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逃れる刻

作者: 遊木愉生


闇夜に響くは妖しき声。


獣の如き下賤な濁声が

遊ビマショ──と囁くは

紅い瞳孔の森の奥。


さては魑魅魍魎の類いかと

袖を翻して駆けようも

もがけど足掻けど地に足埋まり

下拙な深淵が嘲り嗤う。


その姫、美しき髪を地に引きずれば

生き血を欲して微笑する。


厭じゃ厭じゃと哭こうとも

その者すでに彼岸を夢みて

墓前を這う。




──────────




照り付ける太陽の熱を吸収したコンクリートは靴底を溶かそうと躍起になっている。


行き交う人々は決まった方向に流れるわけではないので、自分は前に進むのにも一苦労だというのに器用に通り過ぎる。


やっとのことで商店街のアーケードへと辿り着くが、そこにも人が溢れていた。


ため息を吐き、諦めて引き返そうかと思ったが、思いきって人混みに飛び込んだ。


──今しかないんだ。


向かってくる人々に怯むより先に胸元をいきなり乱暴に掴まれた。


「おい!何するんだ!」と声を張り上げたが相手の男は聞こえていないのか、聞いていないのか、そのまま振り返ろうとせず、引き摺るようにして進む。


抵抗するが、まったく無駄だった。

すれ違う人と肩がぶつかるが謝る隙もない。


何が何だか分からないうちにある店の前で止まった。


看板も暖簾もない、ただの硝子張りの大きな窓があるだけで、何を売っているのか、そもそも商売しているのかもわからない、暗く陰気な店構えだ。


他の店はネオンや看板を使用して派手に主張しているので、その中に埋もれて廃屋と勘違いしてしまいそうになる。


先程まで胸元を乱暴に引っ張っていた男はその店の扉を引き開けた。


「鯰を捕らえたぞ!」


男の声が店内に響いた。

背後で扉が閉まる音が聞こえ、外の喧騒は一気に消え去り、この空間だけが時間の流れが止まったように思えた。


「おい!鯰だぞ!な、ま、ず!誰もいないのか?」


身体は乱暴に放り出され、前のめりになった。


暗くて何も見えない。

窓の向こう側を見ようとしても、薄く霞みがかっていて、はっきりと見る事ができない。

蒸し暑かった外とは切り離された空間だ。


─いつ来ても商売しているようには見えない。


「おい!鯰──」


「いったい、何だよ!沙矢!」


そう言うと、男が叫ぶのを止めた。


「いきなり胸ぐら掴んで引き摺りまわして!驚くじゃないか!」


「なんだ?きみは手を握って優しくして欲しかったのか?気持ち悪い事を言わないでくれよ!男の手を握るのは僕は御免だね!ましてや鯰なんて!」


「鯰、鯰って煩いんだよ!」


「鯰に鯰と言って何がいけない?」


「俺は人間だ!鯰じゃない!」


「鯰のような顔をして何を威張ってるんだ。どうせ此処に来ようとしていたのだから、僕が居て助かったのではないのか?あのままだと文芽(あやめ)くん、きみは明日になっても此処へは来れなかったぞ」


「だ、だけど、何もあんなやり方をしなくてもいいじゃないか!お前が乱暴に引っ張るから俺は人にぶつかったんだ!ずいぶん嫌な目でみられたよ」


「今日はこの商店街の先にある神社でね──」と優しい男の声が聞こえてきた。

この暗い部屋にすぅと冷たい空気が流れたようだ。


「夏祭りがあるんだよ。だから人がすごいんだ。やぁ文芽くん」


英介はそう言って部屋の灯りをつけたが、室内はたいして明るくはならず、相手の顔が見える程度だった。


横を見れば沙矢がいる。

くっきりとした二重瞼で、その真っ黒な瞳は邪悪なものを感じる。

これは彼の性格を知っているからこそ感じるのだろうか──

そして、筋の通った鼻に形の良い唇。

色は白く背は高い。

世間離れした整った容姿に男女からの好奇な視線は止むことはないが、その自由奔放、奇妙な性格故に近寄る者はいない。

沙矢は腕を組んでこちらを睨んでいる。


そして、今現れたのが沙矢の3つ年上の兄、英介。

彼とは大学時代からの付き合いで32歳になった今でもこうして会うのは英介ただ一人だ。

彼は沙矢ほど容姿端麗ではないが、弟とよく似ている。

性格は温厚。


彼はいつものように着物の袂に手を入れて登場した。


「沙矢。あまり文芽くんをからかっちゃいけないよ。お前が文芽くんを宥めるなら、いくらからかっても構わないけど、生憎その役目は僕に回されるんだから」


そう言って近くのファイルに手を伸ばし何か呟いた。


沙矢はふんと鼻を鳴らして奥へと消えていった。


「英介──」


文芽はそう言って彼を見た。

英介はファイルから一枚の紙を取りだした所で文芽を見た。


「どうしたんだい文芽くん。そんなに辛そうな面をしていては類が困惑して泣き出してしまうじゃないか」


「お、俺─」


「今日は店仕舞いだ。祭りの日に時計を修理しに来る者などいないからね」


「この店はいつも開いているのかもわからないじゃないか。それより、俺は─その─」


英介は小さく息を吐いた。


「ちゃんと見たよ。奥で話をしようか。先に座敷へと行っていてくれないか。店を閉めるからね。類がいるから一緒に待っていてくれ」


文芽はその言葉に従い、店の奥へと歩いた。

そこから先は住居となっている。


住人は稲岡英介、稲岡沙矢、そして、彼らの歳の離れた弟、高校三年生の稲岡類。

彼は絹のような滑らかで白い肌、そして碧の瞳をしており女の子と間違ってしまうような透き通った容姿をしている。

類は本当に静かだ。

必要な言葉以外は何も言わないし、酷ければ必要な言葉すら頷くだけで済ます場合もある。


英介は大学在学中に家業である時計の修理屋『夜半堂』を祖父から継ぎ、今では一家の主である。


なぜ英介の父が継がなかったと云うと、手先の不器用さと重なって、若くして結婚をしたからだ。


英介の両親は、大学入学直後に腹に子供を宿した。

二人は考え抜いた末、籍を入れて英介を出産。


その後英介の面倒は祖父母に託され、両親は将来の為と必死に勉強をした。


三年後には沙矢が生まれ、父親は努力の結果、有名起業に就職。

しかし、母親の方は箍が外れたのか、大学を中退し、家にもなかなか戻らなくなった。


そして、幾年が経ち、類が産まれて二人は離婚した。


子供は父親が引き取り、祖父は本格的に英介を仕込んだ。

幼い頃から祖父にくっついて離れなかった英介は瞬く間に技術をものにしていき、一方の沙矢は祖母と居る事が多かったので家事のいろはが自然と身に付いた。

その後、祖母そして祖父が他界し、父親は海外へ赴任してしまい、今の状態に至る。



店の奥へ行くと三段の階段があり、そこを上がれば居住スペースである。

静かで掃除が行き届いた日本家屋。

右手には類が手入れしている庭が見える。


その景色を見ながら頭の中を整理する。


整理しようとすればするほどに、記憶の糸は絡まり、いらぬ事を考えてしまう。

果たして己の記憶は正しいのであろうか。


もう全てが過去になってしまった今は何が正しいのかは分からないのではないか。


あんな出来事はなかったのだ。

勘違いであったのだ。

そう思いたい。


そうでないから自分は家族から離れ、此所に居るのだ。


これが現実なのである。


過去に起きた事の結果なのだ。


ざらざらと滑りの悪い記憶。

今さらそんなものと向き合う羽目になろうとは思っていなかった。


すぅと涼しい風が部屋を通り抜けると、りんと風鈴が鳴り、どこかの土産でもらったらしい飾りがくるりと風で舞う。


座敷へと足を踏み入れた。


そこには類とスーツ姿の見知らぬ禿頭の男が額の汗を拭いながら座っていた。


英介は、類が居るから座敷で待っていてくれと言っていたので此処で間違いはないようだが、見知らぬ男が居るとは聞いていない。

男も文芽を見て驚いたように口を開け、側にあるビジネス鞄に手を伸ばした。

類は相変わらず無関心な表情で座っている。


逡巡した挙げ句、文芽は座敷に入ることにした。

状況が全く読めないので、取り敢えず角の所で小さくなって座ることにする。


床の間を正面にして座る男の背中を見てから、その座卓の右辺に座る類をみる。


─この男は類とどういう関係だ?


「あの─どのような─ご関係で?」


文芽はついつい口を押さえたが、自分の口から発せられた言葉ではないと気が付くのに少し時間がかかった。


禿頭の男がこちらを振り向いていたのだ。


「え─あ、いや──」と何故か狼狽してしまう。


そこへ「お待たせいたしました」と英介がすっと座敷に入ってきて音もなく床の間を背にして座った。

彼の定位置である。


禿頭の男が困惑した様子で文芽と英介、交互に視線を送る。

それを見た英介は小さく笑った。


「あぁ、彼の事は気にしないでください。そうですねぇ──大きな鯰の置物だと思って頂ければ結構です。薄気味悪いし動いたり話したりしますがね、気にしないでください」


──何で俺が置物なんだよ。酷い言い様じゃないか。


と反論しようとしたが、英介か緩く左右に頭を振った。


─黙っていよう。


「それでは──ですね、今回の稲岡類くんが負いました骨折についての報告をさせていただきます」


「こ、骨折だぁ!?」


三人が文芽を見た。

英介は「ほら、喋った」と言ってこちらを睨んでいる。


「す、すまない」


─この男は誰なんだ!


英介は面倒くさそうにため息を吐いて「こちらは類の担任の北山先生。そして、北山先生、あそこにあるのが鯰の置物です」と言った。

鯰の置物と言う時、なぜか強い口調であった。


鯰の置物と紹介されたので、声を出すわけにはいかないと思い、無言で頭を下げた所で何故このような扱いなのかと不満に感じた。


─後で文句を言ってやろう。


と思ったが、後でと気を回す所が自分でも情けない。

今は鯰の置物と化しておとなしくしておこう。


以前から類が虐めを受けているとは聞いていたが、骨折までしているとは思わなかった。

前に一度、英介と沙矢が学校に乗り込んだ時、問題をはぐらかそうとした学校側の態度に怒った沙矢が担任の頭を叩いたと聞かされたが──


──この禿頭を沙矢がペチペチと?


それを想像して楽しくなる。


「申し訳ありません。どうぞ続けてください」


英介がそう言うと北山はお茶で口を湿らせた。


「前回の報告に多少誤りがありまして──その、ですね──ひと月前の階段からの落下も──」


「か、階段から落ちたぁ!?」


「前回の調査の報告だと──」


英介は文芽を無視した。


「それは類が自ら足を滑らせたと、そう仰られておりましたが、それが誤りだと?」


「えぇ。はい。改めて調査をしましたところ、クラス内の数名から類くんへの暴力や恐喝などを見かけたと報告されまして。その生徒たちは虐めであると認識はしていたのですが、恐ろしくて報告できなかったと言っておりました。前回の階段からの落下の時、類くんがクラスメイトの数名と階段の踊り場で揉めていたと──一人の生徒が類くんの背中を押したのをクラスメイトが見ていました。押した人物に話を聞くと、あっさりと自白しました」


「その時に先生はお気付きにはならなかったのですね?」


「はい。申し訳ありません。今後、このような事はないようにいたします」


北山はこちらが調査の結果報告です。と言って分厚い紙束を差し出した。


「結果報告──ですか」


「ええ。詳しくはこの結果報告の書類に書いておりますが、私からの口頭でも説明させてもらいます。今回の類くんの骨折の原因も前回と同様、階段からの落下です。生徒たちからアンケートをとりましたところ、最近は虐めの様子は見られなかったとの事でしたが、念のため私は前回、類くんの背中を押した生徒たちに話をしました。その結果ですね、今回も押したと自白しましたよ。やっとったのですよ。けろっとした顔をしてました」


何だか言葉が砕けてきている。


「自白──」


「えぇ、そうです。前にやったんだから疑われても仕方がない!と怒鳴ってやるとコロッと吐きましたよ。反省なんかしちゃいない。誰だって前科があれば疑っちまう。それも仕方がないんですよ。そうでしょ?過去の悪事からは逃げられないんだ」


「では、今回もその生徒たちが?」


「そうですよ。前回の事を知らなかった私も悪いですがね、繰り返しますかねぇ?怒っても意味がないんですかねぇ?まったくどうしようもない奴らですよ。悪びれた様子はないんだから」


類を見れば英介を見てそわそわしている。

その英介は困ったような顔で笑いを堪えているようにみえる。


「いやぁ、本当は類くんから誰にやられたと聞きたかったのですがね、それはもう仕方がない。そりゃ恐ろしいですから。一度されたら次もあるかもしれないと思うのが自然ですよ。しかし、今回はきつく言っておきました。もう二度としないと言わせました。骨折するとは考えていなかったと今度ばかりは反省をしています。きつく言って反省させました」


「きつく言って反省させた?二度としないと言わせたのですね?それが調査の報告──ですか」


英介は腕を組んで北山を睨んだ。


「怒りを感じるのはごもっともでございますよ。あ、あぁそうだ!彼らに謝りに越させましょうか?」


─何なんだ!この担任は!


