#022 深山玲佳の物語Ⅰ
これはわたし――深山玲佳が、香田愛佳になるまでの果てしなく遠い道のりの、ほんの序章の物語。
「――……香田君……会いたい、なぁ」
夜空を見上げながら、わたしは何をするでもなくただつぶやいていた。
こんなにゆっくりするのは久しぶり。たぶん……2年近く前、なかなか熱が引かなくて苦しんでいたあの頃までさかのぼる。
当時の窓から見える冬の景色はあまりに変化に乏しく、読書ばかりしていた記憶しかない。そうやって色々な雑音を聞こえないようにしていた。
父からの寵愛。
母からの期待と失望。
わたし自身の苛立ちと焦り。将来への不安。
結局、体調はなかなか戻らず、わたしは『最も自宅から近い』なんていうつまらない理由を主にした滑り止めの学校だけを這いつくばるように受験し、そしてろくに勉強もしていないままあっさり入学してしまった。
そう……本当は落ちてしまえばいい、と思ってた。
こんな学校に入るぐらいなら。そして母の思惑を拒絶するなら。
――なんでこんな程度の低い学校、入ったんだろう。
だから入学した当初、私はその考えに囚われていた。
目の前にいる人たちがまるで下等な人種みたいに思えて、交わりたくないなんてことを内心考えてしまっていた。
この頃のわたしを、わたしは認めたくない。
無かったことにしたい。でも、それが事実なのだから仕方ない。
蓋をしては、ダメだ。
これは今のわたしを構成する大切な要素でもあるのだから。
そんな周囲の人間を『下等だ』と見下すわたしは、入院していた頃からずっとしていた読書を教室でも毎日続けていた。
そうすれば周囲の雑音から逃れられる気がした。
特に岡崎さんみたいに中身を空っぽにして、周囲と同調することばかりに苦心し、そして他人を嘲り笑うその姿は醜悪そのものだった。
『どうしてこんな学校に来ているのだろう』。
ため息ばかりのつまらない耐久の日々。
そう。つまりは楽しそうな岡崎さんたちに幼稚な嫉妬をしていただけなのだけど、それに気が付けないほど下等だった。わたしのほうが。
――そろそろ孝人君の話をしようと思う。
きっと孝人君が思っているよりずっと前から、わたしは孝人君を見ていた。
最初は……『怖そうな人』? ――ううん、目を逸らすのはやめよう。
わたしは最初、香田孝人というクラスメイトをこの学校の愚かさの象徴のように見ていた。
『何だろう、あの髪と目は?』。
嫌でも目立つその白黒ツートンの髪。色付きのコンタクトまでしている。もしかして格好いいとか思ってあれをやっているのだろうか?
理解できない。そしてそれを許容しているこの学校も理解出来ない。
曲がったことを絶対に許さない我が家の環境で育った当時のわたしからすると、まるで異星人とでも出会ったかのような衝撃だった。
どういう環境で育てば、ああいうことをやりたいと思う人生になるのだろう?
あれで何かから反抗している気にでもなっているのだろうか?
