……」
『だから、孝人くんのこれからの人生を、あたしに捧げてちょうだい?』
「……」
『2000万円って、それぐらいの価値はあると思うの。その金額で人殺しをする人間だって、きっと沢山いるはずよ?』
「……っ」
『ね、知ってる……? 片目失明の慰謝料って1000万円ぐらいが相場なの。つまり孝人くんが今、求めているものの代価は、眼球2個分ぐらい』
「……はい……っ」
『あたし、何も騙そうとしてないし、酷い条件にならないように精一杯の譲歩をしているつもりです。さっき言った条件、本当に用意するわ。孝人くんの人生を狂わせないように、苦痛を与えないように、困らせないようにしてあげる』
「わかってますっ……わかって、ますっ……」
『ふふっ……ごめんね? お姉ちゃん、孝人くんを困らせたくて言ったわけじゃないのに。失敗しちゃったね?』
「違うっ……KANAさんはっ……悪く、ないっ……」
『じゃあ、どうしてそんなに泣き声なの?』
「これはぁ……っ……俺がっ、俺が……甘くてっ……考え、全然足りなくてっ」
『うん』
「いざっ、その条件出されるとっ……俺、急に尻込み、しちゃってっ……何が、たった60日じゃない……だよっ…………そんな綺麗事叫んでっ…………KANAさん、のことっ……悪者みたいにっ、言ってぇ……」
『……孝人くん。今からそっち、行こうか?』
「いいっ! いい、ですっ……!! これ以上、迷惑、かけられないっ……すみませんでした、っ…………愚か、でしたっ……そんな貴重な、大切なものをっ、他人の俺が何の大したリスクも背負わないでっ……もらえるとか、そんな都合のいいこと考えてしまってっ…………!!!」
涙が止まらない。
自分への怒りが収まらない。
カッコつけるだけつけて、酔いしれて……いざ、現実に直面した瞬間、すぐに足はすくんで。
つまり考えるまでもなく、一瞬で深山の60日間と、俺の人生との天秤は釣り合わないことを冷酷なまでに自覚した。
俺は深山の60日間をその瞬間『たった』と思ってしまった。
天秤に掛けた上で、自分を取ってしまった。
気持ち悪い。
口だけの俺、キモチワルイ。
「ぐっ……」
『――良かった。残念だけど、本当に良かった』
「えぐっ……は、はいっ……?」
『恥じることないわ。悔いることでもない。それは人として当然の判断。困らせる条件を出したあたしがこんなこと言って、ごめんなさいね……?』
「いえっ、それはぁ……っ……足りない、俺、のこと……気付かせてくれる、ためでっ……!!」
『……そうでも無いんだけどねっ? ふふっ、まあ、そうしちゃいますか♪』
「すみませんっ……俺っ……支払えない、ですっ……!!」
『――はい、わかりました。ではこの交換条件は、無しで』
「……はいっ……」
『…………』
『……ね、孝人くん。命令は、使わないの?』
「えっ……?」
『プロトコルの命令で、アナザー奪っちゃえば?』
「KANAさんの……財産、損なうから……無理、ですっ……」
『はい、正解♪ 正確には<所持する金品に対する著しい損害>ね。もし孝人くんがその深山さんを助けられるような人になりたいなら、もっと厳密に言葉を扱えるようにならないとダ~メ』
「はいっ……気を付け、ますっ……」
『ふふふっ……素直で可愛い♪』
「は……ははっ……」
それはそのまま、幼稚だ、未熟だと言われているようにしか受け取れなかった。だからもう、笑うしか出来なかった。
『でも、そっかぁー……お姉ちゃんといっしょじゃ、嫌かぁ~』
「ちがっ……違いますっ!!!」
『あら。そ~お?』
「そういう問題じゃないっ……KANAさんはきっと、俺なんかよりずっと価値ある人でっ……むしろきっと、身に余るぐらいのお話でっ……!!」
『でも、断るんでしょ?』