「結構ですよ。もう謝罪に来ましたので」


「あぁ、そうですか。あいつら、謝りに来た──謝りに来た?」


北山は声を裏返した。


「えぇ。前回の階段からの落下の後。それより、この調査の報告は不完全なうえに腹立たしいこと甚だしい」


北山は「へぇ?」と何とも間抜けな声を出した。


「ほら、見ろ類。お前がしっかりと言わないからこんな事になってしまうのだ。こんな役立たずの報告書。紙の無駄遣いじゃないか。いつも言っているだろう。資源を大切に!」


類が哀れみの視線を北山に向けた。


「む、無駄遣いとは─し、失礼ではありませんかっ」


沙矢に頭をペチペチと叩かれたと云うこともあり、北山は幾分か静かに抗議した。


「この報告書は今回の階段からの落下の事を書いてあるのです!骨折のことを!読んでもいないのにそんな失礼なこと!」


「今回の階段からの落下と云うのは、先程から北山先生が言われている事でしょう?それが書かれている」


「そうですとも!」


「それでは尚更──」


英介は茶を一口飲んだ。


「読む気にはなりませんねぇ」


「ど、どういう意味なのかが分からない!」


「そもそも、あなた。北山先生。調査の報告とさっきから嬉しそうに話していらっしゃいますがね、調査とは物事の実態や動向などをはっきり、そして間違いなく調べると云う事です」


「えぇえぇ、分かっていますとも。調べましたよ。それがこの報告書なんだ!馬鹿にするんじゃないよ!」


─この男ついに本性が出たな。


「あなたが勝手に調査すると言って聞かないからこちらも好きにしてくれと言ったのです。勝手に調査してこのような偽りの報告です。あなたは一体何を調査されたのです?」


「い、偽りぃ!?ば、馬鹿にするのも大概に──」


「だぁから言ったじゃないか!こんなツルツルには何も出来ないって!」


開け放たれた襖から沙矢が現れた。


「つ、つるつる!」


北山は声を裏返しながら沙矢を指差した。


「ツルツルはお前だよ。呆れるね。この男が調べたのは己の無能さだよ。あ、鯰の置物!」


沙矢はそう言って壁に凭れた。


「む、無能だぁ!?」


北山はもはや言われた事を繰り返しているだけである。


─無能と呼ばれても仕方ないか。


「無能極まりない。さっきから聞いていれば一人芝居もいいところだぜ」


「何が一人芝居だ!」


「沙矢。お前が入ると北山先生が機能しなくなるから少し黙っていてくれないかな」


沙矢は「無能な機能」と呟きながら口角を下げて座敷から出ていった。


─完全に馬鹿にしている。


「失礼いたしました。─はて。何の話でしたか?」


「わ、私の報告書が─む、無駄だと!い、偽りだと言った!」


子供のように叫ぶ北山に対して英介は「あぁ」と凄く嫌そうな顔をした。


「私たちがあなたの報告書とやらを無駄だ偽りだと言う理由はね──私たちは事実を知っているのですよ。北山先生」


座敷の時間、いや北山の周囲の時間が止まったように感じた。


─この男が崩れる。


文芽は一瞬にしてそう思った。


「わ、私の報告書が──事実だ」


か細い声だ。

先程までの怒鳴り声とは正反対。

人のことなのに情けなくなる。


「私たちの知っている事実とあなたが仰っている事実には大変な誤差があるようですね」


「そ、そちらの──じ、事実とは何です?」


英介はため息を吐いた。


「前回類を階段から突き落とした彼らは本当はやっていないと言っていたのではないですか?──先程あなたは自白させたと、そう仰いました。違うと言っている生徒たちから、前科があれば疑われても仕方がないと無理矢理言わせたのでしょう」


北山の肩が震えている。


「それはいけませんよ。良くないです。あなたが骨折の原因を調査すると言っていた時にはもう私たちは事実を知っていました」


「そんな──」


「以前謝罪に来た彼らが再び此処へ来て、やっていないが、以前にやったのだから疑われても仕方がないと言われた。そう訴えかけたきました。これでは、北山先生。新たな虐めが勃発しますよ。よくないです。とてもよくない」


「そんなの!あいつらが嘘をついているんですよ!」


英介はきつく頭を左右に振った。


「いいえ。そんな事はありません。彼らは何もしていない。いいですか?証言を求めるべき人物は彼らではないのです。それは──」


英介は組んでいた腕をほどき、左腕を伸ばした。

袖口から細く白い人差し指がすっと指したのは──


「類ですよ。先生。当たり前だ。考えずとも分かることだ。あなたはまず、何がなんでも類から話を聞き出すべきだったのです。もっとも、類が始めから話をしていればこのような事にはならなかったのだけどね」


類は相変わらず哀れみの視線を北山に向けている。


「類。説明しなさい」


兄たちはとても類に優しく甘い。

弟に少しでも危害が及ぼうものならとてつもなく恐ろしい形相になり、彼を守ろうとする。

しかし、甘やかしてばかりではなく、駄目なものは駄目だと言い聞かせる事も忘れてはいない。


英介は類を厳しい目で見た。


「──今回、僕が階段から落ちたのは彼らとは無関係です。全く関係ない」


文芽は北山が壊れる音を聞いた気がした。


「あの日、昼休みの時です。次の授業が音楽だったので鍵を取りに行く当番の僕は職員室に向かって渡り廊下を歩いていました。その時、吉田さんが付いてきました」


「どのクラスの─吉田だ?」


「何組かは知りません。吉田リエさんです」


文芽は渡り廊下を歩く類と、のっぺらぼうの女子高生を思い描いた。


─青春。いいなぁ。


そんな事を思っていると英介がこちらを見て不思議そうに片方の眉を少し上げた。


「渡り廊下の先にある階段を下っていると、途中にパンの袋が落ちていました。僕は吉田さんに「パンの袋」と言って注意しましたが、彼女は飼っている猫の話に夢中で全く聞こえてなくて、もう一度「気を付けて」と言いました。すると彼女やっと聞こえたみたいで「何?」と言いました。次に僕が「パンの袋が落ちているから気を付けて」と言ったけど、彼女全く気が付いていなくて、ついにパンの袋を踏んじゃったので、よろけて足を滑らせました。彼女が怪我しちゃいけないと思って庇うように引っ張ったら僕が落ちました。そして、右手の小指を骨折。これが事実です」


北山は何も言わずに座っていた。

後ろ姿だけではどのような表情なのかが分からないが、おそらく顔面は蒼白だろう。


「黙っていた理由は、僕が彼女に口止めをしたのです。彼女は自分のせいで僕が怪我をしたと思い悩むと思ったから黙っていてほしいと、僕が言いました。でも彼女は家に来て謝ってくれました。その後に北山先生が来られて──」


─私が責任をもって調査する!と啖呵を切ったのか。おとなしく英介の話を聞いていれば良かったのに。


その後、英介の人を小馬鹿にしたような発言に対しても萎れた北山は何も言えず、ただ風に流されるようにして座敷を後にした。


英介は北山を送って行ったので座敷には類と二人になった。

文芽は類の正面に座った。

座卓にはいつの間にか茶が置かれていた。


「このお茶は類が入れてくれたのか?」


「沙矢が─持ってけって」


「そう。ありがとう」


─ありがたいが、あつい。


文芽は渋々茶に口をつける。


─あついな。


米の炊ける香りがふわりと鼻をかすめる。

沙矢が夕飯の準備をしているのだ。


「骨折の具合はどうだ?」


「不便だけど大したことないよ」


「そういえば、今日は祭りだそうじゃないか。類は行かないのか?」


類は頷いた。

行くと言えば逆に驚いただろう。


「後で行ってみるか?」と誘ってみるが、否の意思表示をする。

期待はしていなかった。


「屋台で食う焼きそばやたこ焼きは旨いぞ」と言うが反応はない。


「英介たちが一緒ならどうだ?」


それでも類は行かないと首を左右に振る。


何だか自分がお節介な伯父のように思えてきたのでこの辺で止めることにした。


すると「やぁ、お待たせしたね」と言って英介が現れ、床の間を背に座った。


「なんだい、文芽くん。類を外へ連れ出そうとしていたのか?それで?上手くいったかい?」


いくわけないのを承知で聞いてきているのが丸わかりである。


そして「はい、これ」と言って掌大の桐箱を出してきた。


「なに惚けた顔をしているんだ。まさか忘れていたのか?」


「いいや、そうじゃない」


「そんなだから沙矢に鯰だと言われるんだよ」


英介のその言葉に類がふっと笑った。


文芽は桐箱をそっと開ける。

そこには金色の懐中時計が綿の上に敷かれた黒い布の中で行儀よく収まっていた。


息をのんだ。


「あ─ありがとう」


風が髪を撫でる。


時計は時を進めているようだが、文芽は過去を思い出さずにはいられなかった。


英介の声で我に返る。


「電話で言ったように代金はいらないよ。その時計は修理していないからね」


「で─でも、ちゃんと動いているぞ」


「そうだね。かろうじて動いている」


「え?」


「時計はね、考えているよりももっと複雑だし緻密なんだ。一つの部品が永年の動きで疲労して錆びてしまっても、その錆があるから絶妙なバランスで動いていることもあるんだよ。その錆を取り除けば時計は二度と動かなくなる。ある部品が疲労で歪んでしまったとしよう。その周りの部品がそれに合わせるよう同じように歪んでいってしまうんだね。だからね、その中の一つを新しい部品に変えてしまえば逆に現存の部品に合わなくなってしまい、時計は動かなくなる」


「そう。──直せないか」


「いいや。やろうと思えばできるよ。その中の部品は製造しなくなった物が多く使われているから、それを一から僕が作り、オーバーホールをすれば満足できるだろうが、大学時代の下宿先のお婆さんが営むたこ焼き屋で働くきみが払えるような値段ではないよ」


