#019 暗い駐車場の片隅で(前編)
「――はぁ……」
凛子からの手紙を読んだ後。
それからの昼間の学校のことはもうほとんど記憶に無い。
凛子からもらった手紙の2枚目のことを考えただけでほぼ過ぎて。
何度も何度も読み返して……むしろよくわからなくなってしまっていた。
鏡に写る自分自身を眺め続けるとやがて自分が誰だかわからなくなってくる、あの感覚にちょっと近い。
……こういうのをゲシュタルト崩壊というんだっけ?
脳が完全に麻痺してしまっていた。
こんなに誰かを異性として意識したことは、生まれて初めてのことだった。
「わからないなぁ」
深山といい……そして今日の凛子といい。
どうしてこんな『不出来』な俺のことを気に入るのだろう。
釈然としない。
嬉しいという気持ちより先に『どうして』という疑問や抵抗感が強い。
「部分メッシュで、カッコイイ……ねぇ」
俺は店舗内の繊細な装飾が施されている天井をぼんやり眺めながら呟いた。
視界の片隅にちらりと見える白髪の束。
凛子からの手紙から連想して、名も知らぬ女の子からのあの率直な言葉を思い出していた。
そんなこと言われたのはほぼ初めてな気がする。
例えば深山も凛子も、配慮してか俺の見た目について一切触れることは無い。
「まあ、中学とは違うってことかな」
つまり中身が伴って、社交辞令とか言えるようになってきたってことだ。
深山の助けもあって最近は学校でも露骨な嫌がらせや酷い扱いも減っていて、ずいぶん住みやすくなってきたと思う。
特に昨日の放課後のよくわからない会に参加とかは衝撃的な珍事だった。
実際今朝の教室でも、何人かあの会のメンバーから挨拶されたりした。
面倒と思う半面、俺も人間だし、やはり嬉しいと思う部分もある。
特に俺をなぜか様付けで呼ぶ『美紀』とかいう子は、面白いハイテンションさで怒涛のように話しかけてきたので、悪い気がしなかった。
――カラン……。
「あ、いらっしゃいませ」
俺は入店してきたお客に気が付き、駆け寄った。
ここはスペイン料理店『バルエルローザ』。んで俺はそこのウェイター。
ただいまは放課後、週に2回のバイト中である。
当初はキッチンというか皿洗い担当だったのだが……まあたぶんそれこそ、この独特な髪のせいだよな?
スペイン人は白髪なのかよ、スペイン人に謝れって感じだが、とりあえず店長のよくわからない「君どことなく異国風だから」という謎の一言で、なぜかこうして表に立たされているわけだ。
「こちらメニューとなります」
「なあキミ。スペイン料理は初めてなんだが、オススメはあるかい?」
日に焼けた中年男性客の体格をちらりと確認して。
「はい。せっかくのスペイン料理ですし、ここはひとつ本場のイベリコ豚を存分に試されてみては、と思います」
「いいね、それで行こう。どんなのがあるの?」
「ありがとうございます。でしたら鉄板焼はいかがでしょう? きっとお気に召されるかと思います。個人的にも食べ応えあってオススメです」
「もういいや。キミに全部任せた。何かそれに合う前菜つけて持って来てくれ」
「恐縮です。ではお飲み物はいかがなさいますか? もしアルコールがいけるのでしたら、やはりスペインワインが一番合います。こちらのセレナなどは特にイベリコ豚の濃い脂と相性抜群で、まるでエイヒレと日本酒の関係みたいな感じです。独特な果実味が豚の甘みと喧嘩することなく高め合って、そのまま口の中で一体化するあの感じは……ちょっと癖になりますよ?」
「ハハハッ、随分と達者だな。でもキミ、未成年だろ?」