だとしたらそれはあまりにも愚かしい。幼いって見下していた。
――……あぁ、さすがに自分の浅はかさにうんざりする。
だからそれからちょっとだけ時を進めよう。わたしはまだまだ足りないや。
それからややしばらくして。
季節が春から夏に変わる頃には、わたしは『香田孝人』という人に対して勝手な親近感を寄せるようになっていた。
『窓際仲間』みたいな感じかな。
息をひそめて独りで読書をしているわたしと、いつも机の上でうつ伏せになって寝ている香田君は、昼休みとかでふたりきりで教室で共に時間を過ごすことが多かった。
もちろん隣に座ったり、話したりなんかしない。
ただ、自分の席で、斜め前に座る彼の背中を眺めていただけ。
『お互い難儀だね』なんて内心話し掛けることもあった。
その頃、いよいよ始まる。
最初は……昼休み。怖そうな上級生が数人、突然にわたしたち1-Aの教室に入ってきたことがキッカケだった。
香田君のその髪はなんだ、とそんな因縁。
つまるところ悪目立ちする香田君が標的にされたのだ。
香田君は特に抵抗するまでもなく教室から連れ出され、次の授業が終わると、血だらけになってボロボロな姿で戻ってきた。
……でも誰も声を掛けない。先生も見て見ないふり。
当然のように、わたしも。
それからは、香田君が教室内でも標的にされることが何度かあった。
露骨じゃない分だけ、陰湿でもあった。
香田君は抵抗する気力もないのか、全てをただ流していた。
あの一言だけを除いて。
『ふざけた髪をして』。
話の前後は忘れちゃったけど、難癖をつけていたクラスメイトがその一言を口にした瞬間、香田君の中で何かのスイッチが入ったのは明確だった。
彼は、決して殴ったりはしなかった。
その代わりに正当な主張を執拗なほど厳しく、鋭く、的確に叩きつけた。
たぶん入学の日とかに教室で先生からちゃんと説明があったのだと思うけど、でもその頃は体調がまだ戻ってなく休んでいたわたしは知らなかった。
彼のその髪は生まれついた先天的なものであって、好きでやっているわけじゃないと彼は淡々と静かに、でもこれ以上なく怒りを込めて暴言を吐いたその相手へと説明していた。
その間接的に『お前は差別主義者だ』と追い込む理論建てた主張に、わたしは気の毒とかの同情の念ではなく、『やるなぁ』みたいな感心の気持ちで聞き入っていた。
直感したのは『この人は頭が良い』ってこと。
実際の勉学の成績は知らなかったけど、でもそういうことじゃなくて。
自分を俯瞰で捉えてて、どんな対応が適切か瞬時に判断してたりとか、相手にとってどんな言葉が一番嫌がるかとか、そういうことをちゃんと考えてる様子に感銘した。そういう頭の良さ。
それで彼の思惑通り、事態は一応沈静化する。
……もしかしたらあれって、むしろ香田君が機会を伺っていたのかな?
派手に教室で唱えた彼の正当性のある主張は強烈なインパクトを残して、教室全体へのけん制に結びついた。
当然、わたしにもその効果はあった。
香田孝人という人の攻撃性を知った。
それはむしろ、わたしにとっては魅力的な要素として映った。
ああいう風に毅然とした態度で自らの正当性を唱えて相手を退けたい。
母をあんな風に退治できたら、どんなに気持ちがいいのだろう!
……さ。そろそろわたしの中で勝手な『香田教』が始まります。
「――ぼちぼち良い感じの話をしようかと思います」
鮮烈な切り出し方だった。
香田君はとてもつまらない小者からの意趣返しで、誰もが嫌がりそうな弁論大会の選手にさせられて、無理やり壇上に立たされて。
それで香田君のそんなふざけた――ううん、素晴らしい一言から弁論が始まった。
今でも一文字一句、全部覚えてる。
時間もあるし、久しぶりにしばらくはその記憶を黙って蘇らせようと思う。