「――はい……すみ、ません……無理ですっ……俺、まだ守りたいものがあって……守って、あげたい人が、いてっ……」
『そう。羨ましい。いいわね……そういう人が手に届くところにいるって』
「はいっ……守らせてくれる人がいる、俺……きっと幸せ者、です」
『あら、ステキな言葉、聞かせてもらっちゃった♪』
KANAさんの声はずっとずっと揺らぐことなく明るくて、落ち着いてて。
俺はどれだけ助けられただろうか。
もうそろそろ立ち直らなきゃ、恥ずかしいって、そう思った。
「――すみ、ませんでした。取り乱しました……っ、もう大丈夫です」
『うんうん、男の子っ、頑張れ♪』
まるで頭をなでなでとされてしまっているような気分になってしまった。
『それじゃ、これからどうするの?』
「深山のこと……助けられる手段、最後まで探します」
『探せるの?』
「わかりません……でも、諦める理由も無いです」
『もう少し先までちゃんと考えなさい』
「っ! は、はいっ…………わからない。わからないのが俺の正直な気持ちです。現実的には……探しても見つからないのかもしれない。ダメなのかもしれない。でも――」
『でも?』
「――……もし、見つからなくても、もし探せなくても…………閉じ込められた深山の60日間を……少なくても、楽しくて、幸せな60日間にするぐらいなら、俺でも、きっと出来る……いや。必ずそうしますっ!!」
『はいっ、100点満点♪』
「…………何から、何まで……赤の他人なのに、すみません」
『もう……そんなつれないこと、言わないで?』
まるでもう赤の他人じゃないでしょ、なんて怒られている気がした。
「はい……では、KANAさん。ありがとうございました」
『あら。結局、命令は使わないんだ?』
「とても……正直、今は……これ以上、お世話になれません」
『ふふっ。じゃあ先の楽しみに取っておくわね、ご主人様~♪』
「っ!? か、からかわないでくださいっ……! ではまたっ!!」
『ええ……またね、孝人くん。……ごめんね?』
「え」
KANAさんから切断する形で、チャットは終了した。
俺もそのままソフトウェアキーボードごと操作モードを閉じて、改めて月を見上げた。
「……っ」
やはりどうやっても込み上がる、罪悪感。
目の前に、深山を救う選択肢はあったのに。
偉そうな正義を掲げていたというのに。
「深山……ごめん」
……反吐が出そうな、たまらない感覚が再び押し寄せてくる。
「――香田……っ、香田っ、香田っ……!!」
「あれ、凛子……あ、ごめん。置いてけぼりにしてて……」
ふと見れば、もう目の前まで凛子が駆け寄ってくれていた。
「香田っ、ぎゅ……って、しよっ……?」
「え」
「ぎゅーって……したいっ……したいよぅ……っ!!」
「どうしたの。急に」
目をうるうるさせて、俺に抱っこのポーズをしてねだる凛子。
もちろん俺は断る理由もなくて、そのまま頭を下げて凛子を迎える。
「香田…………泣かないでぇ……っ」
「――あ……ごめん。まだ泣いてた……?」
「私、香田みたいにはっ、何も出来なくてっ……香田が悲しい時に、優しくしてあげられなくてっ……ごめんねっ……!!」
「ううん……ありがとう。凄く嬉しい」
その代わりの気持ちは、この、ぎゅー……ってしてくれる心地よさが充分に補ってくれていた。もうこれで俺には充分過ぎるぐらいだった。
「凛子……守ってくれて。守らせてくれて、ありがとう」
「ひうぅ……えぐっ……それ、意味わかんない、よぅ……っ」
俺の代わりにいつの間にかわんわん泣いてる凛子を、そっと抱きしめ返す。
間違いなく、俺は幸せ者だった。
◇
『――香田君……お待たせしました』
「……あ」
それから……どれぐらいの時間が経過しただろうか?