「スペイン本国では18歳から合法ですから……でも、ぜひご内密に」
はい、嘘です。行ったこともありません。
っていうか俺まだ17歳だし。
「ねえねえ。香田ちゃん。もういっそ高校中退してウチに就職しない? マジで天職だと思うの」
お姉口調の店長がニコニコの笑顔で皿を持って下がる俺を出迎えてくれた。
「いえ……あの台詞もう30回は言ってます。ただの丸暗記ですから」
「違う違う。ちゃーんとお客に合わせてチョイスするセンスのこと言ってんの」
「だってあの人、見るからに脂大好き過ぎでしょう?」
「だから、それがわからない子が多いのっ」
「そう……なんですかねぇ」
客とウェイター。あるいは店長と従業員という関係性はあまり苦痛じゃない。
変に踏み込んでくるお客とかも確かにいるけど、基本的には一定の距離感があって、そこそこいい感じの大人なやり取りが出来る。
「そうだ香田ちゃん。週末からのスケジュールだけど、夏休みとかガッツリうちで働かない? 週7とかで!」
「スペインの労働基準法って過酷ですね」
基本ここの店の従業員である神山さんの休日に代わりで俺が入るから週2勤務がずっと続いてるけど、休みの期間だけは例外。お客増えるし俺も暇だしで、レギュラー入りするのが去年からの流れだった。
……今の店長からの打診もそれに則っての話なんだろうけど。
「すみません店長。夏休みは家族で長期の海外旅行の予定があって……」
「うそ――んっっ!!! 聞いてないけどっ」
「はい。今、初めて言いました。というか俺自身もこの前の週末に初めて親から聞かされた感じです。すみません」
「そ……そう。それは、仕方ない、ねぇ……」
「なので今日上がったらしばらくお休みになっちゃいますね。借りてる制服、洗ってきます」
「あ、それね、よろしく頼むワ」
以前は当然ながら店側が洗っていたのだが、あまりにシワシワに乾すものだから我慢できずに最近は自主的に自宅で洗うことにしていた。まあ些細なことだろうけど、人員の全然足りてないこの店の負担をいくらか軽減してあげたい気持ちもあった。
「今日、8時上がりでいいですよね?」
「ええもちろん」
あと40分後くらいか……凛子なら15分前には待機してそうだから、今日ばかりは出来る限り早くに帰らせてもらおう。
「店の外で待たせたら悪いしなぁ」
放課後、凛子が俺の学校に来ると言い出して、俺がバイトあるからって返して、ならバイト先に迎えに行く、という感じの話の流れである。
「……っ」
実はそれで俺はさっきからずーっと気を揉んでいた。
待たせたくないっていうのは間違いなく本音だけど、実はもうひとつ。
凛子を『外で』待たせたくない。
あんな超絶可愛い女の子、暇そうに街角で立たせていたら男たちに声かけられてしまうのはむしろ必至だと思う。それは非常にマズイ。
「はぁー……俺は凛子のお父さんかよっ」
『ヘーイそこの彼女、おっぱい揉むぅ?』『えー、揉む揉む~!』などという訳のわからない妄想が俺の脳内で何度か展開されていた。
……この妄想。凛子に万が一でも知られたら激怒されそうだ……。
――カラン……。
「あ、いらっしゃ――……」
「…………来ましたっ」
ちょうど妄想してたその直後だし、どこかで期待してたところもあったので必然に近いのだが……それでも俺は驚き、ちょっと息を呑んだ。
そう。凛子が来店してきたのだ。
待ち合わせするならついでに夕飯も食べてしまえ的な発想は理解出来るし、ついでに香田の働き具合でも観察して冷やかしてやろうって感じなんだろう。