「まず最初に、お詫び申し上げます。これから私は若輩者にもかかわらず妙に達観したことをふざけた口調でお話させて頂く予定です。きっと多くの先輩方からすると、とても耳障りな内容として受け取られるかと思われますが、何卒予めご寛容頂けたら幸いです。そしてこのような内容にも関わらず許可を下さった担任の新垣先生に心からお礼申し上げます」
深く一礼する香田君。
「――しかし私は、自分の自慰を他人に見せつけるような変態になりたくない」
『自慰』。強烈なその単語に一気に場内がざわつく。
「難しい言葉を羅列して理想的な綺麗事を並べて悦に入ることは実は簡単ですが、それって誰に向けての言葉なんでしょうか? 私は、言葉というのは相手に理解されてこそ発する意味があると思っています。伝わらないならそれはストレス発散の叫び声と何が違うのでしょうか? それって自分が気持ち良くなりたいだけの自慰にしか思えないのです。――だから俺は、そういうのをやりたくない」
その瞬間、彼のトーンが張り詰めた特有な主張者風の声から、一気に隣の席に座る友達のような声に切り替わった。
「こんな場所に強制的に集められて、時間を消費させられてるみんなにちょっとでも伝わる、ぼちぼち良い感じの話を俺はしたいです」
みんなが香田君の声に耳を傾けてるのがわかる。
『コイツ、何か違う』って気が付いてる。
『自慰だって!』と笑ってる人。不謹慎だと怒ってる人。
そういう人たちも全部ひっくるめて、香田君は話し掛けていた。
「味噌汁って、味噌を入れれば入れるだけ美味いものですかね?」
苦笑いする香田君。
笑うのを初めて見た気がした。
「……違いますよね。あまり入れ過ぎるとしょっぱいだけで最悪です。今朝、母さんが作ってくれた味噌汁を飲んでてそう思いました」
小さな笑い声が背後から聞こえる。まるで有名人のトークショーみたいな空気。
「味噌汁には、美味しいと感じるほどほど良い感じの適量があると思うんです。昔の人はそれを『良い塩梅』と言っていた。まさにそれ」
「……どうも世の中ってのは、極めることが美徳ってされがちだ。常に絶えず全力で挑むことこそが美しい、正しいって教えられることが多い」
「でも、それって本当にそうなんですかね?」
「むしろ味噌汁と同じように、俺たちが励んでるスポーツでも、勉強でも、ほどほど良い感じに手を抜いて、ぼちぼち良い感じに楽しむべきだと俺はそう思う」
「このままだと怒られてしまいそうなんで必死に言い訳しておくと、つまりそれって、必要以上のハードな練習はむしろ身体を傷めるだけだし、過度に詰め込んだ受験勉強で体調を崩して、試験当日に寝込むような馬鹿をやるなって、そう言いたいわけです」
最後のその一言で、わたしは自分のことを言われた気がして、カッ……と頬が紅潮していくことを自覚した。
「自分の調子を見て、ほどほど休んで、ペースを整えて。そうすることで、むしろ倒錯的にガムシャラに走り続けるよりずっと早くゴールにたどり着ける場合があることを俺は伝えたい」
「……ほどほど。ぼちぼちでいいんだよって、伝えたい」
いつの間にか、わたしは、魂が吸い寄せられて行く気がした。
彼のその言葉に救われた気がした。
「大切なことはひとつ。どういう味噌汁が美味しいかは、自分にしかわからないという事実を知ること」
人差し指を上へと向けて強調する香田君の姿は、ステキだった。
「勉強しろ、もっと頑張れって言ってくる人たちを邪魔者扱いしちゃいけない。きっとその人たちなりに心配してそう言ってくれているだけなんだから。そのアドバイスが自分にとって不適切でも仕方ない。だって言ったように、どういう味噌汁が美味しいかは、自分にしかわからないのだから。心配して声を掛けてくれるだけ有り難い話なんだ」
そこで一息、大きく呼吸をする香田君。
「――だから、他人のせいにするな」
わたしは思わず小さくのけ反ってしまう。
彼の一言一言が、心に入っていくのがわかる。
