#020 暗い駐車場の片隅で(後編)
「ねっ……ねっ……触って、欲しいよぅ……っ……」
切なげに懇願する凛子の声を聞いて、頭の中が真っ白になってしまう。
クラクラとしてしまう。
『あの可愛い凛子の胸を、直接触る』。
もうそれ以外のことは、ほとんど何も考えることが出来ないでいた。
「――いや、違う……これ」
しかしその欲望に反して、無理やり絞り出すような俺の一言は、それだった。
「え。あっ!? ごっ、ごめっ……!!!!」
自分が何かやらかしたのだと勘違い――いや、勘違いでもないか。
とにかく我に返り、顔を真っ青にして震える凛子。
まだ上手く頭も回らないけど……とにかく適切な言葉が必要なのは間違いなかった。
「そのっ……それはちょっと一線、越えてるっていうかっ……」
『俺たち、昨日リアルで初めて会ったばかりだし』なんて言葉が続きそうになって、それだけは慌てて引っ込めた。
大切なのは時間の長さじゃない。
それは昨日、凛子に言われて俺も納得したことだった。
「……目的が、完全に変わってきちゃう、というべきかっ」
そう、これはあくまで凛子の心の傷へのケア。
もはやただの建前だけど、でも、それでも……そこを崩しちゃうと完全に俺は止まれそうに無かった。
「――……気持ち悪い、こと言って…………ごめん、なさいっ」
凛子が身体を震わせ、顔をうつむかせている。
「え。あ、いや。違う……全然気持ち悪くなんかないよ!?」
正直驚いた。
そんな極端な単語が出てくるとは思いもしなかった。
「だ、だってぇ……香田、引いてるし……っ」
あまりに不安そうな凛子のか細い声。
ふぅ、と息を吐いて俺は覚悟を決める。
目の前にいる凛子と、そして自分の心……その両方と真っすぐに向き合うことにした。
「改めて言うよ。気持ち悪いとかそういうことじゃない。まったく反対。あのままじゃ俺、自分を抑えられる自信が無くて、怖くなっただけ」
「自分を……抑える……って?」
問われて軽く言葉を詰まらす。
そうなのか。
凛子はこれぐらいの説明じゃ伝わらないぐらいの無垢な女の子なのか。
じゃあこれ……どう表現すれば良いのだろう?
嘘つかず、変に飾ることなく――あぁ。もういいや。
事実をありのままに伝えよう。
それぐらいの信頼関係は築いていると、信じよう。
「あのままだと、俺の身体が凛子と子供を作りたいって、勝手に暴走しそうだった……」
こういう表現が正解かはわからない。
でも少なくとも、間違いじゃない。そう思う。
「ふえっ!? で、でもっ、私……そ、そんな凄いこと、言ってないよっ?」
途端に顔を真っ赤にして大げさに驚く凛子。
「凛子相手だから、そんな程度でもメチャクチャ興奮したってこと!」
「あ、あ……ぅ……」
ちょっと刺激が強すぎたのだろうか? ふらふらと頭を泳がせて泣きそうになってる凛子。そして。
「作る……私も香田との子供、作るっ」
「わけわかんない答えに辿り着くなっ!」
「うー……」
「どうせ作り方も知らないくせにっ」
ただの勢いで、顔を真っ赤にさせて俺はそう口にしてしまっていた。
「――……私、18歳だよ……? 知らないわけ、ないじゃん」
「え」
「香田は……私のこと、どんな風に見てるの? 無垢な子供って?」
「ごめん。失礼なことを言った」
凛子の地雷を踏み抜いたことをワンテンポ遅れて俺は気が付いた。
初めて凛子が明確に俺へと怒ってる。
悲しかったり自虐したりじゃなくて、真剣に怒ってる。
「いいよ……そう思ってるなら、正直にそう言って? 内心で違うこと考えてるのに、聞こえのいい言葉を選んで話されるほうがつらい……」
「……うん、わかった」
「それで香田は、私のことどんな風に見えてるの? やっぱり、無垢な子供?」
「全然そんな風に思ってない。魅力的な女性に見えてる」
「…………じゃあ、どうして『知らないくせに』なんて言葉が出るの?」
「凛子は『子供』って部分に囚われてるよ」
「仕方ないじゃん……私、こんな体型だし……で、できそこないだしっ……」
『できそこない』。
物凄く嫌な表現で、内心腹が立って、俺は思わず眉を顰めた。
「だからそれ。そっちに拘り過ぎて、話の全体が見えてないだけ」
「…………ごめん。わかんない」
「だから凛子の懸念してたもう半分のほうが理由。ごめん、これは本当に失礼なのかもしれないけど、凛子は汚れをしらない無垢な人だって、そう考えていた。――いや、今もそう思ってる」
必死な俺は、一気にまくし立てるように話して説得する。
力が入ると長文になってしまうのは俺の悪い癖だった。
「どうして……そんな風に考えるのっ? 私、酷くて、汚れてるよ……? 私の中身って本当は凄く気持ち悪いんだよ……?」
「いや、綺麗だと思う」
「だから、どうしてっ!」
あまり俺自身には向けられた覚えのない、鋭い凛子の視線。
「違ってたら謝るよ。でも今までの話し方からして……凛子ってあまり『そういうこと』に興味が無いというか……知識が少ない気がした。だから俺からすると、清らかで無垢に見える」
「っ……!!」
図星だったようだ。
二の句を告げられず、全身をわなわなと震わせる凛子。
「うー…………こんなめんどくさい子で、ごめん……」
凛子の心の傷は……想像を絶するほど根深い。
どうしてそこまで自分を卑下するのか、これだけ話を尽くしても未だにまったく理解出来なかった。
「ごめん。俺が悪かったよ」
「ううんっ……香田は……優しから」
優しいから嫌々ながら凛子の胸に手を置いていたって言いたいのか?