そりゃわかってるけどさ……。
「……香田。案内してくれないの?」
「あ、いえ。お客様、どうぞこちらへ」
「……うん」
「こちらの窓際のお席で宜しかったでしょうか?」
「うん」
「ではどうぞ」
「わっ……う、嬉しー……」
椅子を引いて凛子を迎え入れると、ちょこんと目の前で座ってくれる。
目と目が合って、にっこり満足そうに笑っている凛子。
「ただいまメニューとお冷を用意致します」
一礼してそのままキッチンまで下がると……ようやく俺は、頭を抱えて少し壁にもたれ掛かることが出来た。
「やばい……何、あれっ……!?」
可愛過ぎて、頭がくらくらした。
がっほりしたパフ袖のシルエットで淡い色の薄手のサマーニットの下に透けて見える濃い色のレースの入った重ねのキャミソールがまるで下着みたいで少しドキッとする。
左側に傾けて載せている大き目なベレー帽はミニの艶やかなフレアスカートと揃えてて愛らしく、グッとフェミニンさを際立てさせる。
左右に紐のついている白いニーソなんてたぶん難易度高いはずなのに、上手に全体と融合させてむしろ上品な印象を与えてくれていた。
これはあまり肉感的じゃない凛子だからこそ出来るコーデだ。
あぁ……語り過ぎた。
つまり俺は、私服の凛子は破壊力ヤバ過ぎるってことが言いたいだけだった。
「――こちらメニューでございます」
「ひゃうっ」
そわそわ落ち着かない様子の凛子に声を掛けると、ぴょんと一瞬、飛び跳ねるように驚いて背を伸ばしていた。
「えー……こちらが本日のオススメで……」
「……っ」
「お客様?」
「はひっ、じゃ、じゃあそれでっ!」
「いや。やめておいたほうがいいよ。凛子には量が多すぎると思う」
「ご、ごめっ……」
「謝らないで。どんなのが食べたい? 大雑把な傾向だけでも聞かせて?」
「えと……えと。香田はどんなの、好きなの?」
「凛子の春巻き」
「も、もうっ……! 何それっ!?」
「お弁当の春巻き、凄く美味しかった。あんな手間のかかるの、ありがとう」
「あのー……店員さんっ……泣いちゃうから……後で、お願い……しますっ」
両手を膝のところに並べて肩を狭めてぷるぷる震えて我慢してくれてるのが、可愛くて仕方ない。
「うん、ごめん。そうだな……凛子がどれぐらいお腹空いているか次第だけど、今の季節なら冷製スープと生ハムのサラダとかいかが? それとも熱いのが食べたい?」
「ううんっ……えへへ……それがいいっ」
今朝から調子があまり良さそうに見えない凛子には、食べやすいもの優先で無理せず食事して欲しいと思った。スペイン料理は情熱的な国らしく、ニンニクとかガツンと入ってドロッとしてて味が濃いのが多いからだ。
「そのふたつならすぐに持ってこれるから、待ってて」
これも地味に重要。料理の出来上がり時間も考えたら、そんなに余裕があるわけでもない。急かせて食べさせるようなことにもしたくなかった。
「はいっ、わかりました店員さんっ」
あまりに素直な返事をもらっちゃって、くすっと思わず笑ってしまう俺だった。
「――ねえねえ、あの美少女って香田ちゃんの彼女さん?」
オーダーをキッチンに流していると、店長がすぐに近づいてくる。
「美少女って……聞いててなんか恥ずかしくなってくる単語ですね?」
「僕もあの子、気になります! 詳しく聞かせてください!」
「大野までどうした……」
このバイト先の後輩で同じウェイターの大野まで詰め寄って来て困ってしまう。
お前はアニメのキャラと結婚してなかったか? 嫁のことはいいのか?