さらりと毒づく。


「いいんだよ。別に。動かなくなったらそれはそれで構わないんだ。こんな物はどうでもいいよ。壊れようが無くなろうが構わない」


なんだか弁解するようにそう言うと、英介は片眉を上げた。


「僕が買い取って販売してもいいよ。この懐中時計は1930年にスイスで製造されたのものだ。好きな人にはなかなかの代物だと思うよ」


「70年しか経っていないのに?」


「腕時計や懐中時計の歴史は以外と浅いのだよ。どう?売る気になったかい?」


「う、売りはしない!」


英介は、そう─残念と言って、残念そうには見えないような表情で庭を見た。


すると沙矢が和室に顔を覗かせた。


「類、食事ができた。運ぶのを手伝ってくれ。あや──鯰くんも食べるでしょ?」


今、明らかに名前を言ったのに、なぜか鯰と言い替える。


「え?でも─」


「何を渋ってるんだよ。もう鯰くんの分まで用意してあるんだから」


そう言って沙矢は類と部屋を後にした。


─沙矢の料理は美味しい。


少し得をした気持ちになり、嬉しくなった。



茄子とオクラのお浸し、厚揚げ、鯖の煮込みが本日のメニューである。

全ては近所のスーパーで購入した食材で仕上げた。

英介も類も必ず美味いと激励する。

本心から。


それも納得する程の仕上がりなのだから、自然と美味いと言ってしまう。


すると沙矢は満足そうに白米のお代わりを勧めてくるが、文芽は元々そんなに食べる方ではないので素直に断る。





食べ終わると座卓が片付けられ温かいお茶が配られた。

英介は新聞を読んでいる。

この家にはテレビがないので静かな空間で四人はしばらく無言で茶を飲んだ。


──どう、切り出そうか。


「英介!類!見てみろ!鯰が燻っているぞ!」


沙矢が楽しそうにそう言ったので全員がこちらを見た。


「文芽くんは昔からすぐに表情に出る性格だからね。分かりやすい」


英介は新聞を折り畳み、文芽を見た。


─こいつら、気付いている。


「─あの、俺─」


三人は黙っている。


どう話せば良いのか考えていると英介が口を開いた。


「時計だね。懐中時計」


文芽は息を飲んだ。


「そんなに古いものをいきなり引っ張りだしてきて修理してくれって。本来、文芽くんにとって時と云うものはあって無いに等しいからね、時間を気にしたことなんてない。それなのに懐中時計の修理を依頼してきたから驚いたよ」


そうは言うものの、英介は驚いた様子は見せずに素直に引き受けてくれた。


「懐中時計がどうした?」と沙矢が興味津々だ。


「─俺、実家に帰るよ。一週間で戻るんだけど──どう?」


「どう?って。わざわざ僕の了承など得なくても帰ればいいじゃないか。僕は文芽くんの恋人ではない。そもそも僕も君も男だし、気味が悪いじゃないか」


─それはさっき沙矢にも言われた。


「そうじゃなくて─。一緒に帰らないかと聞いているんだよ」


「益々もって気味が悪い」と英介が眉間に皺を寄せた。


「変な意味などない。きみは前に言っていたじゃないか。俺の故郷へ行くのも悪くないと、偉そうに。だから誘ったんだよ。良い機会だから。それにもう─帰らないつもりだし」


「帰らないの?」と類。


「なんで帰らないの?家族がいるんでしょ?」


珍しく類が口を開く。


「家族に会いたくないの?ねぇ?」


類に詰め寄られるのは初めてだ。

この碧色の瞳が綺麗に潤んでいる。


「類、その辺にしないと文芽くんが困って何を仕出かすか分からないよ」


「俺がいったい何をするんだよ」


類が変わらずすがり付くように見てくる。


「会いたくないわけじゃないよ」


文芽は大きく息を吸った。


「俺は大学進学のために此所に出てきた。それは知っているだろう?だが、他の理由があるんだ。大学進学よりも大切で、その事のために俺はこの地へ来た。そう言った方が正しい」


三人は黙っていた。


「山と川に恵まれた場所なんだ。田舎だから年寄りも多いし、事件といえばどこかの爺さんが酔っぱらって道端で怪我したとか、そんなものばかり。村には若い者もたくさんいたけど、将来は土地を離れる者がほとんど。俺はそれなりに勉強もしていたけど、将来は親父のように畑でも耕すんだろうと、何も考えないで生きてきた。この土地で産まれ、同じ土地の者を嫁にもらい、子供を育て、孫を可愛がり、そしてこの土地で死んでいく。祖父のように──」


「お祖父様が亡くなったのか?」と沙矢。


「あぁ。心筋梗塞だそうだ」


「それが─僕に懐中時計を持ってきた日だね。お祖父様の名前は文蔵。なんてことない、名前が彫られていたよ。しかし、それは一週間前だったけど。今から帰るのかい?」


「通夜も葬式も出たくなかった。祖父には可愛がってもらったし、すごく悲しいけど、あの土地に戻るのは─俺にとっては簡単じゃないんだ。─俺は──村八分にされた。家族ではなく、俺一人が」


英介が眉をひそめる。


「村八分とはまた時代錯誤な言葉だな」


「昔からそこに住んでいる家がほとんどだから小さな頃から近所総出で子育てをしているようなもんだった」


近所同士の繋がりや信頼関係は、今日では考えられない位に固く遵守されてきた。

それを乱す者は村八分にされ、追い出される。


朝靄の山中の匂い、夕暮れ時の川のせせらぎの音色。

紅く、全てを焦がしてしまいそうな太陽、夜空にぽっかり穴が空いてしまったような真ん丸な月。

五月雨が屋根を打つ心地よい音、新雪を踏んだ時の高揚。


紅い血。

苦痛に悶える声。

冷ややかな汗。

悲しい、透明の涙。


懐かしい気持ちに突如として舞い込んで来た記憶をはね除けるようにして姿勢を正した。


「俺は─嘘をついたと責められたんだ。──小学4年生の頃」


あの時の腹の底が抜けたような感覚が蘇る。


「放課後、山に散歩に出掛けたんだ。歩いていると、人の声が聞こえてきた。山の中だからといって、人が全く寄り付かないわけではなかったから不思議には思わなかったけど、その時に聞こえてきた声が女の子だったから妙に感じたんだ。すぐ側まで近付いて行くと何だか異様な雰囲気で、少し怖かったから木の陰に隠れた。声は4、5人くらいで、話をしているのかと思ったら急に叫び声が聞こえてきて──怖くて動けなかった。聞いたことのないような─喉から絞り出すような汚ない声は、ぱたりぱたりと減っていくんだ。何が起きたのか知りたいけど、怖くて見ることが出来ない。だけど意を決して木の陰から覗くと、木々の間に女の子が4人横たわっていて、白眼を向いて泡を吹いていた。額や四肢からは血が流れ、髪は疎らに引き抜かれていたんだ。死んでいると思ったよ。驚いて声を出す事すらできなかったその瞬間に視線を上げると、鮮やかな朱色の着物に身を包んだ髪の長い女がこちらを見ていた。─山姫だ。山姫に殺されると思った。だから、絡まる足を奮い立たせ一心不乱に家に戻り、上手く回らない舌で今見たことを全て話した。事の重大さを承知した大人たちは急いで山へ入った。30分もすれば女の子たちは発見され、病院へと運ばれた。幸い死んではいなかったが、目を覚まさなかったよ。今でもそうかもしれない。しかし、俺が話した着物姿の女は見当たらず、現場を見てみてもそんな人物がいた形跡は全く無かったと言われた。本当に見たのか?と執拗に問われ、自分でも分からなくなってきた。何が山姫だ、嘘をつくな、いい加減な事を言うんじゃない、大人をからかうな。と散々言われた。周囲の大人が怖くて─だから俺は、見間違いだと言った。すると大人たちは、では何があった、誰がやったと聞いてきて、俺は訳が分からなくなった。何と答えればいいか分からなくて黙りこむと、警察は一応その女を探すことにしたみたいだが見つからない。痕跡がないのだから仕方がない。そのうち俺は村人から白い目で見られるようになったんだ」


両親や妹、祖父母は気にしてくれていた。


異物扱いは文芽一人だけに留まった。

父親の兄が村の役場建設や公民館建設に大きく携わり、慕われていたので、その弟を無下に扱うわけにはいかなかったのであろう。


もしその事がなければ家族一同、村八分にされ、一刻も早く村から出て行かなければならなかっただろう。


学校でも虐められるようになったが、家族には黙っていた。

文芽は高校卒業まで我慢した。


そして、村を離れた。


「戻れば歓迎はされないだろう。だからお前たちと一緒に祖父に世話になった者として帰りたいんだ」


「お前たちって、英介はともかく僕と類まで巻き込むつもり?」


「人数は多い方が目立たなくて良い。類は昨日から夏休みだろ?沙矢の仕事はどこでもできるじゃないか」


「四人で多いのかよ。しかも新顔が揃って参上すればそれだけで目立つぜ。それに僕の仕事がどこでもできるって、鯰くんイラストレーターを馬鹿にした?」


「してないよ。沙矢の場合は墨と筆と紙があればできるじゃないか」


「確かにそうだ!」と沙矢は笑った。


「頼む。ついてきてくれ!旅費は俺がもつ。食事も宿泊も俺が全て面倒見るから!」


返事は早かった。


「いいよ」


「え?」


「別に嫌だとは言っていないだろ」


英介はそう言って茶を飲んだ。



──────────



そういうわけで、文芽は三人と共に実家に帰った。

文芽は車を持っていないので英介の愛車のミニを拝借する。

運転手は文芽、弁当は沙矢が作り、男四人のむさ苦しい車内はちょっとした遠足気分になる。


道中、沙矢が寄り道をしたいと言い出し、それを無視し続けていると頭をしばかれた。

そして「文芽くんにはあげない」と言って、文芽の好物のみたらしだんごを見せびらかしたが、数分後には何故か機嫌を直した沙矢が文芽の口にそれを乱暴に差し出した。

お陰で口の周りがベトベトになったが、とても旨かった。

旨いと褒めるとさらに機嫌を良くしてお茶を注いでくれた。


上機嫌の沙矢が窓を全開にすると、いきなり大きな虫が車内に侵入してきた。

沙矢が嬉しがって虫を閉じ込めると真剣に類に怒られたので渋々窓を開けて逃がした。

類は虫が苦手なのだ。


そして沙矢は「類に怒られたのは鯰くんのせいだ!」と言ってふて寝した。

文芽が沙矢のみたらしだんごを褒めなければ上機嫌になって、窓を開けはしなかったと言いたいのだろう。


英介は終始苦笑いしていた。




見慣れた田畑。

公民館、役場──。


徐行しながら細い道を進む。

早朝に到着する予定にしていたので人気はないが、家々からは灯りが見えるので、住民は目覚めてはいるのだろう。


見つからないように急いで家へと車を走らせる。


家族には友人を連れて他人として帰る旨は伝えていたので、到着すると朝ごはんが人数分出された。


母親と三人が挨拶を交わしているのを見て、胸元がむず痒くなる。


このような待遇で申し訳ないと無礼を詫び、文芽にも頭を下げさせた。


祖父への挨拶をすると悲しみが押し寄せてきた。

なぜ、このような形でしか帰れないのかと情けなくなり、悔しかった。


自室は今、妹夫婦が使用しているので、文芽は英介たちと客間で布団を並べる事になり、益々肩身の狭い気持ちになる。



昼過ぎになり、四人で散歩をした。

懐かしい景色を紹介しながら、薄っぺらな思い出を語る。

あれから時も経ち、一目見ただけで住民は嘘つきの日高文芽とは判断できないだろうと思ったが、一応眼鏡をかけることにする。



時折、農夫に話し掛けられると文芽は英介の陰に隠れなけらばならず、よけ いに虚しくなる。

誰にも気付かれない。

三人は日高文蔵の知り合いだと話を合わせてくれた。


それが有り難く、悔しかった。


一通り散歩を終え、家に向かっていると、道端で佇みじっと山を見ている女性をみかけた。


紺の浴衣には薄い朝顔が咲いている。

髪はまとめあげられ、首筋にははらりと落ちた髪が汗でくっついていて、とても艶かしかった。


その女性はゆっくりとした動作で四人を振り返った。

そこに人が居たと思っていなかったのか、少し驚いた様子で頭を一度下げた。

肌がとても白く、瞳は憂いていた。


そして、次に顔を上げた時に文芽と目が合い、女性は目を細めた。


文芽は息を飲んだ。

鼓動が早くなる。


「─文芽さん」


女性は潤った声でそう言った。

文芽は何も言えず、また動けないでいた。


「文芽さん──」


女性は表情を少し綻ばせたように見えたが、憂いた瞳は変わらずだった。


「お帰りに─なられたのですね」


「い、いや。人違いです」


女性は眉を歪ませ、俯く文芽の顔を覗き込むようにした。


「なぜ嘘などつかれるのです。私が文芽さんを忘れるわけがありませんわ」


「いや─違います。人違いですよ、本当に」


「──左様でございますか。それは大変失礼いたしました」


女性は悲しそうにそう言って頭を下げると四人を追い越した。

彼女の姿が見えなくなると文芽は緊張から解かれ、大きなため息を吐いた。


「綺麗な人じゃないか」と沙矢が下唇を出してからかう。


「あの人は──近所に住む滝沢紫乃さんだ」


近所と云っても歩いて五分。

これでも一番近いのが滝沢家である。


「文芽くんはとても芝居が下手くそだ。あんな調子じゃあ彼女が気がついてもおかしくはない。寧ろもうきみが日高文芽だと気が付いている様子だった。これで堂々とよく他人の振りをして帰ると言えたものだ」