俺、そんな聖人君子じゃないって。
「はぁ……」
全然上手く行かない。
いたずらに凛子を傷つけてばかりだ。
自分の力の無さを痛烈に思い知る。
「どしたの……?」
「いや。別に」
俺までこれ以上に懺悔と自己批判にハマってしまっては、それこそ凛子とふたりでズブズブとどこまでも墜ちてしまいそうで、だからそう踏みとどまった。
「……うん」
凛子も凛子で後ろめたく感じているのか『何でも話して』という感じのいつもの調子は出てこなく、そんな当たり障りの無い返事をするだけ。
正直、あまり良い傾向じゃないと思う。
でも力の無い俺には、もう手立てが無かった。
「…………」
「……」
そして、しばらくの沈黙が続いた。
俺はただ自動車の低い天井を見上げるだけ。
誰か、この酷い状況を救ってくれ――なんて無責任に内心でぼやいていると。
「――……うん……これ……ちょうどいいや……えへへ……」
「……ん? ちょうどいいって?」
途方に暮れていた俺へと、凛子のそんな独り言が妙に明るい声で唐突に届いてきた。
「もう……いっそ、全部、知ってもらおうかなぁ」
「凛子?」
静かな笑顔でちらりとこっちへと振り向く凛子。
その違和感に、俺は密かに心をざわつかせていた。
「ね……確認」
まるでさっきと別人。
完全にこっちを向いて、少し挑発的な表情で身を乗り出してくる凛子。
垂れてくる後ろ髪を手の甲で掬い上げているポーズが、妙に大人びていた。
「確認、って?」
突然の展開に、俺の心がついて行けない。
「香田……私と子供作りたいって、それ、本当?」
「…………身体が勝手にそういう反応しそうになったのは、本当だよ」
それを聞いて優しく微笑む凛子。
「うん……私も、香田と赤ちゃん、作ってみたいなぁ……」
「っ……!!」
俺は『身体が反応しちゃった』という感じで本意じゃないみたいに逃げたのに、凛子はストレートにそう言ってくれた。
あまりに真っすぐ伝えてくれてて……だから言い訳していた弱い自分が今さら恥ずかしくなってしまう。
「…………その、ごめんなさい……」
凛子が助手席のシートの端に膝を立て、座っている俺を見下ろした。
「ごめんって、何が?」
「私……たぶん、無理なの」
「え」
悲しそうに凛子が、つぶやいた。
「私の身体…………そういうの、絶対に無理そう、なのっ……」
具体的にどこがどう問題なのか、知識のない俺にはわからなかった。
でも直感して思う。
凛子のこの言葉はきっと単なる思い込みなんかじゃなくて……何かの具体的な根拠があるのだろうって。
そして凛子の『無垢さ』の理由に繋がった。
興味がないというより、知りたくない。現実を直視したくない。
……そんな心の作用が無意識に働いて、今まで自分から可能な限り遠ざけていたのだろう。
『胸を揉む』というのがどんな行為なのかもわからないほどに。
「私……こっちも『できそこない』なんだっ……」
凛子の小さな手のひらが、自らの腹部へとゆっくり添えられる。
その言葉に彼女の顔を見上げると……ポロポロと大粒の涙を落としていた。
「ごめんっ…………香田の赤ちゃん、作れないっ……無理っ……できそこないだから、無理なのっ」
――悲しい。
あまりに悲しくて、悲しくて……胸が張り裂けるほどに、痛い。
「凛子は、できそこないなんかじゃないよ……?」
「ヤっ……!!」
彼女の小さな身体全体を抱き寄せようした途端、手首を捕まえられてしまう。
明確に拒絶されてしまった。
とてもじゃないけど、無理強い出来ない。
胸なんか比にならないほどの、深い深い心の傷を確かに感じる。
「私っ……できそこない、でぇ……ごめ、ん、なさ、いっ……!!」
「全然! 全然そんなこと、無いからっ……!」
皮肉なことにようやく俺は、凛子の心の傷の核心に触れられた気がした。
自らを『できそこない』と評して烙印を押す、その理由を。
女の子としての自信の無さを。
自分を過度に卑下してしまうその根拠を、俺は理解した。
「凛子……なあ、凛子。ぎゅー……って、しよう?」
「香田ぁ……えぐっ……香田ぁ……っっ」
ようやく俺の首に腕を回してくれて、そのままぎゅー……っと力いっぱいに凛子から抱きしめてくれる。
震えてる背中。まるで子供みたいにわんわんと泣き出す凛子。
助けてあげたい。
彼女を助けてあげたい。
可哀想で可哀想で……愛しくて仕方なくて、いつの間にか凛子に負けないぐらいに俺も泣いてしまっていた。
狭い車内。
暗い駐車場の片隅で、抱きしめ合いながら俺たちはずっとずっと泣き続けていた。