「ほれほれ、どうなのよ? ぶっちゃけ?」
「香田先輩の彼女ですか、あの子!」
「いえ、彼女ではないです。俺の大切な人です」
「うひゃーっ!!」
「ひゃー……香田ちゃん、やるぅ!」
どういう意味で理解したのかは問わないでおこう。
別に誤解されたままでも特には問題ないし。
「店長、突然すみません。勝手なことを言いますが……30分早く上がることは、可能ですか?」
「良くないけど、まあ仕方ない。どうぞ一緒に食事してきなさいな。大野ちゃん、フォローしてあげて」
「あ、はい!」
「ありがとうございますっ、大野もサンキューな!」
俺は急いでタイムカードを切りに行く。
「――お客様、大変お待たせしました……こちらが生ハムのサラダとなります」
「わっ……可愛いっ」
生ハムがハート型に組まれてサラダの上に載っているのを見て、凛子がいかにも女子高校生らしい感想を述べてくれた。
「そしてこちらが冷製スープ『ガスパチョ』になります。元がちょっと癖の強い料理なので日本人好みのあっさりめにアレンジしております。生野菜の旨味がたっぷり入ってて、弱っている身体には優しいオススメの一品ですよ?」
「えへへ~、えへへ~っ……」
やたら嬉しそうに凛子が笑ってるものだから、こっちまで営業スマイルとは違う微笑み方が引っ張り出されてしまう。
――コトッ。
「あれ……それは?」
「先に作ってたから冷えてるけど、凛子もちょっと食べてみるかい?」
「うん??」
「俺の晩飯の魚介パエリア」
「え? えっ?」
「今、仕事上がってくるから、一緒にこのまま食べようか」
「……っっ……うんっ!!」
そんな大げさに喜ばなくてもいいのに……なんかこそばゆいなぁ。
◇
「――はい香田。あーん?」
「しません、しません」
「うーっ……」
それから元の学校の制服に着替えて、ふたりでちょっと手短に夕食を食べた。
俺も遠回りしてでも一度自宅に戻って私服に着替えおけば良かった。
そうしたらちょっとはデートっぽい雰囲気になったと思う。
◇
「――ではお先に失礼しますっ」
結局凛子は俺のパエリアも半分くらい食べて、追加でもう一品頼んで、という感じで予定の集合時間である午後8時を15分ぐらい超過してゆっくり食事してしまった。
「ふあぁ~、美味しかったぁ♪」
ま、凛子も調子戻っているみたいだし、これで良かったのだろう。
店からふたりで外に出るとすっかり夜になっていた。
空気も少しばかり涼しくなっている。
「……でも。香田。本当にご馳走になって良かったの……?」
「今朝作ってくれたお弁当だって昨日のサンドイッチだって、材料費タダじゃないだろ? でもそのお礼としてお金を支払ったら、きっと凛子嫌がるだろ?」
「え。あっ……」
「ん? 現金が良かった?」
「良くないっっ!」
大きな声で否定しながら、ぶんぶんと思い切り左右に頭を振り回すと。
「うー……本当、ごめんなさい……」
今にも泣きそうになりながら、心から謝ってくれた。
それは受け取らないことに対してというより、この話が朝のホスト代を支払いたいというあの冗談に繋がっていることに気が付いての謝罪に聞こえた。
「だから、お返しってことで」
「……うんっ」
後ろで腕を組んで少し上半身を揺らし、安らぐように優しく微笑む凛子。
くどいようだけど、ほんと可愛いな。
「それで、これからどうしますかっ?」
「どうって……バイト先に迎えに来てくれた凛子がそれを言うか。何か目的があってわざわざ来てくれたんじゃないのか?」
「うんっ、目的あったよっ♪」
「どんな目的? それがこれからすることじゃないのか?」
「えへへ……香田に会いに行くこと。だからもうミッションコンプリートっ!」
ベレー帽らしく右のおでこ辺りに手を添えて海軍式の敬礼ポーズをしてみせる凛子。
「香田はどんな予定だったのっ?」
「え……いや、あまり捻りがないんだけど、これから家に帰って着替えて。それで午後10時ぐらいに岡崎とも集合して、トレーラー向かう感じ?」
「ここから香田の家って、何分ぐらい?」
「えーと」
この店舗の裏に停めてある俺の自転車だと10分ぐらいだが。
「歩いてなら、30分ぐらい掛かるかなぁ?」
ちなみに凛子と2人乗りで移動というのは一切考えていない。
凛子を危ない目に合わせたくないし、何より万が一、たなびく風に煽られて凛子のその短いスカートの中を他人に見られたりしたら、俺は見てしまったそいつを嫉妬という名の言い掛かりで殴ってしまうかもしれないからだ。
「えへへ……ついて行ってもいいっ?」
「ダメ」
「えっ」
「凛子が母さんのおもちゃにされてしまう……それだけはダメだ」
きっと会ったら、お茶を出すついでに避妊具とか出してきそうだ。最悪だ。
「うーっ……」
口を尖らせていつものように不満を表す凛子。
……リアルで会ったのは昨日が初めてなのに『いつも』とかおかしいかな?