英介がそう言うと、類も何度か頷いた。


「しかし──紫乃さんと云う方はきみと相当会いたかったようにお見受けしたが──うん。そして、きみもそれに応えたいと僕は感じたのだけど、どうやら間違い──なさそうだね」


「鯰くん。本当に分かりやすい。顔が赤い。顔が赤い」


沙矢は類に「見てみろ!」と嬉しそうに言った。


何だか恥ずかしくなって余計に顔が熱くなる。


同い年の彼女は学校でもマドンナと称されるほどの美人で、しかも清楚で頭も良かった。

運動もでき、父親は隣の町で一番大きな産婦人科の院長をしており裕福。

美術、音楽にも長けており、人当たりも良い。

しかし、それを鼻に掛けることは一切なく、常に謙虚で真面目だった。


天は二物どころか、人の羨むもの全てを彼女に与えたのだ。


確かに文芽は紫乃に憧れていた。

幼い頃からずっと。


だから紫乃が同級生から悪口を言われていたりするととても腹が立った。

しかし、それを注意する事もできず、ただひたすら彼女への罵詈雑言を聞き流すようにしていた。


下校中に見かける彼女の後ろ姿はそれでも凛としており、高嶺の華であった。


─あの時の姿と何も変わりがない。昔から大人びていたのだ。


手の届かない存在。


まさか会えるとは思っていなかった。

父親の勧めで医師と結婚し、土地を離れていると思っていた。

それは全て自分の勝手な想像なのだけれど。


「文芽くん?文芽くん!」


英介の声で彼を振り返る。


「まったく。ぼぅとして過去に浸るのも大概にしてくれないかな。僕たちだけじゃこの土地のどこに何があるのか分からない。きみの案内がないと野宿になっちゃうよ」


「あ、あぁ。すまない」


「ねぇねぇ。あっちの方が賑やかだけど何かあるのかな?」


沙矢が指差す方を見ると、確かに人が多い。

設置しかけのテントも見える。


「明日の夏祭りじゃないかな?」と文芽は適当に答える。

屋台らしきものも見えているし、何せ昔からこの時期はあの神社で夏祭りが催されるのだ。


その日はそのまま外食してから帰宅したが、夜空が綺麗だからと再び夜半頃に出掛けた。

沙矢が子供のようにはしゃぎ回り、類に面倒臭がられるのが少し面白くてからかうと追い掛けられ、転んで膝を擦りむいた。

もちろん三兄弟は腹を抱えて文芽を笑った。



翌日、昼過ぎに外へ出てみると山裾にある神社へと向かう田んぼ道には屋台が並び人が賑わっていた。

この地域で一番大きな夏祭りなのかもしれない。

普段は──といっても最近の様子は知らないが──地元の人間しか見ないのにこれだけ人が溢れていて驚く。


「すごい人だね。これだけの人数どこに隠れていたんだろうね」と英介が感心したように呟く。


「そうだ。僕たちも祭りに行こうか。屋台を覗くだけでも楽しいよ。沙矢も類も文芽くんに浴衣を借りれば雰囲気がでる」


「兄貴みたいに常に和装じゃないからすぐに着崩れるよ」


「自分で着ればどこが崩れるか分かるんだよ。そうだよ。これを機会に着方を教えるよ。文芽くん。浴衣を貸してくれるかい?ついでに文芽くんも着ればいい」


─借りる人物についでとは酷いじゃないか?


「あるにはあるけど─親父の物しかないだろう」


何せこの家に居たのは高校生までだし、それ以降、浴衣など着ようと思ったことすらない。

家に戻り母親に浴衣を出してもらうと「男四人で夏祭りですか?私はてっきり女性も連れてくるのかと思っていたのですがね」と嫌味をたれた。


英介は類には白色の生地に縦に一本紺色で染められた浴衣、沙矢には干草色の浴衣、文芽には紺色の浴衣をあてがい、手早く三人に着付けを指導した。

飲み込みの早い類は二回程脱いで完璧に覚えたが、沙矢は面倒臭いと言って英介に着付けてもらったきりのまま庭へ出て虫を追い掛けた。

徐々に着崩れてきているがそれがとても様になっており、妙な色気が出ている。

文芽はと云えば覚えようと頑張ったが早々に断念した。



暗くなってから家を出た。

屋台の明かりに照らされている木々は赤く燃え上がりそうだ。


文芽たちは吸い込まれるように神社へと入って行く。


参道の奥の小さな公園のような場所では子供たち向けにマジックのショーが行われている。


「ほら、文芽くん」


英介を振り返ると、手には妖狐の面を持っていた。


「何だ?」


「何だ?って、お面じゃないか」


「それは分かるよ。何で俺にこれを?」


その言葉に三人は互いに顔を見合わせた。

類は丁寧に溜め息まで吐いてくれた。


「文芽くん。本当に気付いていなかったんだね。もう少し周りを見なよ」


文芽は急いで辺りを見た。


「きみねぇ、見られているよ。文芽くんが「自分だとは気付かれたくない」と言ったのにね。年齢的にきみの同級生か、その家族あたりじゃないかな。気付かれているかもしれない」


「でも、夜だし暗いよ。顔の判別が出来るか?」


そう言いながらも文芽は英介から面を受け取ると顔に付けた。


「鯰くん。似合わないね」


「面に似合うも似合わないもあるもんか」と言い返す。


「それがね、文芽くん。面白いことに一つの面でも被る者によって表情が違うように見えるんだ」


「まさか。面が変わるわけないじゃないか」


声が面に跳ね返されて何だかこもって聞こえてくる。


「物には意識はないから自らの意思で変わる事はない。だけど見る者に意識があればそれは変化するんだよ」


「ややこしいな。視界も狭くなるしさぁ」


「例えば、沙矢がその面を被るとしよう」


英介は文芽から面を取り、沙矢に被せた。


「おどけた妖狐だ」と文芽が呟くとそうだねと英介は笑い、次は類に被せた。


「なんとも爽やかな妖狐だな」


「それで次が僕──」


そう言って英介が面を被った。


「この妖狐には近付きたくない。絶対に。冷淡な感じ」


「冷淡は酷いよね」と言って英介は面を外した。

沙矢と類は冷淡だ、冷淡だと笑っている。


「こんな感じでこの面一つにとっても──幾多の表情がある。対象その物には変化は見られなくても、それを見る者の知識が作用されるんだ。文芽くんが言ったような面を被った僕らのイメージは文芽くんが僕らの事を知っているからこその言葉であって、見知らぬ者が同じように言うとは限らない。しかし、今の場合は面を被った所を見られてしまった。だから、誰が面を被ったかが分かった上での話だ。面を被っている所を見られない限り、同じような背格好の人物を並べて微動だにしなければ目的の人物を当てる事は困難だろうね」


「じゃあ、沙矢が似合わないと言ったのは?」


「それは、沙矢が持つ妖狐の概念と文芽くんが合わないから、こいつの中で違うとなったんだろうね」


文芽は英介から面を受け取ると再びつける。


「鯰は何をしても鯰だ。狐にはなれないよ」と沙矢がいつの間にか購入したイカ焼きを食べながら言う。


お堂の裏手までやってきたが、さすがに真っ暗で何も無い。


何もないので引き返そうと振り返るとそこには一人の女性がこちらを見て立っていた。


四人は立ち止まり、物憂げな女性と向き合った。


「素敵なお面ですこと。私もそれが欲しいですわ」


「欲しいなら。あそこに売っていますよ」と沙矢が賑わう屋台の方を指差す。


女性はその方をちらりとだけ見て微笑んだ。


「いいえ。ありません」


「あるさ。だってあそこで買ったのだから。なぁ?」


沙矢が英介に確認をとる。


「あぁ」


「絶対にありません」


「ある!」と叫ぶ沙矢を英介が牽制した。


「ないよ。沙矢」


「ない?あんなに沢山あったのに一瞬で売り切れか?」


英介は「そうじゃないよ」と小さく笑った。


「あの屋台には沢山の妖狐の面があるけど、この方はこの面が──彼がつけているこの面が欲しいと──そう云う事ですね?」


「えぇ。そうです」


「彼がつけているこの妖狐の面はこの世で一つだけだからね」


全員が文芽を見る。

小さな穴から覗く世界はどうも現実離れしている。

特にこの女性──


─紫乃さん。何故俺に構うんだ。


文芽は一歩二歩後退したが、紫乃はそれに合わせるように近付いてくる。


ふと英介を見ると小さく頭を振り、顔に手を当てて面を取るような仕草を見せた。


─もう逃げられないと云う事か。


文芽は観念して面を外した。


外せば視界が広がるが、辺りは光がないので暗いままである。


「─文芽さん」


紫乃はそう言って文芽に近付いたが、何故か彼女から距離をとろうと後退りをしてしまった。


「私はあなたにとても会いたかった」


薄く消えそうな声でそう言う。


─やめてくれ。


紫乃の湿り気のある視線がまとわりつく。


─やめてくれ。来ないでくれ。


「あれから私は独りぼっちで、恐ろしく、苦しくて怖かったのです」


─やめろ。


「惚けたお顔は昔のままですね」


ころころと上品に笑う。


「あなたがいなくなったあの時の事です。やっとお戻りになられました」


─やめろ!


「ねぇ?文芽さん?」


すぅっと胸に風が吹いた。


「厭だ!やめろ!く、来るな!」


文芽は面を紫乃の足元に叩きつけると後方に走って逃げた。


「文芽くん!」と英介の声が聞こえたように思ったが無視した。

今は何よりも逃げたかった。

あの場所──いや、紫乃の視線に耐えられなかった。


覚悟して戻ってきたはずなのに、対峙すると逃げてしまう。

自分にはそれしかできないのだ。

苦しくて恐ろしかったのはこっちの方だ。

ちっとも大人になれていない。


浴衣なんて着てくるんじゃなかった。

とても走り難い。


─厭だ!厭だ!