「大人はわかっちゃくれない、とか甘えたこと言うな。わかってくれないんじゃない。どうやっても『わからない』んだ。仕方ないんだ。俺たちの似合う髪型を親が決めてくれるのか? 服のコーデを親に決めてもらうのか? 違うだろ? 自分でなきゃ決められないだろ? 自分で決めなきゃ、意味がないだろ?」
「だからひとりひとり違う自分にとって一番の、ぼちぼち良い感じのバランスは、ちゃんと自分で決めろ」
「サボってばかりで怠けるならそれでいい。それがお前の『良い感じ』なんだし、それ相応のサボった人なりの人生を歩むだけだ。血が出るほど努力してもいい。それがあんたの『良い感じ』なんだし、それで怪我しても誰にも文句言わせないし、自分でも納得出来るだろ」
「つらいなら休んで、物足りないなら努力して。そうやって自分で自分の『ぼちぼち良い感じ』を探して欲しい。それを他人に求めちゃだめだ。きっと父さんが選んでくれたアウターみたいにきっとダサくて着られないことになる」
いつの間にか会場のいたるところから笑い声が聞こえてきて、それでわたしはびっくりして我に返った。いつの間にか呆けるほど、彼の言葉に聞き惚れていたことに気が付いた。
「――それがきっと、自主性……ってヤツだと思う。みんなひとりひとりに、最高に美味い味噌汁がみつかることを心から祈ってます。以上、ふざけた話をして失礼しました」
「あと最後に。誕生日にアウターを買ってくれた父さん、ありがとうございます。すげー嬉しかった。忙しい中で朝食を用意してくれてる母さん、いつも美味しい味噌汁をありがとうございます。これはただの例えなんで、どうか気にしないでやってください。……俺は幸せ者です」
一礼をする香田君。間違いなくこの日一番の拍手が起こる。
わたしもいっぱい拍手した。
…………なのに結局、彼は5位だった。
「コーダのヤツのG、超ウケたわぁ……Gって! ぎゃはははっ!!」
会場からの帰り道、岡崎さんのその一言にわたしは形容しがたい感情が溢れた。
……どうしてみんなわかってくれないの? あんな凄い話、してくれたのに、なんで5位なのって、わたしは強く憤慨していた。
こうしてわたしはこの日、香田教へと勝手に入信を果たしたのだった。
わたしは、わたしの幸運に気が付いた。
不満だらけの滑り止めだったこの学校は、実はわたしの『ぼちぼち良い感じ』の授業内容だった。
香田君の髪や、あの弁論大会の内容を認めてくれるような寛容な校風は、実はガチガチに縛られていた家庭環境のわたしからすると凄く居心地が良かった。
そして香田君と同じクラスだった。
……こんな幸運、そうは無い。
『ほどほどで良いんだよ』。
香田君の言葉が何度も何度も心の中で蘇る。その度に涙が溢れる。
もっともっと、と厳しく際限なく求められて苦しんでいたわたしを救ってくれていた。
わたしに、親の考えと自分の考えが違っても良いことを教えてくれた。
親と対峙して話をする勇気を与えてくれた。
心から香田君を尊敬する。
まるでもう、神様みたいだった。
そして神様は言う。
『自分で決めろ』と。それは神様に縋るな、と言われているように思えた。
だからわたし――深山玲佳は、変わることを決めた。
今のこの状態はわたしにとってまだ『良い感じ』ではない。
もっともっと、自分の心と対話して、自分にとっての『良い感じ』を探す。
秋の気配がひっそりと漂う10月の上旬、わたしはそう決断した。
――だからむしろ、ラッキーだった。良いキッカケだった。
前々から腹立たしいと思っていた岡崎さんが露骨にわたしを攻撃してくれておかげで、わたしも全力でぶつかることが出来た。
香田君を参考に、徹底的に、理論的に、逃げ場を作らず相手を追い込む。
そしてその立ち振る舞いを周囲に誇示して、わたしを知らしめる。
馬鹿にされないよう、みんなと同じように香田君以外の全てのクラスメイトを呼び捨てにした。
おしゃれにももっと気を使って、みんなからの評価を得る。
……あ。ごめんなさい。ちょっと嘘だから訂正。
香田君に振り向いて欲しくて、おしゃれ頑張りました。それが本音かな?