「――あ、じゃあ!」
パンッ、と両手を叩いて凛子がアイディアの到来を知らせる。
「うん?」
「私が香田の家まで送るからさ……その短縮できる時間の分、ちょっとだけ私とドライブしよっ?」
「ドライブ……って」
◇
「――では同乗者の皆様は安全のため、シートベルトをおつけくださ~いっ」
「お、おう」
心地よい細かな振動。
暗闇に浮かぶLEDの電光表示。
そして空間いっぱいの、凛子の香り。
「凄いな……これ、凛子の車なのか?」
「えへへ。2年間のリースだけどねっ」
個人的に全個体《ASS》電池《EV》じゃなくて昔ながらのガソリンエンジンなのが凄く良い。この生き物みたいな内に秘めた静かな躍動感が凄く好きだ。
「学校――あ、学院か。車での登校を認めてるのか?」
「ううん、私、寮だし」
「あ。そうだったな」
「そうだった……って、私、香田にそのこと話してた?」
「いや、朝、校舎側の敷地から来ただろ? だからたぶんそうかなって」
「えへへ…………嬉しー……」
「どうして?」
「…………私のこと、ちゃんと見てくれてるんだって……凄く感じたっ」
「そりゃこんなに超絶可愛い女の子、嫌でもよく見ちゃうだろ?」
「――~~っっ……!?!? ちょ、ちょうぜつ、ってぇ……ほ、ほめ過ぎて今、死んじゃうとこだったよぉ!!!?」
「いや、超絶なんて言葉じゃ足りないか? うーん……」
「待ってっ、待って、待ってぇ……私、これから運転、するからぁ……っ」
「あ、ああ。そっか、邪魔して悪かった」
「後で……その、ちゃんと聞かせてくれる……?」
「もちろん」
「え、えへへ……楽しみ過ぎてっ……おかしくなっちゃうっ」
俺の言葉ひとつでそんなに喜んでくれるのか。
恐縮というか、光栄というか、不思議というか……嬉しい、というか。
「どこに連れて行ってくれるの?」
「んー……時間無いから……ただのドライブ? ……つまんない?」
「いや。嬉しい」
「うん……私も、凄く」
互いに少し見つめて微笑み合った。
「そういや、それで?」
「うん?」
「結局のところ、車、学院で認められてるの?」
「ううん? 全然?」
即答だった。
「学院の近くの立体駐車場に停めてるの。リースって車庫証明とかいらないし」
そう語る凛子は、俺の知らないちょっと大人な女性に感じる。
「トレーラーって郊外ばっかりだし、4人一組だし……絶対必要でしょ?」
「確かに」
「それじゃ……よし、行こうか?」
スチャ、と両手でメガネを装着する凛子の表情は少し真剣に見える。
「どしたの……香田? じっと見て」
「いや、その。さっきから凛子が凄く大人っぽいなって」
「――っっ!?!? だ、だからぁ……!! な、なにこれから運転するっていうのにっ、動揺、させるよーなこと言っちゃってるのぉ!?!?」
「あ、ごめん。もう言わない」
「ヤだっ、意地悪言わないでぇっ!!!」
「どっちなんだよ……」
「ね? ねっ、香田? もう1回……もう1回っ!!!」
運転席から助手席へと半分身を乗り出すようにして、凛子がおねだりしてくる。シートベルトに引っかかってサマーニットのV字のネックから内側のキャミソールが見えて……目のやり場に困ってしまう。
「やぁっ……こっち向いてっ、ねえっ、こっち向いて欲しいよぅ」
「い、いや。その。運転するんだろ? ほら……ここ有料パーキングだからお金もったいないしっ」
「……っ」
ぶすっ、と頬を膨らませた凛子が……無言のままエンジンを切ってしまう。
途端にパステルカラーの丸い形状を帯びたこの軽自動車は細かな振動をやめて静止してしまう。
「言ってくれるまで、行かなーいっ」
「言ってほしいことと、やってることの乖離が酷いな!?」
「……ね、そっち、行っていい?」
「待て、待てっ」
車の中の雰囲気って特別だと思った。
凄く親密さを感じてしまう。一体感とも言える。