その時だった「文芽くん!」と後ろから腕を掴まれた。

その手を振りほどいても直ぐに捕まる。


「ぬるぬる逃げるのは鰻だけにしてほしいね」と逃げる事に諦めた文芽に英介が言う。


「浴衣に馴れていない鯰くんが、常に和装の兄貴から逃げおおせるとでも思ったのか?境内からも出られていないじゃないの。それにね、捨て台詞を吐いて逃げるのは少女だけと相場が決まっているよ。鯰くんはどこからどう見てもおじさんだよ」


「どこの相場だよ!誰でも捨て台詞ぐらい吐くじゃないか!」


いつもの会話に安心する。

さっきまでの出来事が、もしかしたら無かった事にできるような気がした。


─できるわけがない。


「行こうか」と英介が先を歩くのに従った。


「何も聞かないのか?」


「興味ないもん」とさらりと英介が言う。


「─自分でも分からない」


問われてもいないが言わずにはいられなかった。


「なぜ、逃げたのか─。怖くて苦しいという気持ちが──何故か分からないんだ!俺は周囲からは白い目で見られたり苛めを受けたりしていたが、紫乃さんには何もされていない。それなのに──」


─何故だ。


「あの視線が──」


思い出すと苦しくなる。


「文芽くんは何がしたいの?ここにはお祖父様へ挨拶に来た。でも、それだけ?それだけなら直ぐに帰ればいいと僕は思うのだけどね」


過去から逃げていた。

考えないようにしてきた。


あの自分の記憶は何が本当なのか。

それを知るのは自分だけだ。

あの時、大人たちに責められ恐ろしくなり、本当のことを隠すようにしてしまった。

本当の事を知るのは自分だけ。

誰も分かってくれなかった。

あれが事実なのに。


─あれが事実。


あんなに恐ろしい体験は忘れようがない。

忘れたくても無理だ。

忘れようと意識すると云う事はもうすでにそれに囚われていると云うことじゃないか。


─あれが事実なんだ。


そう。


─あれが。


「まぁいいや。屋台で何か買って帰ろうか。お母様には外で済ませてくると言ったから何も食べていないと気を使わせてしまうだろうし」


英介はそう言うと、近くの屋台で焼きそばを購入した。



──────────



翌日の昼前に文芽は腹の底が抜けたような恐怖に襲われた。


「加藤弘子ちゃんが亡くなったって──。いきなりヒステリックを起こして病院から逃げ出したみたい。そんな事は初めてだそうよ。それで車に轢かれたって」


そう母親が顔面蒼白で文芽に知らせてきた。


「加藤弘子って、誰?」と沙矢が暢気に聞いてくる。


加藤弘子は同級生。

あの事件─文芽が山姫を見たと云う事件の被害者の一人。

あの事件から言葉を話せなくなり、部屋に引きこもり、体調不良で頻繁に入退院を繰り返していた。

それは文芽がこの地を離れてからも変わる事はなかったようで、回復の兆しすら見えてこなかったと母親は捕捉すると部屋を出て行った。


「どんな子だったの?」と英介。


「気が強かった。誰も彼女には逆らえない感じ」


「ねぇ?山姫って何?」と類。


「山姫?知らないか。そうか田舎に付き物の話だもんな──。山姫ってのは山奥に住む美女だよ。長く美しい髪に透き通るような白く滑らかな肌。──まぁ妖怪なんだけどね。伝承は色々あるんだけどどれも出会えば命を落としてしまう。それも殆どが血を吸われるんだ」


「文芽くんは、それを見たんだね?」と英介。


「──見た」


─あれは山姫だった。


「山姫だった」


被害をうけた彼女らは失語症に陥り、山姫の存在は消された。


─綺麗な髪に白い肌。とても綺麗な容姿。


「山姫を見た」


─間違いない。山姫だ。


「でも山姫ってのは血を吸うんだろ?彼女たちは吸われていなかったから生きていたんじゃないの?」と沙矢。


「血を吸うと云うのは伝承の一つだよ。出会うだけで命を落とすとか毒を浴びせられるとかあるんだけど、逃げ切る方法もちゃんとある」


「鯰くんは逃げおおせたのだな」


「なんだよ。不満か?」


「いいや」と沙矢が笑う。


「加藤弘子さんは何故逃げたのだろうね?」


英介の言葉に三人は互いを見た。


「お母様が仰っていたように、今まで加藤弘子さんは精神が不安定になることはなかったのだろう?それが急に病院を飛び出した──何故だろうねえ?」


「何故って──何かあったんだろう」と沙矢。


「何かって何?」と類。


「いいか類。何かってのは何かだ!」


「俺──か?俺が帰って来たからなのか?」


「文芽くん。きみはここへ帰ってきてから、ずっとこそこそしていたけどね、多くの人に目撃されたかもしれない。だからといってその事をわざわざ加藤弘子さんに報告するかな?そもそも加藤弘子さんは文芽くんに何かをされた訳では──ん、文芽くん。加藤弘子さんに何か人に言えないような事をしたりしていないよね?」


「す、するもんか!あの時、俺は小学生だったんだ!そもそも相手は気の強いリーダータイプだ。俺は一言も話したことなんかない」


そんな会話をした数時間後──再び訃報を耳にするとは思っていなかった。


何もする事がないので四人でドライブでもしようと靴を履いていた時、妹が呼び止めた。


「田畑亜紀枝さんが──亡くなった」


文芽は足の力を無くしたかのように立てなくなってしまった。

その様子を見た英介は察したようで、妹へ質問をした。


「田畑亜紀枝さんは何故亡くなったのですか?──自殺?それはどこで?──マンションから飛び降りた。それは──あぁ、自宅だったんだね、五階か。最近彼女と会ったことは?スーパーで母親と一緒に買い物をしていたのを見たのですね。その時の様子は──噂通り?噂とは?意思を持っていないかのような足取り、とても静かで話もしないのだね。ヒステリックを起こすという噂はありましたか?──ないですか。どうもありがとう」英介は文芽の耳にもしっかりと届くように言葉を繰り返した。


そして英介は文芽の視線に合わせるように腰を落とし「文芽くん。田畑亜紀枝さんもきみの同級生だね?山姫の被害者の一人だね?」と聞いた。


文芽は目に涙を溜めながらゆるゆると頷く。


三兄弟は驚き、不審に思った。


「俺が帰って来たからか──そうだ。俺が帰って来たからだ!」


「──文芽くん。過去に向き合う時だよ。それを覚悟で来たのだろう?きみが過去を曖昧に片付けるから、このように据わりの悪い感じになるのだよ。山姫を見たなら堂々と主張するのだ。二人の死は偶然重なっただけかもしれない。だがね、文芽くん。きみが帰省してそのせいで二人がなくなった、と自責の念に駆られるのなら僕は過去に向き合うべきだと思うよ。きみは追わなくて良い責任まで自ら背負い込んで、あろうことか苦痛に押し潰されようとしている。そんなきみの面倒を見るのは──絶対に嫌だよ」


英介がそう言って立ち上がると沙矢と類も「嫌だ、嫌だ。絶対に嫌だ」と主張した。


「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか」と不満を漏らす文芽に手を差し出す類。


文芽はその手を借りて立ち上がった。


英介の言っていたのは正しい。

山姫を見たと言ったものの、大人たちにふざけるなとどやされ、苛めにあった。

それを翻すとでは何があったか答えろと言われ、混乱してしまった。

変質者の仕業だと大人たちに刷り込まれたが、山姫を見た記憶は消せない。


それと同じように、あれは変質者ではなかったと言いきれる自信があるわけでもなかったし、本当は変質者でも山姫でもなく気のおかしくなった自分が──とも考え悩んだ事もあった。


何があったか判然としないし、何故こうなったかも分からないままに時が経ち、文芽は自分の記憶に蓋をした。

蓋をして鍵をかけ心の奥へ埋め込み背を向けた。

それは全て比喩にすぎないが、それくらいしなければ自分がおかしくなってしまいそうだった。


「そもそも、加藤弘子さんと田畑亜紀枝さんを含む四名─あの時彼女たちは山で何をしていたの?話し声が聞こえてきたのでしょう?」


一旦部屋へと戻った四人は文芽の小学生の時のアルバムを広げて見た。

沙矢は「鯰は昔から鯰なんだ!」と嬉しそうに声をあげた。


文芽は頭を捻る。


─話の内容なんて覚えていない。そもそも何を言っているのかなんてはっきりと聞き取れなかった。


「部分的なら──なんとか思い出せる。─確か、えっとね──鬱陶しいって言ってたかな?いや、いってほしい、かな?」


「いってほしいっていうのは何処かに行ってほしいと云う事かな、それとも何か言葉を言ってほしいと云う事かな」


「聞き間違えってのもあるんじゃないか?いってほしい、鬱陶しい。ほら似てる。もしかしたら売ってほしいとか、持ってほしいとかかも。そんな事言い出すともう色々なっちゃうけど」


「確かに沙矢の言う通りだね。では文芽くん。その四名は学校ではどんな子だった?」


文芽は卒業アルバムの最後の方のページを開け、彼女たち四人が最後に写る事となった三年生の時の写真を指差しながら説明した。


加藤弘子。

彼女は四人の中でも先頭をきって行動する性格。

はっきりとした物言いと鋭い目付きで周りの生徒からは恐れられていた。


田畑亜紀枝。

加藤弘子の腰巾着。

必ず加藤の後ろに立っている。


そして広瀬花菜と崎浜美智子。

この二人は印象的な性格ではなかった。

ただ、前を行く二人に付いていくと云う─あの二人と居れば守られると云う感じに見てとれた。


「では、広瀬花菜さんと崎浜美智子さんは山姫の被害に遭った後どうしたの?」


「崎浜美智子は退院したきり俺の知る限りでは外には出ていない。広瀬花菜は直後に引っ越してしまった」


「その四名は常に行動を共にしていたんだね?」


「うん。クラスは違ったみたいだけど」


「周りから恐れられていたって言ってたけど何で?」


「よく分からない。俺には仲良くしている友達なんていなかったし、当たり障りのない性格だったから周りも干渉はしなかった。俺も周りにはあまり執着はなかった。だから、誰が誰をどう思っているかは印象的な所でしか判断できない。つまり、彼女たちが恐れられていた理由は分からない」


「反発すると苛められるとか?」と沙矢。


「そうじゃないと思うよ。彼女たちが誰かを苛めていた記憶はないなぁ。むしろ、それを阻止している感じだったと思う」


「苛めるとお前を苛めるぞって?」


「よく分からないよ」


じゃあ──と言って英介はアルバムを閉じそれを持って立ち上がった。


「聞きに行こう」


「何を?」と戸惑う文芽に英介は微笑んだ。


「彼女たちが恐れられていた理由だよ」


そんなわけで現在、文芽たちは英介のミニに乗り堀田家の前に居る。


堀田美妃。

彼女は加藤弘子と同じクラスで、当時学級委員をしていた。

今は母校の小学校で講師をしている。


文芽はとりあえず車の中で類と待機する事になった。


木の影に隠れているので窓を開け放し耳を澄ましていれば会話を聞くことができる。


呼び鈴の音が聞こえるが、その後の反応はない。


すると目の前を疲れたような冴えない表情をした地味な服装の女性が通りすぎた。


そして「あの──」と女性の声が聞こえてきた。


堀田美妃だ。


「あの、何かご用ですか?」と訝しそうな声。

それはそうである。

見知らぬ男が二人、家の前に居るのだから。

しかもその内の一人は和装だし。


「あぁ、お出掛けでしたか」と英介の声が聞こえる。


「ん?おや?」と再び英介。


英介と沙矢の声はさすが兄弟と云うだけあってとても似ておりどちらの声か分からなくなるので口調で判断するしかない。


「あなた様は──松井様でいらっしゃいますか?」


「いいえ。違います」


「そうですか。うーん。困ったねぇ。この地図では松井宅は此処だと──何せ約二十数年振りだからねぇ。ちなみにお宅は?」


「堀田です。松井ではありません」


「─堀田様でしたか。私、鯰田と申します。こっちは私の弟。─ん?以前どこかでお会いした事はありませんか?──あ、ない?僕の記憶では─うん─やはり。まぁいいか。いやね、地図を見ながら来たのですが分からなくなってしまいましてね、この地図─松井宅を指しているのですがご存じありませんか?」


少し間が空いた。

地図を見ているのだろう。


─猿芝居だとは知らずに。


「こちらでしたら、ずっと左に進みますと郵便局が見えてきます。それを右に曲がって突き当たりのお家です」


「郵便局!やっぱ、あそこだったんだ!あそこを曲がるんだよ!だから言ったじゃないか」と沙矢の芝居じみた声が聞こえてくる。


「そのようだね。そういえば、あの周辺は少し騒がしいように見えましたが、何かあったのでしょうか?」


─きたぞ。ここからだ。


「え?えぇ。確かこの地図の──こちら、加藤さんのお宅のお嬢様が事故に遭われてお亡くなりになられたので、そのせいかと思いますが」


「加藤、加藤──あ、もしや加藤弘子さんですか?」


「ご存知ですか?」と堀田美妃は驚いた声をあげた。


「はい。松井宅の隣の加藤弘子さんでしょう?実は私、彼女とは同い年でしてね。松井宅とは父が昔から懇意にしておりまして度々こちらに遊びに来ていたのです。その際に加藤弘子さんとも仲良くなりましてね。しかし、それも小学校の確か──三年生まででしたか。松井宅に訪ねていっても加藤弘子さんとは会えませんでしたね。松井のおじさんが言うには何か事故に遭われたとか──」