いつの間にか夜空は東から白み始めていた。
何をするでもなく、ただずっと凛子と抱きしめ合ったまましばらくしていると、そんな深山からの通知が人工的な効果音と共に視界の下部に現れた。
「凛子。深山たちの話、終わったみたいだよ」
「ぐすっ……うんっ」
ぐじぐじと涙を手の甲で拭いながら凛子が俺の首から離れる。
「……」
ちょっと自分の右手を眺めて。
心の中でひとつの決断を明確にして。
「はい、凛子。行こう」
その右手を凛子に差し出す。
「うん……っ」
嬉しそうに、凛子も俺の手を取ってくれた。
そのまま俺たちはさほど離れていない深山たちの方へと歩き始める。
「あれ、岡崎」
「……うっす」
目を真っ赤に腫れさせた岡崎がひとり、こっちへと歩いていた。
いや、俺も凛子も人のことは言えないけど……岡崎はまた盛大に泣いたみたいだった。
「コーダ……サンキュ……すっきりしたぁ」
「そっか」
どんな話し合いをしたのかはわからないけど……少なくとも岡崎に遺恨はもう無さそうだった。力の抜けた、ふにゃっとした笑顔が印象的だった。
「じゃ、アタシ……これで帰るから」
「え? もうログアウトするのか?」
「うん……つーか、たぶんもうこっちには来ないかなって。あははっ」
「……そっか」
「サークラセンパイも、センキューっす!」
「別に私は何も」
「アタシなんか連れて来てくれて、マジ感謝っす!」
「……そうやって素直に感謝するなら、また乗せてやってもいいわよっ」
「マジっすか!? 実はアタシ渋谷まで行ってみたくて~!」
「そんな遠くまでとか無理に決まってるでしょっ!?」
「あっはっは!」
確かに凛子カーの時速では日帰りとか無理そうだ。
「んじゃ、そゆことでっ! したらば~っ」
またしても謎の別れの言葉を残して岡崎の姿は……淡い光となり、霧のように四散していった。
「――それじゃ、深山のところに行こうか」
「……うん」
まだ明けてない早朝の草原の中を、俺たちは並んで真っすぐに歩く。
「っっ……」
そして遠くに深山が見えた瞬間、凛子が身を硬くして突如立ち止まった。
俺を握るその小さな手から、緊張が伝わってくる。
顔は見るからに蒼白で……まるで恐怖しているようにすら見える。
その深山は、今歩いてるこの草原と鬱蒼とした森林の境目辺りでひとり座り、消えゆく夜空を静かに見上げていただけなのに。
「凛子?」
「ううん……ごめん……何でもないよ?」
小さく首を何度も振って、痛々しいほど凛子は微笑みを見せてくれる。
だから俺は、もうそれ以上問わない。
「深山……お待たせ」
「あ。香田――……君」
深山の、一瞬の笑顔。
そして俺たちが手を繋いでるのを見て、少し表情を曇らせた。
見れば深山も少し目を赤くさせて、ぐったりと消衰した様子を見せている。
……気の毒だなぁ、ってまるで他人事のように思った。
「お疲れさま……話、ちゃんと出来た?」
「え。あ、うん……仲直り……とはちょっと違うけど。お互いに言いたいことちゃんと言えて、もうわだかまりは無いと思う。ありがとう、香田君……」
「そっか。それは良かった」
俺はそれ以上は言えない。
「あの……香田っ?」
「うん?」
「あの……手、放そっ……?」
気を遣ってくれているらしい凛子のそんな言葉を無視して。
「深山。疲れているところ悪いけど……俺からも話があるんだ」
「え……あ、はいっ」
何も知らない深山は、姿勢を正して少しの期待と少しの不安が混じった珍しく複雑な瞳を俺に向ける。
「……」
俺はしばし、改めて自分の考えを確認して。そして――
「深山、ごめん。俺……この子と付き合うことにしたんだ」
「えっ……?」
――告白してくれた深山に、ちゃんと筋を通そうと思った。
固まったままの凛子の身体を抱き寄せて、その肩に手を置く。
「この子のことが、好きなんだ」
俺は俺の気持ちを正しく簡潔に、深山へと伝える。
揺れる、深山の瞳。
そして見る見る間に、潤んで歪む。
「――……うん……っ……気付いて、た……」
「そっか」
俺は中途半端な態度で深山と接することは出来ないと考えた。
こんな大変なタイミングに……と思ったけど、でも、凛子を引き合わせるならそれは避けてはいけないとも思った。
後回しにするほど、深山に失礼で残酷だ。
その結果、深山に変な期待をさせ……凛子まで傷つけてしまう気がした。
だから岡崎のことが片付いたら、真っ先に話そうとずっと考えて――
「――違うっ……!! 違うっ、これ、違うっ……!!!」
そう叫んだのは……凛子だった。
「違うっ、だめっ、こんなの違うっ!!!!」
「凛子……?」