閉ざされた狭くて、暗くて、でもリラックスできる空間。
俺はこれに似た空間をよく知っている。
天蓋に包まれたベッドの中だ。
「ヤだ……待たない。香田がもう1回言ってくれるまで、待たないもんっ」
凛子はシートベルトを外すと、まるで猫みたいに両手をついて俺たちを分断していた短いシフトレバーを跨ぎ、こっちの助手席へと進んでくる。
「――ほら、ね……? お願いっ……香田、聞かせて……?」
「凛子、もうドライブする気ないだろっ!?」
「うん♪ もう、香田とべたべたする時間にするっ」
「あ、まずいって……凛子っ、こ、この姿勢はまずいって……!」
昨日の膝の上への乗り方とは180度違う。
俺の膝の上で、ソファのようにもたれ掛かるように背中から体重を掛けて来た昨日とは違って……真正面……顔と顔を寄せ合いながら、凛子が俺の膝の上へと登って来てしまう。
「どうして……?」
「どうして、って」
どうしたってこんなの、姿勢的にいけないことを連想してしまう。
恥ずかしくて視線が逃げているのが気に食わないのか、まるでそんな俺を捕まえるように俺の首に細い腕を回して、もっともっと顔を寄せてくる。
ふわっと漂う、凛子の柑橘系の香り。
「ほらっ……ここ駐車場だし、誰か人が来るかも知れないしっ」
「朝……私の友達や後輩の目の前で……痛いぐらい抱きしめてくれたのに?」
「う……」
自分の、ただの言い逃れを指摘されてしまった。
「ね。聞かせて……くれないの? どうしても、嫌、なの……?」
潤んだ瞳で、凛子がこっちを見てる。
「別にそんな深い意味では――」
「聞きたいの……どうしても、今、聞きたいのっ……」
そろそろ俺は観念して、心のスイッチを入れる。
「さっきから……凛子、凄く大人っぽい」
「嘘」
「嘘じゃない……凛子に嘘つかないって、あれだけ言ってるのに、疑うのか?」
「…………ごめんなさい……でも、信じられない。それ、ただ……車に乗ってるだけだし……香田の錯覚だしっ……」
『超絶可愛い』は後回しに出来ても『大人っぽい』は今すぐ聞きたい。
きっと凛子の心にとって、これはより大事な評価なのだろう。
だからか、すぐに涙が一滴、落ちてきた。
涙でレンズが汚れそうだから、メガネを外してあげた。
「ほんとだって……凛子が俺より大人なんだなって、凄くそう感じた」
「嬉しっ……あり、がと……っ」
「無理に背伸びしない凛子って、大人だよな」
「ふぇ?」
「着ている服とか、髪型とか……無理して大人ぶってない。ほどほど良い感じ」
「だってっ……それ、服が大人なだけ、だしっ……誤魔化してるだけ、だしっ。自分を騙してるの意識しちゃうだけで……似合わないの、わかっちゃうだけで、それで私が急に大人の女性になる、わけじゃない」
「うん。それは凄くよくわかる。俺の髪もそんな感じだし」
「――っっ……」
「……もしかして気を遣ってくれてた? ありがと……でも大丈夫だから。むしろ普通にしてくれたほうが嬉しい」
「……ごめんなさい」
「いや、どういたしまして……そう。自分を騙しても意味がないんだよな。隠せば隠すほど、自分の劣等感を意識してしまう。何かに負けたみたいな……自分で自分を『不出来』だと認めるような気分になってしまう。だから俺も染めるのやめちゃったんだ」
「それ……ステキだよ? ほんとだよっ?」
「うん、ありがとう。俺のことはそれで充分。今は凛子の話をしたい」
「う、うん……っ」
俺を癒したいけど、触れちゃダメなんだろうか……なんてきっと凛子はそんな感じで悩んでくれている様子で、凄く複雑そうにうなずいていた。
「凛子……後でチケット払うから……胸、揉ませてくれる?」
「チケットなんていらないよぅ……お願い……揉んで欲しい、よぅ……」
「作った本人が何を言うか」
「うーっ……」
こういうのもひとつの『逃げ』なんだろうか?