もちろん、全て嘘である。

わずかな時間でよくここまで出任せを考え付いたものだと感心する。


「ああ、事故」と堀田美妃が声を沈ませた。


「とても良い子だったのですよ。活発でよく笑うし優しかった」


「え?そ、それは──弘子ちゃんの事ですか?」


「嫌ですよ。あたりまえじゃないですか」と英介がふふふと笑った。


「彼女、優しかったでしょ?」


その言葉に返事はない。


自分ならそんな事を聞かれると「はい、そうですね」と当たり障りのない返事をするのだろうが、彼女は違った。


「私─弘子ちゃんと同じクラスでした。この通り家も近いですし、帰り道が一緒になる事もありました。彼女、あなたの言うような感じではありませんでした」


文芽と類は顔を見合わせる。


「あなたがおっしゃっているのは─少し棘のある言い方でしょうか?あの、人を傷付けるような?」


堀田美妃は言葉を詰まらせる。


「その私たちが加藤弘子さんと会えなくなったきっかけの事故とは何なのですか?」


「そ、それは─その。実は誰も分からないのです。何が起きたのか」


「交通事故とかではないのですか?」


「はい。弘子ちゃんと仲の良い女の子三人が山で何者かに襲われて──猥褻な事はされていなかったのですが、酷い暴行の痕があり、弘子ちゃんは後遺症で話せなくなりました。他の子も失語症だったようです。その時以来彼女たち学校には一度も来ていませんし、見舞いも断られました。通報者の少年も意味の分からない事ばかり言うので、結局変質者の犯行と云うことになったようです」


─俺の事だ。意味の分からない事、か。


「少年の言った意味の分からない事とは何ですか?」


「ああ。山姫です。昔から─あの山にある伝承ですよ。会えば殺されるという。少年はそれを見たと言ったみたいです。いるわけないのに」


「いると云う証拠もなければ、いないと云う証拠もないのだろ?じゃあ簡単にいないなんて、言わない事だね」


「こら。止めろ。すいません。こいつ少し伝承やら都市伝説に敏感なもので。そんなことがあったのですね。それであなたたち生徒は変質者の犯行と云うのを事実だと?」


「はい。それから集団の登下校が義務化されまして。近隣住民が交代制で見守るようになりました。でも、私は変質者だとは思っていませんでした」


「─と言うのは?」


「私と友達だけが弘子ちゃんの本当の姿を知っていました」


─本当の姿?


「弘子ちゃん──優等生とはちょっと違うのですが、周りからは少し恐れられるタイプの性格でした。それは苛めるとか不良だとかとは違って─。何て言うのでしょう──言う事はきついのですが、それで誰かを傷付ける事はしなかった。善は善。悪は悪。その区別がはっきりしていて、悪には容赦ないって云う感じで。そう、周りは思っていたようです」


「でも、あなたとお友達は違った?」


「皆からは善人扱いされていましたが、私は善人面した悪人だと──その頃は思っていました」


「善人面した悪人?」


堀田美妃の口調には悪びれた様子は一切無く、淡々と加藤弘子の事を語った。

それは、単に内にある恐怖を吐き出そうとしているように感じられる、ある種の独白のように聞こえてきた。


「さっき私、弘子ちゃんの事を誰かを苛めるとかしないし、不良とかでもないと言いました。でも、あの子たち、周りが気が付かないように、自分の気に入らない子を仲間外れにすると云う事をしていました。──分かりにくいですよね?例えば─弘子ちゃんたちあの四人に気に入らない子が居るとします。弘子ちゃんたちはその子の友達を口説いてその子を苛めさせるのです。弘子ちゃんたちは実際の気に入らない子には一切手を触れずに、その子を傷付ける。周りの子も弘子ちゃんたちに動かされたとは気が付かない。自分の意思でやっていると思っているのです」


「周りはそれに気付かないとは、何とも恐ろしいですね」


「私と友達は早々に気付いていたので聞く耳を持たなかったのです。弘子ちゃんたちの気に入らない子が、弘子ちゃんたちの気に入らない子を苛めるという事もしていました。一度だけですが弘子ちゃんたちが、苛めている子に対して苛めの現場を目撃したぞ、先生や親に言うぞと脅していたのを神社の裏手で見た事があります」


─神社の裏手?


「神社の裏手?」と英介が言った。


「はい。昨日お祭りがあったのはご存知ですか?─はい。あそこの神社です。普段は滅多に人は見ないのですが、弘子ちゃんたちの姿を追っていたら──そんな事をしていました。私たち何だ怖くて、泣きながら帰りました。すると、次の日─私たち弘子ちゃんたちに呼び出されて─昨日見たんでしょ?と脅されました。今でもはっきりと覚えています。凄く怖かった」


「何かされたりはしなかったのですか?」


「ええ。ただ、告げ口すると有ること無いこと喋られそうだったし、弘子ちゃんたちは周りからか信頼されていたし──。あれから私たちの間では弘子ちゃんたちの話題は厳禁になりました。だから─こんな事言ったら人格疑われるかもしれないですけど、弘子ちゃんたちが襲われて自業自得だと今でも思っています。どこかで恨んでいた人がやったのか、変質者がやったのかは分かりませんが、天罰だと思いました。神社の裏手で発見されたのだって、きっとまた誰かを脅していたんです」


「では、その脅されていた子に話を聞けば──」


「無駄ですよ。その子は今タイで先住民の暮らしを研究しているようなので、連絡つきませんよ。すいませんね、私が下らない話を続けてしまったから」


「いいえ。こちらこそ嫌な思い出を話させてしまった。申し訳ありません」


深々と頭を下げる英介が脳裏に浮かぶ。


「それでは、失礼します─」


堀田美妃がそう言うと、解錠する音が聞こえてきた。

その後、扉を開ける音がして少ししてから二人が戻ってくると、英介は助手席に座り沙矢は後部座席に乗り込んだ。


「聞こえていたかい?」


「ああ。全て聞こえていたよ、鯰田くん」





文芽の妹の調べ─友人からの情報だが─によると、堀田美妃と仲良くしていた生徒は隣の町にある飲み屋街で働いているという。


店の名前は、みるくキャンディだそうだ──


文芽たちは開店してから丁度一時間後に店に入った。


入り口のカウンターを通り過ぎれば三つのテーブル席があった。


「いらっしぁい」と低音の声を無理に女性に近付けたような声が聞こえてくる。


「あらぁ、新顔さんじゃない?」と掠れた声できゃあきゃあ騒ぐ。


「こいつら全員、元男?それとも現男?」と沙矢。


「私たちは皆、女よぉ、嫌ねぇ」と言ったのは「新顔さんじゃない?」と騒いでいた苺のような真っ赤の髪をくるくる巻いた、褐色の肌を持つ──


「どうもぉ、みるくキャンディのママのイチゴですぅ!で、この子は─」


イチゴは短く切った金色の髪を持つ色の白い人物の手を引っ張った。


「嫌だぁママ。そんなに引っ張ると赤くなっちゃうじゃない!」


「この子は、レモン!店で一番人気なのよ!で、この子は─」


「はいはい!わたしぃ!メロンですぅ」と長い緑色に染めた髪を持つ大柄な人物が手を挙げた。


「じゃ、私は?」とオレンジ色の髪をした人物が文芽に寄り掛かる。


「オ、オレンジ──?」


「嫌だぁ!違うわよ!かみのいろ!」


「だから──オレンジ?」


「違う!じゃ、きみね?私は?」


次は類に寄り掛かる。


高校生の類には刺激が強すぎたか?と思ったが彼は無表情で「みかん」と言った。


「せいかいぃ!私はミカンでした!残念!」と言って文芽の頬を突っつくミカン。


英介も沙矢も笑っている。


「嫌だぁ!皆すごく良い男!こんな良い男、いったい何処に隠れていたのかしら」とママのイチゴ。


「私の名前を当てた良い男は、未成年のようね。可愛いじゃないの!もう、嫌だぁ!」


どうやらこの店では「嫌だぁ」が流行りらしい。


─この中に堀田美妃の友人、白石樹里がいるのか?女に扮した男の中に女がいる。白石樹里は女だから、女に扮した女か?いや、では女でいいじゃないか。いや、もしかしたから男に成りすまして?いや、成りすます意味が分からない。と云うよりも何を考えているのかが分からなくなってきたぞ。


「何を難しい顔してるのよ?さぁさ!テーブル席が開いてるからどうぞ」とレモンに促されて文芽たちは奥へ行く。


「お兄さんたち、何にします?」と言ったのはレモン。


「僕は運転手なので、今日は遠慮します」


「和装のお兄さんは運転手かぁ、じゃ飲めないね。残念!」


─運転手は俺だ!ずるいぞ英介!


「その代わり、彼──結構飲めますよ」と言って文芽の肩を叩いた。


─おい!俺は飲めない!缶ビール一つ空けられない事ぐらい知っているじゃないか!


「て、ちょっ!ちょっ!まっ!て!く、き!」


「ええぇ!ショット!テキーラ!?お兄さんいきなりショットいっちゃう!?嫌だぁ!私、お兄さん気に入っちゃった」


イチゴはそう言って文芽に肩に寄りかかった。


─テキーラをショットでなんて言ってない!違う違う!待ってくれと言いたかったのに、沙矢が足を踏んだんだ!痛かったぞ!


英介たちは怪しげな薄ら笑いを浮かべている。


カウンターのレモンに向けイチゴがテキーラショットと英介の烏龍茶、そして沙矢のモヒート、類のオレンジジュースをオーダーした。


「レモンかライムどっち?」とイチゴが言うので、カウンターに居る彼─いや、彼女の名前はレモンだから「レモン」と答えるが、そう言う質問ではなかったようで、ショットグラスと一緒に半月切りにされたレモンか出てきた。


沙矢が耳打ちする。


「一気に飲まないと後悔するよ。飲んだ後、レモンをかじるんだ。すっきりするから」


文芽はグラスを凝視した。

この僅かな液体がこんなにも憎く思えるなんて初めてだ。

飲めないなら断ればいいものだが──


見てくる。

皆がこちらを見ているのだ。

このまま飲まずにいれば、場を白けさせる事になるのではないかと、不安になる。


─どうなっても知らないからな!介抱しろよ!


文芽は一気にグラスの中のアルコールを嚥下した。

それ自体は熱は持っていないと云うのに、液体が触れた舌や歯茎はもちろん喉元が痺れて熱くなり、息が荒くなる。

熱いと云っても、温かい飲み物を飲んだ熱さではない。

これこそが、焼けるような熱さなのだと妙に感心する。


「レモンをかじるんだ!」


そう言ったのは確か英介だった。


その後、文芽は白石樹里の事などすっかり忘れ、ただ眠っていた。

気分が悪くなり、トイレに駆け込むことも、泣きわめいたり怒鳴りちらすこともなく、おとなしくスヤスヤと眠っていた。



──────────


目覚めた時は家の布団にいた。

ズボンのポケットに入れた懐中時計を出そうとしたが見当たらない。


─どこかで落としたか?ああ、あの時だ祭りの時だ。


掛け時計を見れば、朝の四時半。

英介たちは隣で眠っている。


喉が乾いたので、緩慢な動きで布団から這い出ると居間へ行き冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し三口ほど飲んだ。

外を見れば、空が白み始めている。


「朝だ」と当たり前の事をポツリと呟いた。


昨晩は何があったのだろう。

英介たちは白石樹里と会えたのか、そして話を聞けたのだろうか。


ミネラルウォーターを手にしたまま外に出る。

川のせせらぎを聞きながら、家の近所を歩く。


懐かしいと感じるが、とても暖かい気持ちにはなれない。


山を仰ぎ見る。


今にも襲い掛かってきそうな獰猛さが文芽を怯ませる。


そういえば、あの面──紫乃の足元に叩きつけた面はどうしたのだろうか。

誰かに拾われていなければ、あの場所に置き去りのままだ。

そうなると、それは忘れ物ではなく廃棄となってしまう。

お堂の裏にゴミを棄ててしまったのか、と後悔や不安、罪悪感に駆られた。


そう思うと自然と足が神社へと向かって行く。

それに懐中時計が落ちているかとしれない。


早朝の散歩は清々しいな、なんて思いながら足早に歩く。


神社はとても神秘的で魅力的だった。

誰もいない。

静かに佇む社。

奥の山を守っているかのように堂々と構える。


─故郷は俺を迎え入れてくれているのでしょうか?