正直……俺は、ショックだった。
まさか凛子が異を唱えるなんて、考えてもいなかった。
「ごめんなさいっ……深山さん、ごめんなさいっっ……!!!」
そして俺の手を振り解き、ワッ……と堰を切ったように泣き叫んでいる。
なぜか凛子が、深山へと謝罪していた。
「おかしい……っ……こんなの、誰が見ても、おかしいっ……!!! 誰が見てもっ、こんなのっ、香田と深山さんがくっつくべきだってそう思う……!!」
「凛子……どうし――」
俺の手も、声も振り払って凛子は叫ぶ。
「どう見たって、これっ、囚われのお姫様を助ける、王子様の物語じゃん……っ、お似合いのふたりでぇ……っ……私、ただの邪魔者でぇっ……!!!」
自分の胸を押さえ、ボロボロと大粒の涙を振りまいて凛子が叫ぶ。
「ごめんなさいっ、深山さんごめんな、さいっ……!!! 途中でっ、邪魔してぇ……途中でっ、私なんかの、ただの村娘がっ、あなたの王子様っ、奪おうとしちゃってぇ……っっ……ごめんなさいっっ……!!!!」
凛子が、わけのわからないことを、言ってる。
「こんなっ、こんなできそこないがぁ……っ……夢見てぇ……ごめんっ……!! 香田っ、優しいからぁ……っ……甘えちゃってぇ……っ……利用しちゃっ、てぇ……ほんとっ、ごめんっ……ごめんなさいぃ……っっ……!!!!」
「凛子――」
「――やあああっっ……!!!」
俺に一切の言葉を口にさせないつもりなのか……声を遮り、伸ばした手を振り払って、凛子が泣いている。泣き続けている。
「耐えられない、よぉ……っ、こんなのっ、こんなの耐えられないっっ!!! 私っ、深山さんを見た瞬間っ…………心の中で、潰れそうだったぁ……っ!! 姫、姫って、みんなにそう言われてるの、理解したっ……綺麗じゃんっ……すっごい綺麗過ぎてっ……もう、もうっ、私、惨め過ぎてぇ……っっ……!!!」
「凛子、話――」
「いやああっ、聞きたくないっ!!!」
「――いいから聞けっっ!!!!」
言葉を被せる凛子の言葉を、さらに強引に俺は被せた。短く叫んだ。
「俺は、凛子を選んだんだっ!!!!!」
「――――っっ……」
声を詰まらせて、震える凛子。
その場に座り込んで……泣き崩れる。
「やぁ……っ……ヤだ、よぅ……っっ……やだあっ……!!!! そんなのっ、香田が可哀想、だよぅ……深山さんも、可哀想だよぅ……っ……なんでっ、なんで途中で横から入ってきた、私なんかがっ……全部優先される、んだよぅ……っ!!! おかしいっ、こんなの絶対におかしいよううぅぅ……っっ……!!!!」
両手で顔を覆い、凛子は肩を狭めて繰り返し繰り返し叫ぶ。
それはずっとため込んでいた不安が爆発している姿だと、そう思えた。
「……それでも俺は、凛子を選ぶ。選んだんだ」
「それっっ、同情じゃんっ!!!!」
もうそれは、絶叫みたいだった。
誰の反論も許さない、そんな心の叫びだった。
「香田っ、優しーからっ……私のこと、放っておけなくてぇ……っ……いっつも、泣いてるしぃ……っ……責任、持って……くれてぇ……っっ……見捨てないで、くれてぇ……っ……!!!」
地面を叩く。
凛子はやり切れないように、その気持ちを地面へと叩きつけていた。
「でも、そんなの耐えきれないよぅ……っっ……私、耐え、切れないっ……!! 一生香田は、私に同情し続けてくれるのぉ……っ!? 一度同情したことでっ、一生、香田は責任取らなきゃだめなのっっ……!?!?」
もはや俺の言葉も届かない。
凛子は完全に心を閉ざし、その心から血を流すように叫び続ける。
「私っ、できそこない、なのぉ……っっ!!! 香田にっ、恋人らしいこともしてあげられないのぉ……ダメなのっ、身体、がっ、無理なのっっ……!!!! なにもかもができそこないでぇ……資格なんか無いのぉ……っっ!!!!」
その言葉は、深山に向けられているようだった。
そのまま地面にうずくまり、凛子は背中を丸める。
「ただ、汚く、てぇ……気持ち悪く、てぇ……めんどくさくてっ……えぐっ……こんな酷い子っ……香田、可哀想、だよぅぅ……っっ……!!!!!」
とうとう堪え切れず、それで凛子の独白は終わった。
後はただただ、泣き叫ぶばかりだった。
「凛子――」
「――やあっ!!!!!」
その泣いて震えてる小さな背中を触れようと手を添えた瞬間、まるで汚物に触れてはいけないと自らが立ち去るように、凛子が大げさなほど後ずさった。
もう凛子のあの整った可愛い顔はめちゃくちゃに泣き崩れてて。それを見た俺の心は痛くて痛くて、呼吸すら難しかった。
結局俺は――……凛子を、ただ、いたずらに傷つけただけなんだろうか?