さっき……凛子があまりに色っぽくて可愛くて、暴走しそうになっていたけど、関係性がそれから少し変化してずいぶんと落ち着いてきた。
誘惑への抵抗より献身の心のほうが微妙に勝っていた。
凛子の心の傷を癒したい、という俺の中の使命はそれだけ強固なんだろう。
「ほら……背中向けて?」
「やぁ……っ……香田の顔、見たいっ……」
「狭くて体勢的につらいから。ほら」
「うん……」
これもたぶん『逃げ』。
可愛い凛子と向き合ってたら、ちょっとその熱っぽい瞳に負けそうで。
あるいは主に股間の辺りだが……密着度が高くて、ヤバかった。
「今日の凛子……マジで可愛いなぁ~」
「ふきゃっ!?」
いきなり胸に触れるのもどうかと思い、まずは背中から包むように抱きしめる。
でもどうやらそれは誤算だったみたいで――
「な、なっ、何、と、突然過ぎるよおおっっ!? 死んじゃうよおっ!?!?」
――逆に、盛大に驚かせてしまったようだった。
「今日の私服の凛子……ヤバかった……可愛すぎて、頭クラクラして倒れそうだった」
構わず話を続ける。
「え、えっ……!? どこっ、どこらへんっ!?!?」
「どこらへんって言われても……全部?」
「うーっ、漠然としてるようっ!!」
「漠然としてると言われても……ほら、そのニーソックスとかすげー可愛いし」
「っ! 香田、こういうの好きなんだっ!? わ、私、これからいつでも履いてるからっ!!」
「はははっ、ありがとう。そのスカートも可愛いよ、凄く」
「ほんとっ!? じゃあ私、今度もこれ履いて――」
「そのサマーニットも、帽子も超可愛い。モロ俺の趣味」
「やあっ、だめっ、それじゃ逆にどれが香田のポイント高かったのか、全然わかんないよぅ!!」
……そう言われてもなぁ。
「――だから全部。完璧。何から何まで神懸って可愛くて、まさに理想の女の子そのものだった」
「それはさすがに褒め過ぎだよぅ……っ……私、そんなに馬鹿じゃないもんっ」
「いや馬鹿だろ。何度言っても、俺が本音しか言わないことを信じない」
「嘘だもんっ……嘘だもぉんっ……!!!」
「おいおいっ。じゃあ凛子は実際そんなに可愛いのに、自分のこと、可愛いって思わないのか? その服、自分に似合うって思って選んでるんだろ?」
「そりゃ、真剣に何時間も考えてっ! 精一杯に! どうにか香田に可愛いって言ってもらえるように真剣に私なりに超頑張ってるけどっ!! 全力で抵抗ぐらいするけどおっっ!!!」
「え。お、おう」
なんか突然キレ出して、つい圧倒されてしまった。
『真剣』を2回言ってることを指摘する余裕すら無い。
「私なんかっ、私なんかどうせ頑張ってもこんなんだしっ……どんなに頑張っても可愛くないしっ、胸無いしっ、子供みたいだしっ、胸無くて男の子みたいだしっ……!!!」
もうどこから施せばいいのか皆目見当がつかない。
程度の差はあるが、全身複雑骨折のぐちゃぐちゃな患者が担ぎ込まれた外科医とかこれに近い心理状況なんじゃないかと勝手に想像してしまった。
……そう。もうとにかく、やれることからやるしかない。
「――凛子」
「ひうっ……!!!!」
そっとその患部のもっとも酷い部分に、触れるか触れないかのギリギリのところで手を添える。
「ここ……凛子の胸、揉みたい」
「泣いてるからって、無理しなくていいよぅ……っ、香田っ、優しいしっ……」
「だからぁ……誓約で強制的に本音を言わされた俺の意思を尊重してくれってば。俺が優しさで嘘ついているって主張するなら、揉みたいって叫んでたあれはどう説明するんだ?」
まだ、触れない。
もちろん俺の本音では今すぐにいっそ揉みしだきたいぐらいの勢いなのだが、凛子から許可の言葉をどうしてもどうしても引き出したかった。
「うーっ……あ、あれはぁ……実は……誓約……書いてなかったとか……?」