文芽はお堂の裏に回る。


そこに面も懐中時計も無かった。


─ない。紫乃さんが持って帰ったのか?でも、あの時、面が欲しいと言ったのは俺の顔を確かめたかったから言ったにすぎない。


その時──



カサリ──



葉と葉が擦り会う音が聞こえてきた。



過敏になった聴覚とは裏腹に身体が動かない。


ぞくり──


鼓動が急激に早くなる。


─な、何だ。この厭な既知感覚は。血の気がなくなる。


自身の指先を包み込む様に拳を握る。

本当に冷たい。

痛い程に冷たい。


─あれは、何だ。


文芽の視線の先には──



先には──




「い、厭だ──」


ほの暗い木々の合間にちらりと見えたのは──


「やめてくれ」


朱色の、鮮やかな着物の袖──


「厭だ──」


それは、再び木の向こうからすらりと出てきた。

そして、青白く華奢な指が幹を這う。


─悪夢だ!夢を見ているんだ!


視線をそらせない。

そらせば、次の瞬間眼前に移動しているかもしれない。

恐ろしい。

身体が動かない!

呼吸も満足にできない。

苦しい、寒い、怖い。



そして、ついに──


肩にかかる、地面を擦るまでに伸びた黒い美しい髪──


青白い額──


黄色い鋭く尖った目の縁は紅い──


「だ、誰か──」


そして、文芽は意識を失った。



目覚めると、そこには英介が胡座をかいて新聞を読んでいた。


─家か。


「お目覚めだね、文芽くん」


「俺は、ずっと寝ていたのか?」


─本当に悪夢だったのだろうか。


英介は眉を歪めた。


「ずっと、と云うのは─昨晩からの事かな?それとも僕が目覚めて文芽くんが居ない事に気付き、外へ探しに出て、神社のお堂裏からきみを担ぎ上げて連れて帰ってきた時かな?」


「嗚呼。そうか──やはり」


「木陰になっていたから、良かったよ。でもね、寝相が悪いのも大概にしないと」


「─夢ではなかったのか」


「何か見たのかい?」


「ああ」と言って文芽は身体を起こして英介の正面に座る。

彼は新聞を畳んで横に置いた。


「沙矢と類は?」


「ご両親が出掛けたからね、代わりに沙矢が昼食を作っている。類は散歩だ」


「そうか。今朝──」


文芽は自分が見たものを英介に話した。

彼は何も言わず、頷くだけで静かに文芽の話を聞いてくれる。


話が終わると妹が顔を出した。


「お兄ちゃん大丈夫?」


「ああ。心配ないよ。すまない。いろいろと──」


「あのね、今の話を聞いちゃったんだけど」


「今のって─神社での話か?」


そう、と頷く妹。


「私─何だか見覚えがあるの。朱色の着物。そう言えば前にも一度見たことあるってお兄ちゃんいってたよね?その時は気付かなかったんだけど、どこかで見たんだよ。誰かのお家で──」


「誰かの家って、お前それ──」


─それじゃあ、山姫の正体は俺たちの知っている人物になるのか?


「思い出せないか?」


「その着物を見たのは思い出せるの。一枚の写真みたいに頭には浮かぶんだけど、それが誰の物でどこでの記憶なのかが分からないの」


「なるほど。だが、その着物は存在するのですね。文江さん。ありがとうございます」


妹は頭を下げると部屋から出て行った。


「そうだ、文芽くん。きみ、昨日眠ってしまったから知らないだろうけど、白石樹里と会えたよ。あの後、出勤してきた。普通の女性としてね。だけど、聞き出せた事は堀田美妃と同じものだったよ」


「これからどうする?行き詰まった」


「そんな事はないよ。文江さんの言っていた朱色の着物。あの情報があるじゃないか」


「文江が思い出さないと無理だ」


「失礼します」と義弟が顔を出す。


「英介さん、お兄さん。昼食ができましたよ。あれ、類くんは──」


「あいつは気にしないでください。たまにフラりと出て行っていつの間にか戻ってくる。昼食の時間は分かっているでしょうから、腹が減っていれば戻ってきますよ。猫のようなやつなんですよ」


「そうですか」と言うと義弟は消えた。


「どうした、文芽くん。浮かない表情だね。沙矢の料理は好きだろう?それとも二日酔いかい?」


「俺は──妹夫婦の結婚式に出席できなかった。出たかった。とても祝福していた。なのに─出られなかった。妹夫婦も出てくれと言ってくれたけど、俺の気持ちが──俺は、村八分にされた身だから、出席する資格なんてないと思った。今回初めてあいつの旦那を見た。初めて甥を──見た。俺は、流れる時間に乗れていない」


「何?そんなにうじうじして。今こうして一緒に居られるじゃないか」


「そうだけど」


「それはね、きみには戻れる場所があると云う事だよ。迎え入れてくれている。それを、文芽くんは面目無いと自ら避けてきただけの事だ。今回、戻ってきたと云う事は、しっかりと過去に向き合える覚悟ができたと云うことだよ」


─覚悟?


「さぁ、早く食べようよ」


英介は立ち上がった。

それに合わせて文芽も立ち上がる。


居間には妹家族と沙矢がすでに食事を始めていた。

類は戻っていないようだ。


食事中は沙矢が文芽をからかったりして盛り上がった。

そして文江が「お兄ちゃんがこんなに優しくて楽しいお友達と一緒で安心した」と言ってくれた時は本当に嬉しかった。





類は夕食が終わっても戻らなかった。

携帯電話は持っていないので連絡のしようもない。

小銭程度なら持っているだろうが、昼食も夕食もありつけるような額ではないのは明らかだ。


さすがに英介と沙矢の顔色もよくない。

怒っているのか心配しているのか分からないが、どちらにしてもいつもの二人ではない。


「沙矢。僕は文芽くんと探しに行ってくる。お前は此処であいつが戻るのを待っていてくれ」


「何言ってるんだよ!一緒に行く!」


「駄目だよ。お前は類の帰りを待つんだ」


「僕だって類が心配だ」


「それは分かっているよ、沙矢。でも、類がフラりと帰ってきて此処に僕も沙矢もいなければ、不安になるだろう。いくらお世話になっている家だからといってもね。それにお前まで迷子になったら本末転倒じゃないか」


沙矢は少しだけ間を置いてから「分かった」と言った。


「類が帰ってきたら連絡くれ。こっちも見つかったら連絡するから」


「頼んだよ」


外に出て歩きだした英介の背中に問いかける。


「どこから探す?」


「見当はついている」


英介はそう言って山の方へ歩を進める。


「昔からそうだった。類が居なくなると必ず決まった場所にいる。眠っている時もあれば、何を考えているのか分からないような表情で空を見ている時もある。ほら、あそこだよ。僕たちの家の近くにある神社。─類はね、虐めなんてどうでもいいんだよ。虐められているとも感じていなかったようだ。そういう面では打っても響かない」


「虐める側はそれが余計に気に入らないのかな」


「そうだろうね。類はその子達を恨みもしなければ、嫌いにもならない。虐める側は、おもしろくないだろう」


英介はふふと笑った。


「だけどね、ただ一度だけ、類は僕たちに助けを求めてきた。──学校でコンパスの針を机に突き刺した、と。「僕はどうかしたのだろうか?気が狂ったのか?」と泣いていた」


「虐めを受けていたストレスが知らない間に溜まっていたのか」


「それはきっかけに過ぎない。虐めは類にとってきっかけだったんだよ」


「虐めが、きっかけ?」


「針を突き刺した事は虐めによって触発された出来事であって、類のストレスの根元は別にある」


「別?」


「類はこう言った。「僕には野蛮な血が流れているのかな?あいつらみたいに」と」


「あいつらみたいな野蛮な血って──英介たちの親父さんは温厚な人だろう。あの人が野蛮なら俺たちどうなるんだよ」


英介は小さく笑った。


「僕と沙矢の父親は温厚だけど、類の父親は野蛮で狂暴なんだよ」


─え?


「え?は?」


「僕と沙矢の父親と、類の父親は違うのさ。離婚前に母親は浮気相手の子供を妊娠してね。法律的には父親は僕たちと一緒だが、遺伝子上の父親はあの狂暴な男だ。裁判所も稲岡の家で育つ方が良いと判断した。そもそもあの二人は親権を放棄した。類がコンパスの針を机に突き刺した一週間ほど前に、あいつは事実を知ったんだ。あの男が来たんだよ。息子の様子を見に来たとね。真っ昼間に泥酔状態でだ。あの男は類を見て「なかなか良い面に育ってるじゃないか!だがひ弱だ!体力をつけろ!」と怒鳴った。それを見て父は激怒した。あんなに怒った父を見たのは初めてだった。帰れと怒鳴り、警察を呼んだ。その晩、父は類に全てを話した」


「類が──」


「あいつはとても傷付いた。それは僕たちには理解できない苦しみだろうね。でも、類は変わらず父を慕い、僕たちを兄と呼んでくれた。でもね、僕たちは気付いているよ。類があの男から解放されたくて、もがいていることを。たまにね─こうやって──」


月明かりで仄かに白く光ったお堂が目に入ってきた。


「此処に類がいるのか?」


「たぶんね。居なければ別の所を探しにいけば良い。──あ、ほら。いた」


類はお堂を見るようにして大きな石に腰かけていた。


境内に射し込む月明かりは、類を天空へ誘っているようだ。

まるで、天女が帰還するように美しい光景だった。

そのような光景は見たことないのだけれども。


「半日もそうしていたわけじゃないよね」と英介が声をかける。


「五時間くらいかな」


「お前は何しても長続きだね。すごいよ」


─そこ、誉める所なのか?


「夕飯はどうした?」


「動かないとお腹も空かないよ。飲み物は自販機で買ったりしたから」


「沙矢がとても心配していた。文芽くんの家族もだ」


「沙矢の様子は聞かなくても分かるよ」と類は笑う。


英介の笑い方とよく似ている。


そう思っていると、ふいに類がこちらを見た。


「ねぇ、文芽くん」


「な、何だ?」


「僕たちはもっと──自分に優しくならなきゃいけないよ」


─自分に優しく。


そして「ほら、これ。文芽くんのだよね」と言って手を前に出した。


「か、懐中時計!」


朝探しに来たときは無かったのに。


「あ、ありがとう。だけど、これ。どこで?」


類がお堂の裏をすっと指差す様は、まるで黄泉の案内人を思わせた。

美しさが不気味だった。


「あそこだよ」


「でも、お堂の裏は今朝見たときは無かった。面も懐中時計も!」


「そこじゃないよ。その奥。少し山に入った場所に落ちていたんだ。僕も山姫の事を調べたくてね」


二人は類についてその場所へ行った。


「待てよ。待てよ、ここ!」


その場所は、今朝文芽が朱色の着物に身を包んだ山姫を見た場所だった。

足場が悪いので誰も寄り付かない。


今立っている場所からお堂を見てみる。


─丸見えじゃないか!


この場所からお堂の裏はよく見える。すなわち、今朝の自分の姿は山姫に見られていた。


─でも、なぜ山姫がいたこの位置に懐中時計が?


「どうやら山姫が懐中時計を拾って、そして落っことして行ったようだね。着物だというのに、ご苦労なことだ。おまけに妖狐の面までつけて──」


「妖狐の面まで?」


無かったのは確かだがそれまで山姫が持ち去ったのか?