そう、わたしは自分の心と正しく向き合うことにした。
長いこと隠してきた自分を変えた。
汚いと思う部分に蓋をして必死に隠すほど、自分の中の『良い感じ』が見えてこないことに気が付いたの。
そしてその隠す方角に突き進んでしまうと、最終的に父や母みたいな人間になってしまう気がしたの。
違う。わたしは香田君みたいになりたい。
あの先天的な髪や瞳を隠すことなく、でも必要以上に肩肘を張らずにごく自然に教室の中で、平安な日々を眠って過ごす香田君みたいになりたい。
きっと香田君の『良い感じ』って、静かに暮らすことなんだと思う。
穏やかに、平穏に。
一見すると孤独だけど、実は陽だまりのように温かい感じ。
わたしは違う。
香田君のマネではなくて、香田君みたいになりたい。
そこを履き違えちゃダメ。
わたしは、香田君にわたしがここにいることを知って欲しいと思った。
まずはそこから始まった。
尊敬する神様みたいな香田君に、認められたい。
そして香田君の考え方が正しいと、もっと認めてあげたい。
その心が……尊敬が恋に変わるのは、そんなに時間を必要としなかった。
香田君は、すでに代替えがきかない唯一無二の存在になっていた。
――冬。
どうしたら香田君に振り返ってもらえるだろうって、必死に考えた冬。
めいっぱいにおしゃれして、目立つようにまた勉強を集中しはじめて。
そして体調を崩して、寝込んで。やっぱり苦手な冬。
あまり意図したことじゃなかったけど……皮肉なことに、わたしのまわりにはいつの間にか多くの人が集まるようになっていた。
相対的にわたしの価値が香田君から見て上がったように思うから、悪くはないのだけど……でも逆効果ももたらされた。
より香田君との距離が遠のいた気がした。
孤独を愛して日々を静かに暮らす香田君と、人の輪の中心に立つわたしとじゃ、接点がどうしても持てない。
これなら半年前、窓際仲間だったあの頃のほうがずっとマシだった。
違う。こんなはずじゃなかった。全然『良い感じ』じゃない。
……でもどうしよう?
おしゃれの手を抜くべき?
みんなから嫌われるような行動を取るべき?
違う。それは違う。
そんなみずぼらしいわたしを、香田君はどうして評価するというのか。
わたしはちょっと袋小路に入ってしまった。
その突破口の一つが、香田君を守ることだった。
どうしても目立ってしまう香田君は、あれからも何度かやはり標的にされそうになってて、それをわたしが抑制する。
守ってあげたいという気持ちは当然あるし、そうすることでわたしを知ってもらえるという打算も当然ある。というか自分の心と向き合うなら、ほとんどそれが目的と言っていい。
そして、その日が突然訪れた。
「――深山さん、いつもありがとうな」
放課後、いつものようにさり気なく香田君とすれ違いながら、皆と一緒に別れの挨拶を交わそうとしていると、そう一言、少し困ったように微笑みながら、香田君が話し掛けてくれた。
名前、ちゃんと憶えてくれていた!
そのことが嬉しくて嬉しくて、仕方なかった。
『深山さん』と呼んでくれる香田君の言葉が愛しい。
何度も何度も自分の中で記憶を蘇らせ、反芻を繰り返す。
憧れの混じったささやかだった恋は、加速する。
もっと見て欲しい。もっとわたしのことを知って欲しい。
その想いは募るばかりだった。
そうして悶々としたまま、長い冬休みに入ってしまう。
――お正月。わたしは香田君の家の前に立っていた。
初詣で着た振袖が可愛くて……見て欲しくて。
あと数センチ指を伸ばせば呼び鈴が鳴って、香田君はきっと出てくる。会える。
きっと驚かれる。そして……引かれてしまう。
結局は呼び鈴のボタンを押すことも出来ずに、そのまま帰ってしまった。
香田君に会いたい。香田君に会いたい。
その日の夜は、特別にそう強く思ってしまった。
切なくて切なくて……どうしようもなかった。
とある言葉が不意に頭に浮かぶ。
汚くて、卑劣で、矮小な行為を表す言葉。
でもそれはあの日、弁論大会で香田君が口にしていた言葉。
香田君は平然と口にしていた。
香田君は『それ』を知っている。
つまり香田君は……『それ』をしてる?