「そもそもそこから騙してたってか!?」
「だってぇ……私、その誓約の文、実際には見てないしぃ……!」
「じゃあ騙してどうする!? いったい何が狙いであんな赤裸々な告白をしたって言うんだよっ? 何の得があるっ!!」
「そ、それはぁー………………あ、れ?」
見る見る間に凛子の顔が青ざめて行く。
「ど、どうした……?」
「香田……香田、私と会って……何も、得してない……!」
「いや! 胸揉んでるしっ!? お弁当とか食べてるしっ!!」
「そうっ……私がお願いするから……揉んでくれて……私が勝手に作ったお弁当、無理して食べてくれて……っ……朝から叩き起こされたり、いちいち泣いたりしてて……こんなめんどくさい子――」
「あーもーっ!!!」
「きゃあっ!?!?」
結局、俺の根負けだった。
俺は実力行使とばかりに俺の意思で、勝手に凛子の胸を触れることにした。
こんなのっ、こんなの俺がお願いすることであって――
――ふにょん……。
「…………っ……」
どうしたものか……俺の手が、緊張で動かない。
改めて思うが、信じられない柔らかさ。
まるで溶けたマシュマロみたいで、ちょっと触れるだけで痛めてしまいそうなぐらいの想像を絶する柔らかさ。あまりに衝撃的なもので俺も柔らかいって2回表現してしまった。
「ね……ほらっ……香田、引いてる…………本当はこんな酷くてぇ……っ」
「いや。思ったより、手応え……その。凄いくて……」
「ふぇ!?」
「凛子が小さい小さいってあまりに連呼しているから、そういうものかなって想像してたけど……こう、手にちょうど収まるいい感じで……そもそもこれって、悲観するほど小さくも、無いような……っ?」
「ヤだっ、ヤだっ!! 嘘、ヤだよぅ……!!!」
「だから、嘘じゃないって! 凛子の胸触って、すげー気持ちいいって!!」
「わけわかんないっ!! 触ってる人が気持ちいいとかわけわかんないっ!!」
わけわかんないのは、もはやこの会話である。
おっぱい触りながら互いにキレ気味に叫んでる。なんだこれ。
「えーと……じゃあ、触られている人は、気持ちいい……のか?」
「あう…………………………はい……」
「その。触れてもいい……?」
「こ、こんなんですがっ……ぜひ……お願いしますっ……」
「う、うん」
ようやく許可を得られて、俺は改めて凛子の胸の上に手を置いた。
『揉む』『揉んで』と互いに連呼しているけど実際は前回同様、指先ひとつ動かしていない。
昨日と同じ。ただ手を添えるだけ。
それ以上は……もしかしたら何も知らない凛子を騙すようなことになりそうで怖かった。
「……嫌じゃ、ない?」
いやそれ以前に俺自身もあまりの興奮で……ちょっと、自分に自信が持てない。
「ごめん、なさいっ……そのっ」
「え」
「嬉しー……」
涙ながらに眉を下げて、そうつぶやいてくれた。
「じゃあ何で謝るの?」
「香田っ……私のこと可哀想って思って……揉んでくれてるのにぃ……私、嬉しくてぇ……」
「良かった……喜んでくれて」
『可哀想』を否定したいけど、また喧嘩みたいなことになりそうだから無理やりその言葉を飲み込む。
そしてその代替えとしてちゅっ、と彼女の首筋に顔を埋めて汗ばんだその肌に軽くキスをした。
「ひゃううっっ……!!!」
びくっっ、と大きく震えて、背を反らす凛子。
俺まで釣られて驚いてしまった。
「香田ぁ……香田っ、お願いっ、香田っ……!!」
「……うん?」
「直接、触って欲しい、よ……ぅ……」
「……っっ」
……ああ、まずい……これ、まずいって……止まらなくなっちゃうって!
「ねっ……ねっ……触って、欲しいよぅ……っ……」
切なげに懇願する凛子の声。俺は自分を律するその理性が負けそうになるのを、強く自覚していた――