自分のトラウマを埋め合わせるために、凛子を利用したのだろうか?
俺はただ、救ってあげたかった。涙を拭ってあげたかった。
「……」
――なのに、このザマかよ、と自分を罵り、絶望するしかなかった。
拒絶されてしまった俺は……もう、動けなかった。
どうして、こうなった?
俺は何を間違えた?
何が足りなかった? 言葉か? 努力か? 配慮か? 思いやりか?
……わからない。
八方塞がりのたまらない閉塞感が、俺の全身を包んでいた。
「――そっか……凛子ちゃん、大変だったんだ……」
「ふぇ……っ……?」
怯えて後ずさる小さな凛子を俺の代わりに抱きしめてくれたのは、深山だった。
「でも香田君の気持ちも、考えてあげよう? ね?」
「えぐっ……こ、ぅだ……のっ……?」
「そ。香田君……ほんとに凛子ちゃんのこと……好きだよ? ずっと香田君のこと見て来たわたしだからわかるもん。あんなに大切そうに……愛しそうにしてる優しい瞳の香田君……わたし、初めて見たよ?」
ぎゅっ、と背後から凛子を力強く抱きしめて包んでくれる深山。
「大丈夫……わたしが保証します。香田君は……同情なんかじゃなくて、ちゃんと異性として凛子ちゃんのことが好きです。間違いないです」
「ごめっ、みゃ、まっ、さん……ごめっっ……!!!」
「謝らなくていいよ……奪おうとした、なんてさっき凛子ちゃん言ってたけど、それはちょっと違うよ? わたしって勇気なくてね……もう1年以上、香田君に好きだって言えなくて。もじもじしちゃってね……だから、そもそもわたしより凛子ちゃんのほうが、立候補したのずっと先なんじゃないかな? だとしたら、わたしこそ凛子ちゃんの恋人、奪おうとしちゃったのかも……ごめんね?」
「ちがっ……私っ……まだ、この、数日、でぇ……っっ!!!!」
「――え。そうなんだ? じゃあ、もしかして同時かも?」
目をぱちぱちさせて驚く深山。
不思議だ……深山って、凄く不思議だ。
『ひょうきん』なんて以前に表現したこともあったけど、やはり深山はどこかいつも自然な愛嬌があって、あまり張り詰めた空気にならない。
それが今は、凄く救いだった。
「……ね。香田君?」
「え。あ、はい」
「香田君は……凛子ちゃんを、選んだんだよね?」
「……うん」
凄く悲しそうに、深山は微笑んでくれた。
「だって? どうするの、凛子ちゃん?」
「ヤっ……私……やっ……」
さっきまでの我を忘れたような号泣から少し落ち着いた凛子が、それでも涙を落としながら何度も首を振った。
「香田君のこと……嫌いなの?」
「好きっ……世界でぇ……一番、好きっ……!!」
「一緒にいたくないの……?」
「いたい、よぅ…………香田と、一緒に、いたいっ……」
「でも、恋人はいや? 耐えられない?」
「えぐっ…………ぅん……っ」
「どうして?」
「……香田っ……可哀想、だもんっ…………我慢させるのっ……ヤだぁ……」
「そっかぁ」
なでなで、と優しく凛子の髪を撫でて整えてあげる深山。
「そうなんだって、香田君。嫌がってるの、無理させちゃダメだと思う」
「……深山はどっちの味方なんだよ」