「……っっ」
――そうしてわたしは、初めて『それ』を実感した。
それからの妄想は、決まって香田君のことばかりだった。
妄想の香田君はいつからか現実と乖離を始め、まるで獣みたいな『考人君』がわたしの中で誕生した。
卑怯で汚らしい劣情に執着してしまった。
わたしのこと、ちょっとは興味ないのかな?
強引なこと、してくれないかな?
……どこまで行ってもわたしは受け身だった。
それは結局、わかりやすい理由が欲しかったということなのだろう。
香田君がわたしの隣に座って、恋人同士になるイメージがどうしても浮かばなかったからだ。
それはそうだ。
こうして友達にすらなれないぐらいの距離感なんだから、それは当然。
だから卑怯なわたしは、安易にそこに答えを求めた。
興味のないわたしにでも、欲求を満たすためなら接点を持ってくれるだろうとわかりやすく想像出来た。
強引なことをされたい。
それはその分だけわたしのことを強く求めてくれている確かな実感になる。
女の子として魅力的だと証明してくれる。
それが欲しい。
どうしてもどうしても欲しい。
妄想の中の獣のような『孝人君』は日に日に過激なふるまいをしてきた。
……本当に酷い。香田君への罪悪感に苛まれるけど、でも、止まらない。
汚らしい自分をいくら侮蔑しても、それでもこの込み上がる衝動に抗えない。
それでようやくわたしは自覚した。
もしかしたら、わたしは人よりそういう欲求が強いのかもしれない、って。
――深山姫。
何が姫だ、とその名称を嫌悪する。
こんな汚れた存在、そうはいないと思う。
香田君へのあこがれと罪悪感が止まらない。
強引なことをされたいと願いながら謝る自分は、もう支離滅裂だ。
だから、まずは清い友達になりたいと思った。それが今年の春。
このギャップを埋めて、チグハグな自分を整えたい。
現実の香田君と乖離している妄想の孝人君を近づけたい。
友達になって会話とか自然に交わせるようになれば、この倒錯的な妄想も収まってくれるに違いない。もう香田君を汚さなくて済む。
香田君に幻滅されてしまうようなこと、しなくて済む。
今までどこか恥ずかしがって物陰からこっそり見ていた香田君を、この頃から真っすぐ正面から見るようにした。
それはもしかしたら自分に『友達になりたい』という真っ当な答えが出来たからかも知れない。
こっちを見て欲しい。わたしを見て欲しい。
基本的には半年前から何も変わってないけど、アイコンタクトを送り続ける。
たまに視線と視線がぶつかる時があって……カッと身体が火照ってしまうけど、それでも恥ずかしがらず、わたしは視線を動かさない。
『友達になりたい』。
送り続ける無言のメッセージは……でも、なかなか届かなかった。
もっと、具体的な取っ掛かりが欲しい。
どんな趣味なんだろう?
どんな音楽を聴くのだろう?
……どんなに毎日眺めて観察しても、なかなか情報が得られない。
そんな苛立っているわたしに、好機が訪れた。そう、つい先日のことだ。
知らない男子が香田君とからんでいた。違う学校の生徒らしい。
困っている様子の香田君。
だからいつもの調子で最初は助けてあげたいと近づいたのだけど。
心配になって公園までついて行ったのだけど。
そこで知る、香田君の意外な側面。ゲームが好きらしい。
それなら一緒に遊んだりとかできるかも!?
そしてその原口と呼ばれているガラの悪い彼と今夜、イベントみたいなのに参加するらしい。
それに私も参加して、偶然そこで会ったみたいにすれば――……完璧だ!