「うーん…………ほどほど良い感じ、の味方?」
テレ隠しにくすっ、と笑う深山。
俺は1年以上も前に弁論していたあの内容を今でも深山が覚えていたことに、ただただびっくりして。凛子も思うことがあってか目を丸くしていた。
「ねえねえ、香田君!」
「っ、はい!」
「やっぱりわたし、香田君のこと、好きですっ!」
「……いや、ごめん。さっき言ったけど、俺は凛子のことを――」
「うん。知ってます。でも、それでも好きです。そんなことぐらいで簡単に無くなっちゃうほど、わたしのこの気持ちはいい加減じゃないです」
そう言われても、俺は返答に困ってしまうだけだった。
「ね……凛子ちゃん。実はわたしってまだ全然、香田君に知ってもらえてないんだ。なのにもうフラれちゃったの。だからチャンス、くれませんか?」
「ふぇ……?」
「ずるいわたしは、香田君と凛子ちゃんがすれ違っているこの機会に、わたしを知ってもらって、アピールしてみたいと思ってるのだけど……許してくれますか?」
「う、うんっ……いいっ……いいよっ……香田のこと、メロメロにしてっ!!」
「やった! ありがとう、凛子ちゃんっ」
何か、勝手な話し合いが進んでる。
しかしメロメロって……何年ぶりに聞いた表現だろう。
「凛子……お前、何を言ってるんだ??」
「うーっ……だって……耐えられないんだもんっ……仕方ない、じゃん……」
さっきまでの我を忘れて泣き崩れていた凛子じゃない。
ちゃんと自覚をもって、視線を合わせず、ある程度冷静に答えてる。
だからこそ俺は……その言葉を聞くのがつらかった。
「深山さんなら……私……仕方ないって、思うし……どうやっても勝てないし」
「いや……さすがにそれは待ってくれよっ。俺の気持ちを蔑ろにしてないか? そんな勝手なこと言って、俺の気持ちはどうなる……っ!?」
「……ごめんなさい」
今度は深山が消えそうな声で謝罪してた。
確かにこれは深山を間接的に全否定する言葉だってわかってたけど。
でも……それでもとても看過できない。
俺が一番に優先すべきは、凛子のことだった。
「ぐすっ……じゃあ、香田の……気持ち……優先すればいいのっ?」
「……ああ、そうだ」
少し、光明が見えた気がした。
「香田……ごめんね……」
「え?」
それは本当に『気がした』だけだった。
「私……えぐっ……これから、香田に酷いこと……しますっ……嫌っていいから……ううん。私のこと、ちゃんと嫌ってねっ……!?」
「いや、絶対に嫌わないよ。……それで酷いことって、何だ?」
申し訳ないように眉を下げて、少し凛子は微笑むと――
「香田の本心を、この5分間だけ声に出して『差し出して欲しい』です」
――そう言い切られてしまった。
「っっ……!!!」
ここがEOEの世界だって、うっかり忘れていた。
耳を塞ぐほどの事前の心構えなんてどこにも存在してなかった。
「香田……ごめんっ、ごめんなさいっ……酷い質問、します」
「凛子、待て――」
「女性として魅力を感じるのは……私と深山さん……どっちですか?」
「えっ」
「――っっ……!!!」
ほんとにそれっ……酷い質問だぞ、凛子!?
――ああ、つまり俺、今……この瞬間。自分でそれを認めて――
「――い、いや、だっ…………答えっ、ないっ……!!!」
「もうそれ……答えじゃん……いいよ、香田……ちゃんと言ってあげて……?」
「だ、だから、可愛い、のは、凛子、でぇ……っ……」
血が出るほど噛みしめて、肉に食い込むほど自分の腕を握って。
俺はそういう声を音にして肺から絞り出していた。
「……嬉しー……ありがとう、香田……本当に、私……嬉しいっ……」
ポロポロと涙を落として。そして俺を追い込む。
「ね……香田……それで、女性として……魅力を感じるのは……?」
「――――深山、だよっっ……くそぉ……っっ!!!!」
俺はとうとう折れてしまい、吐露してしまう。
「っっ……!!!」
俺のその告白に息を詰まらせたのは、間違いなく言われた深山だった。
凛子はもっともっと悲しそうに微笑んで、言葉を続ける。
「性的に興味がある対象は、誰ですか?」
「深山だよっ、ああ、くそっ……深山としたいよっっ……!!!」
「あ、ぁ……ぅ……っ……」
今の今までまるで聖母みたいに優しい笑顔で凛子を慰めていたはずの深山が、その一言で顔を真っ赤にして涙を浮かべ、震えていた。
言い訳がしたい。
凛子へのペッティングは、凛子の心を癒したいからという気持ちが強くて。
凛子は俺を迎え入れられないから、俺はそれを期待しないように心にブレーキを掛けてて。
『だから』性的な欲望をぶつけないように心掛けている『だけ』なんだって。
深山のことは……深山のその体つきなんて別に、ただ、単純に雄として――
「……っっ」
……くそっ……深山も凛子の顔もそれぞれ違う理由で見られないっ……。
恥ずかしくて。申し訳なくて。気持ちが爆発してしまいそうだった。
「ね……深山さん……これが香田の本音。香田の気持ちだよっ」
もうボロボロに傷ついてるのに、凛子は肩を震わせながらも無理して微笑む。
「頼むよ……凛子っ……もっと、もっと凛子を選ぶ質問、してくれっ……可愛い人でもいいっ、好きな人でも、大切にしたい人でもいいっ……頼むからっ!!」
「ごめん……香田、ほんと……ごめん、なさいっ…………」
嗚咽を漏らし、深山の腕の中で再び泣き始める凛子。
……もう、滅茶苦茶だった。
収拾なんてつくはずもない。バラバラの気持ちの3人がここにいるだけ。
酷い有様だった。
しばらく……ただ、重い沈黙が続いて、目覚めたばかりの小鳥のさえずりだけが耳に届く。
「――ね……香田君……」
その沈黙を破ってくれたのは、また、深山だった。
深山の背後の森林の隙間から……暖かな朝の日差しが差し込んでくる。
「今の、この状況の中で一番『良い感じ』なのは……どんな内容、かな……?」
「え?」
「わ、わたしが言うと……ただの、わたしの願望でしかなくてっ……今だけは、ちょっと難しい、の……っ」
赤面して珍しく視線が泳いでる深山が、振り絞るように声を出していた。
「……わからない。ごめん深山……俺には落としどころなんて、見えてこない。そう言う深山は……何かあるのか?」
まるで言いたいことはあるけど、呑みこんでるみたいな言い方に聞こえた。
「で、でも――」
「いいから。ありのまま聞かせてくれ……」
「――う、うん」
覚悟を決めたように、瞳を伏せて深山がつぶやく。
「香田君は……凛子ちゃんが好きで、恋人にしたい」
「ああ、そうだ」
「凛子ちゃんは……それが耐えられない。恋人には、なれない」
「……ん」
俺たちはそれぞれうなずく。
「わ、わたし、はっ……香田君と……恋人になりたいっ……少しでも、近づきたい……」
改めて言われて感じる。
本当に見事にベクトルがバラバラな3人の関係だった。
「あの、ね……? 香田君、あのね? わたし、今から……変なこと言っちゃうけど……許してね」
「変なこと……?」
一瞬、当人同士の感情を完全に無視した、安易で都合の良いハーレム的な関係でも言い出すのかと思った。
でもすぐにそれは続く深山からの言葉で否定される。
「香田君は凛子ちゃんを選んだから……わたしは香田君の恋人になれないと、そう思うんだ……」
「……うん」
「――だから……あ、愛人、じゃ、ダメですかっ!?」
「は……?」
目が点になってしまった。
……何を言ってるんだ、この愉快なお嬢様は??