わたしはずっとこういう機会を待っていた。
その結果は……あの有様。
利用してしまった3人から恨まれるのは当然の報いだと思うから、それは甘んじる……怒ってくれた香田君には申し訳ないけど、問題はそこじゃない。
わたしだって……恋する女の子なんだから。
最も重要で深刻な事態は……わたしの醜い部分を香田君に曝け出してしまったそのことに違いない。
香田君に『考人君』の妄想の中身を伝えるって、正気の沙汰じゃない。
本人に、あんなこと……告白して。
あぁ……死にたい……。
なのに香田君は『普通のことだよ』って受け止めてくれて。
それは、夢のような地獄でした。
現実の香田君は、想像よりずっと柔らかでした。
思慮と造詣の深そうな落ち着いた話し方はそのままだったけど、もっと大人びてて優しくて、まるでエスコートしてくれてるみたいな配慮の数々。
その結果……わたしはもっと戦うことになった。
こんな紳士的な人を獣みたいに妄想していた罪悪感や。
もっと怒りに任せて、わたしを強引に――なんて、身勝手な期待をしてしまう自分と。
本当にわたしは最低だ。
この期に及んで、それでも香田君からの何かに期待しちゃっている。
好意を抱かない相手からの欲望の押し付けほど気持ち悪いものはないって、私自身もよくわかっているくせに。
わたしのことを好きらしい高井君からいやらしい目で見られるだけでもあんなに嫌な気分になるっていうのに……。
わたしのやったことは、そんなもんじゃない。
脂汗をかいている中年のおじさんがハァハァと息を荒げながら「玲佳ちゃん、愛し合おうよ」なんて言い寄ってくるようなものだ。
それだけじゃない。実際に身体を押し付けて来て、そのまま――……ああ。もうその発想をやめよう。
いかに自分が醜い行為を香田君にしてしまったのか、これ以上なく思い知らされて、本当に死にたくなっちゃう……。
「はぁ……」
ズブズブと深くまで潜っていた思考を少し止めて、夜空をわたしは見上げる。
わたしの知らない星たちの集まる、不思議な夜空。
わたしは今、EOEと呼ばれるゲームの中に閉じ込められています。
「香田君に……会いたい、なぁ……」
あんな酷い告白をしたのに。嫌われて当然な醜い行為の事実を伝えて。
その上、最低の行為まで実際に重ねて……迷惑を掛けて。
なのにそんな期待の言葉を平気で言ってしまうわたしだった。
本当の香田君と触れ合って、もっと私は恋をしてしまった。
あの、包んでくれるような感覚を知ってしまった。
あの優しいささやきを。あの大人びた笑顔を。あの愛しいしぐさを。
「ううぅぅ――……っっ……」
そういう想像をしたことは無かった。
包むように手をからめとられて、抱き寄せられ。
そして優しく優しく――あああっ、ストップ! だからわたしっ、ストップ!!
「――~~~っっっ……!!!」
ぎゅー……っと、押し寄せる衝動にわたしは自分の身体を抱きしめて耐える。
頭がぽー……っとしてくるけど、左右に振って自分を取り戻す。
「もうしないっ……!!」
もう遠い存在じゃない。
妄想じゃなくて、香田君はそばにいてくれる。
だからもうわたしは、幻滅されちゃうような妄想はしない。考えない。
「か、考えない、は……ちょっと、無理、あるかなぁ……あははっ……」
さっきから優しく抱き寄せられて手を絡め合う妄想がなかなか止まらない。
『深山、深山』って繰り返し呼んでくれて妄想の中で香田君がわたしに夢中になってくれる。
香田君の『深山』って呼んでくれるその音が大好きだ。
ちょっと『や』が小さくて、『みゃあま』みたいになってるのが可愛い……。
「はぁー……あぁ、もうっ!!」
強引に息を吐いて、改めて身体を起こすとそのまま正座する。
もう決めたの。もう、しないの。
幻滅されちゃうような妄想は、もうしない。
これは無かったことにして目を逸らすのとは違う。
ちゃんと向き合って、その上で抗うだけ。
わたしは、香田君に好かれるその努力だけに集中したい。
「まだ……何も知ってもらってない……もの」
そう。香田君はまだわたしのことをほとんど知らない。
わたしばっかり盛り上がってて、馬鹿みたい。
好きになってもらうには、まず知ってもらわないと。
『こんなわたしですが……ダメですか?』って紹介しなきゃいけない。
まずはそこまで行って、それから今の苦悩の続きをしよう。
「……ダメ、なのかな」
わたしが汚いとか醜いとか、それ以前の問題。
冷静になれば、むしろなぜ今までこの発想が無かったのかと自分を問い詰めたいのだけど……そもそも私は恋人の候補にもなれないのかもしれなかった。
キッカケは、原口とかいう人のあの一言。
『これ、コタコタの今の彼女?』
「今の、か……」
つまりあの幼馴染らしい人の言葉を信じるなら、香田君の過去には彼女がいたことを意味しているように感じた。
考えすぎかもしれないけど、でもそうじゃなきゃ、ああいう表現にはならない気がした。
……ううん。それはいいの。気にしない。
そうじゃなくて――
「――彼女、いるのかなぁ……」
あんなステキな人に彼女がいないほうがむしろ不自然だ。
どうして今までそう考えなかったんだろう?