「ね、凛子ちゃんが恋人で、わたしが愛人っ! だめっ!?」
「うー……深山さんが恋人でいいよぅ……私……耐えられないよぅ……」
「それはだめ。香田君の気持ち、無視しちゃだめっ」
「だ、だってぇー……」
「じゃあ、どういう形なら凛子ちゃんの『良い感じ』になれるの!? どういう関係性なら、香田君と幸せでいられるのっ!?」
……ああ、そういうことか。やっとその突拍子もない提案の意図を理解した。
つまり深山は自ら『見本』を凛子相手に演じてくれただけなのだ。
現実との折り合いのつけ方の一例を。
落としどころの見つけ方を。
だから俺も凛子のその回答が気になって、何も口出し出来なかった。
「ど、どういう……形って……『良い感じ』って――……あっ!」
凛子が何かを閃いたように、声を上げる。
「香田が……ご主人様……!! そ、それならっ……しっくり、くるかも……」
またしても独創的なその提案に、続いてぽかんとしてしまう俺。
「……つまり凛子ちゃんは、香田君のメイドさん?」
「う、ううんっ……そんな可愛いのじゃなくていい……えへへ……香田のお弁当作ったり、お世話したりね……それで褒められて、なでなでしてもらえてっ……うん、そういうの、したいっ……そういうのだったら、凄くしたいっ!! えと……だから、その。召使い?」
「ええ~? 凛子ちゃん凄く可愛いよ? メイドさんでいいと思うけどなぁ」
「え、えへへ……深山さんに褒められると、香田の次に嬉しーかも……」
「いや。その。さすがにふたりともおかしいと思うけど……それはっ」
あまりの怒涛の展開に、めまいを覚えてしまう。
「香田君。ね、『良い感じ』は人それぞれ、だったよね? それは自分でしか決められないんだよね?」
「香田……私……これが一番『しっくり』くる……香田がご主人様だったら、私、凄く安心できるよ? 耐えられそうだと、そう思うっ」
「……」
情けない。
明らかな暴論だというのに、俺は上手い返しが何も見つからない。
「凛子ちゃん……それならこれからも香田君といっしょに、いられる?」
「うん……それなら私……きっと我慢出来る……だって、香田に一方的に迷惑をかけて、損させてばかりじゃなくてっ……私からも何か出来る。感謝してもらえる……役に立てられる! 香田の隣にいてもいいんだって、そう思えるっ!!」
明確な確信を得てしまったらしい凛子が、見違えて元気に話してくれる。
輝く瞳……それが何よりのダメ押しだった。
それを否定してまで成立出来る代案が、俺にはまったく浮かばなかった……。
「……いや、おかしいって、これ。絶対に上手く行くはずがないっ」
俺は知ってる。凛子の嫉妬深さも寂しがりやなところも。
例えば深山と俺がくっついてたりしてたら、凛子は絶対に調子を悪くする。
……深山は、どうなんだろうな?
「ねーっ!?」
「ねーっ!」
意気投合、みたいな奇妙なふたりを眺めて俺はため息ばかりが出た。
俺のこの気持ちはどうするつもりだと不満を言いたい。
でも、それはたぶん深山も同様で。
凛子も凛子なりに我慢して耐えることを選んでくれた。
3人が3人、少しずつ代償を支払って、譲歩し合っている。
酷く歪だけど、確かにそれで3人の関係はギリギリ成立して、一応のまとまりを見せた。
「……どうなるんだか」
呆れて空を見上げると、もう完全に朝が訪れていた。
この世界が朝露に濡れて輝く。新鮮な空気が俺の意識を覚醒させる。
「香田のお世話かぁ……うーっ、今から腕が鳴る~っ♪」
俺は、凛子のこの笑顔を守ったまま――
「あはっ。召使いさん、頑張って!」
――ゲームの中へと幽閉された深山に、幸せな60日間を迎えさせる。
……この先の努力目標は、たぶんそんな感じになるのだろう。
まるで曲芸のような相当な綱渡り状態になりそうだった。
「そういう深山さんもちゃんと愛人として、香田との子作り頑張んなきゃだめだよっ……?」
「えっ!?」
へ?
「うーっ……本当はヤだけど……凄くヤだけどっ、私にはどうしても無理なんだから、代わりを深山さんにだからお願いするよっ……? 香田をちゃんと満足させてあげてよねっ!?」
「は、は、はい……っ!!」
「――って、おいこらそこっ! 何を勝手なこと言ってるっ!?!? 深山もそこで良い返事しなくていいから……っ!!!」
まだまだ『ほどほど良い感じ』には程遠いけど。
強引で、愚かしく、酷く歪だけど。でも。
唯一、『別れたくない』という共通の気持ちだけを頼りに、俺たち3人はこうしてひとつの場所に集うことになった。