教室で誰とも会話しないから? そんなの、別のどこかに恋人がいるから、他の出会いを排除しているって、考えられないの?
「……ぐすっ」
うらやましい。
まず最初に出て来た感情は、それだった。
香田君からの愛を一身に受けるって、どんな感じだろう。
香田君が夢中になってくれて……求められる人って、どんな人だろう。
もういっそ、香田君に直接聞いてみようかな……?
「はぁー……香田君に、会いたいなぁ」
もう一度、夜空に向けて同じようなセリフをつぶやく。
とっくにEOEのマニュアルも読破しちゃって、他にやることのないわたし。今夜はずっとこんな調子だった。
きっと香田君はこうして待っていれば、いつか迎えに来てくれる。
信じてる。
勝手に信じて期待するぐらいは、わたしの自由だ。
――ピッ。
「え?」
そんな絶妙なタイミングで、何かの電子音が耳に届く。
ううん、耳じゃなくて頭の中に届く。
期待してしまって、なかなか落ち着いて目を閉じることが出来ない。
『通知:香田孝人 さんがログインしました』
「――っっ……!!!」
そのブックマークからの表示を目にした瞬間、わたしは慌てて立ち上がった。
左上のマップの縮尺を手早く変え、白色の表示を探す。
「香田君っ……」
ここから北西へほんの2キロぐらい。
それを確認するとわたしはすぐに駆け出していた。
――凄い。EOE、楽しい!
わたし、全力で走れてる! 全然息が切れない!
まるで翼でも生えたような気分だった。
どこまでも走っていけるような気がした。
走る。わたしはひたすら走る。
「……嬉しいっ」
自然と笑顔になってしまう。
やっぱり迎えに来てくれた!
またお話が出来る! もっと香田君のこと、知ることが出来る!
わたしのことを知ってもらえる!!
「香田君、香田君っ!」
霧も晴れてくれて、遠くに香田君の姿が見える。すぐにわかる。
月の光に反射してあの銀色の髪が綺麗に輝いている。
――ピッ。
『深山、起きてる? ごめん遅くなった』
駆け寄るわたしの視界隅に、そんな香田君からのメッセージが届く。
お返事したい! でも待てない――
「香田、くぅんっ……!!」
――わたしは嬉しくて仕方なくて仕方なくて、全力で香田君に抱き付いてしまっていた。
「うわっ、み、深山ぁ!?」
「香田君、香田君っ、香田くぅんっっ……!!!!」
香田君の感触。香田君の声。香田君の匂い。
夢のようで、どこかに消えてしまいそうで、離したくない。
この大きな胸の中から、もう離れたくない。心からそう思う。
「会いたかった……会いたかった、ようっ……!!」
こうしてわたし――深山玲佳の本当の物語はようやく始まった。
停まっていた時が動き出す。ゆっくりと軋みながら錆びた歯車が回り出す。
そして。
「――深山、ごめん。俺……この子と付き合うことにしたんだ」
「えっ……?」
それはとても前途多難な、長い長い物語。
今はまだ、その序章。