「いやだな、文芽くん。昼間きみが言っていた山姫の顔、どう考えても妖狐の面じゃないか。白い肌に黄色い目、その目は紅く縁取られていたんだろ?」


「ああ」


英介は「あとは朱色の着物か」と呟いた。


「さあ、帰ろうか。沙矢が心配しすぎて気が狂うかもしれない」



涼しい風を受けながら夜道を歩く。

会話はない。

文芽は二人の少し後ろを歩いた。


どこからどう見ても兄弟だ。


なんだかその事がとても嬉しく感じた。



帰宅すると、沙矢が玄関で眉間に皺を寄せて立っていた。


「仁王像じゃないんだから」と言う文芽を無視して「類が見つかったら連絡すると言ったじゃないか!」と英介を睨んだ。


「あぁ、そうだったね。すまない。忘れていたよ。ほら、類だ」


英介は類の背中を適当に押して沙矢の前にやると、そのまま家の中へと入って行った。


類は「ただいま」と沙矢に言った。


「知らない土地は気を付けろ」と沙矢に言われて素直に謝る。


沙矢の顔には安堵の色が浮かんでいる。


─この二人だって兄弟だ。



部屋に戻ってしばらくすると、類が握り飯を二つ持って入ってきた。


「文江さんが作ってくれた。英介は?」と言って腰を下ろす。


「さあ」と筆を片手に仕事をする沙矢が答える。


山姫の謎が解けるまでこの場所にいるつもりなのだろうか?

全員縛りのある生活をしているわけではない。

類が新学期を迎えるまでに帰れば良いので早く去らなければならないという事はないが、山姫の事は何一つ分かっていない。


「明日、帰ろうか?」と言うと、類は握り飯を咀嚼しながら文芽と沙矢を交互に見た。


「帰るったって──このまま帰ると鯰くんが一番据わりが悪いんじゃない?またうじうじして僕たちを困らせる」


もう、鯰と呼ばれるのは慣れた。


「文芽くん、帰るのかい?」と開け放した襖から英介が現れた。


「このまま居ても何も変わらない気がしてね」


正面に座る英介を見ると、何か手にしている。


「それは残念だね。山姫の事件も、その山姫の正体も知れたと云うのに帰っちゃうんだ。残念だ」


─え?


「今──何て言った?」


「山姫の正体が分かったよ」


「でも、未だに何も──」


─解明できるような手掛かりはないはずだ。


「何もないと思っているのは文芽くんだけだ。大切な事がきみの中に眠っている」


「眠っている?」


「ああ、そうだよ。文芽くん。きみはとても大切な事を忘れている」


「大切な事?」


─何だ?何を忘れているというのだ?


「まぁ、いいや。明日になれば分かるよ。でも文芽くん帰っちゃうんだよね。残念だよ」


英介はそう言って笑った。


「い、いや。帰らない」


─山姫の正体が知れたのなら。


「でも、何故分かったんだ?俺には何も──」


「文芽くん。きみは思い出すだけで良かったんだよ。まぁ、それができなかったから結局苦しむことになったのだけどね」


「思い出す?」


「とにかく。明日は早く起きないと」


「早くって何時だ?」


「四時だね」


「四時?そんな時間にどうするんだ?」


「まったく、質問ばかりだな。山姫に会いに行くんだよ」


「な、何言ってんだ!山姫だと!?」


「うるさいなぁ。声まで裏返らせて。みっともないよ」


「だ、だって──山姫?」


「あぁ。山姫だ。山姫は必ず、その─懐中時計を取りに戻る」


「懐中時計って─こ、これは俺の──まさか!祖父が生き返って取りに来るのか?祖父が山姫だったのか!」


英介は明らかに呆れている。


「馬鹿な事を言わないでくれよ。類まで白い目で見ているぞ。死者が生き返る訳がないだろ。とにかく、気になるのなら明日ついておいで。僕はお風呂はいただいたから、順に入りな」


その言葉に沙矢が立ち上がり、「沙矢の次は僕が入る」と類が言った。


結局、出遅れた文芽は十時過ぎに風呂から出ると、寝静まった客間に戻り、三人と同じように眠りについた。



──────────



翌朝、目覚めると既に英介は着替えを済ませていた。


「もうそろそろ起こそうかと思っていたのだよ」と文芽に言う。


「文芽くん。本当についてくるかい?ここで結果を言う事だってできるんだよ?」


「見るよ。この目で。忘れないように」


「──分かったよ」


そう言った英介の表情は何故だか悲しげに見えた。





沙矢と類も目覚め、三人は寝ぼけ眼で出掛ける仕度をした。



先日よりも早く出たせいか、外はまだ暗かった。


闇の中をするすると進む英介の後をついて歩く。

行き先は聞いていないが神社であることは分かっている。



案の定、英介は鳥居をくぐり抜け、止まった。


「来るよ。と言うか──いるね」と英介。


「ど、どこに?」


─見えたのか?朱色の着物。


「とりあえず、お堂の裏に行こう」


四人は黙って歩いた。

風で木々の葉が擦れ会う音が耳に届き、頭の奥では自身の鼓動が響いている。

呼吸をするのが辛く、胸が痛い。


この角を曲がれば──居るのか?

─山姫が。


しかし、居なかった。


そこには誰も居ない。


とても暗くとても静かだ。



─何処にいる。



手先が冷たい。

痛いくらいに冷たい。

指先を包み込むようにして拳を握る。


─待てよ。この、この感覚。



かさり。



─いる。



ざわざわ。



─いる。山姫が──



かさり。



─この懐中時計を探している。


「英介──」


「ああ。──いるね」


「か、懐中時計──」


「出さなくていい。それはきみの物だ。出す必要はない」


「でも山姫が取りに来るって──」


「山姫は──」


その時だった。

正面の大きな木から覗くものがあった。


漸く日が昇りだしたその薄明かりに照らされ、とても気味が悪い。


─朱色の着物!


血の気が引くのが分かる。


「や、やま、やま──山姫!」


文芽は何歩か後退し、類とぶつかった。


「これで文芽くんが山姫と遭遇するのは三度目だね。健康体だし、なかなか殺されないね」


「今そんな呑気な事をよく言えるな!」


─三度も遭遇しているんだ!


「三度も!──三度も─」


─三度も遭遇しているのに、なぜ。


「なぜ殺されない?特別な事はなにもしていない」


「そう。普通なら何もしなければ血を吸われてしまうだろう?なのにきみはほら。健康体だ。ん?その顔色は血を無くしたようだ」


「じゃあ山姫は──いないのか?」


「いるよ。現にこうしてきみを怖がらしているじゃないか。大事なのは伝承のものなのか、現実のものなのかと云うことだ」


朱色の着物は見えなくなった。


「どこだ?どこに消えた?」


「あの木から離れてはいないよ。では、出てきてもらおうか。山姫に──」


「ま、待ってくれ!」


そう文芽が言うのと同時に英介が張りのある冷たい声色で言った。


「さあ、そろそろあなたの悪趣味な遊びを終わらせましょう」


その言葉に場が静かになる。


葉と葉が擦れあう音だけが耳に届いた。


四人は大きな木から目を離さない。


すると──


幹を伝う手。

温度を伴わないかのような青白さだ。


そして、真っ白な額に黄色い目。

その目を縁取る紅い色。


昨日見たままだった。


─妖狐だ。やはり、妖狐だった。


「さぁ、出てきてください。あなたが彼をからかうから、宥めるのは生憎僕の役目となってしまう。それは嫌なのです」


─それは前に一度聞いた。


「それに僕たちはもう帰ります。このままだと僕は一生彼を宥めながら生きていかなければならない。そんなのは嫌ですよ」


ころころと笑い声が聞こえてきた。


鈴を転がしたように上品な笑い声だ。


そして現れた。

完全に姿を見せたのだ。


─山姫だ。


朱色の着物を纏い、地を擦るほどに伸びた黒く美しい髪。


「おもしろいお方──」


ころころ。


この上品な笑い方。


─まさか、そんな。


「さぁ、一緒に彼を驚かせてやりましょう」


英介は文芽の肩を軽く叩いた。


「驚かす?」


─まさか。


「彼は未だに気が付いていないのですよ」


─いいや。分かったよ。この声、涼しい笑い方。


文芽は渇いた口で漸く声を出した。


「紫乃さんですね?」


英介は「おや?」と意外そうな表情をした。


─紫乃さんの髪はあんなに長くはなかったはずだ。


だがよく見れば──


「髪が──」


腰までしかなかった。


「そう。きみは山姫だと思い込むあまり、実像を歪めて見ていたんだ。実際の映像に恐怖を重ね合わせて山姫を作り出した」


山姫──紫乃は緩やかな所作で面を外した。


─ああ、やはり。紫乃さんだ。


愁いた瞳に、血が通っていないかのような青白い肌。


「なぜ紫乃さんが山姫だと?」と沙矢。


「山姫の特定に朱色の着物と云う大切なキーワードがあったよね?─朱色の着物。それを覚えている人物は文芽くんだけではなかった」


「文江か──」


「そう。文江さんだ。僕は文江さんにそれを思い出してもらう為に話をした。僕の考えが正しければ文江さんは思い出す。案の定彼女は思い出してくれた。朱色の着物を目撃した時のことを。文芽くん、覚えているかな?文江さんが、朱色の着物を見た事は思い出せる。一枚の写真のように、と言った事。──そのままだったのだよ。文江さんは滝沢邸に赴いた時、紫乃さんの妹秋穂さんの部屋である写真を見た」


─写真。


「それは家族写真だったそうだ。家族揃って滝沢邸の前で撮った。その時、朱色の着物を着ていたのは、お母様だった。しかし、身長が同級生よりも高かった紫乃さんはお母様と背格好はあまり変わらなかったそうだ。その朱色の着物を着た紫乃さんの写真も一枚見たようだよ。とても綺麗な色彩で裾には白百合が描かれている──」


裾に白百合──


─ある。


紫乃の足元に白百合が綺麗に──


「秋穂さんはご結婚されて此処から離れてしまわれたから話は聞けないけど、もう一つ重要な話がある。それは白石樹里さんの話だ」


「白石樹里からは何も聞き出せなかったと言っていたじゃないか!」


「黙っていてごめんね。きみの記憶がいつはっきりするか分からなくて。きみが思い出せば混乱すること間違いないから」


─それはそうだ。今まさに整理ができていない。これだけの情報では整理のしようがない。


「白石樹里さんはとても重要な事を話してくださいました。あなたの事もはっきりと覚えていらっしゃいました」


「白石樹里ちゃん──」


「彼女はあなたの持ち物がとても羨ましかったと言っておられました。文房具やカチューシャ、靴に洋服。とても可愛らしいものばかりで皆も羨んでいた。それが気に入らない同級生も少なからずいた。ただ、性格が温厚で別け隔てなく接するあなたを恨むと、自分が卑小にみえて、情けなくなる。大半の同級生はそんな理由であなたと距離をとった。隣に居ると自分が劣って見えるのではないか、と。嫌いではないけれど、一緒にいたくない」


─なんだ、その理由は!そうは言っても、陰口を聞いた事がある。


「その状況に目をつけたのが加藤弘子さんたちだ。彼女たちは例のように自分たちは一切表に出る事なく、あなたを苛めた。そして、あなたは加藤弘子さんたちの二面性に気付くことになる」


山姫──紫乃はころころと笑う。


「もう、全てご存じのようですね。──ええ、そうです。あなた様の仰る通りでございます。私も人間でございます。笑います。泣きます。怒りや悲しみだって当然感じます。嫉妬されているのも分かっておりました。だから私も皆様には近付かないように距離をとっておりました。友達なんておりません。欲しい。とても欲しい。そう思っておりましたが、無視をされるようになり、聞こえるように悪口を言われるようになりました。ある日、加藤弘子さんが私と一緒に帰ってくれました。とても嬉しかったので忘れもしません。算数が苦手だ、あの先生は嫌いだと話をしました。楽しかった。本当に楽しかった。数日後、彼女は私にお気に入りの縫いぐるみを見せてくれました。そして聞いてきた。あなたのお気に入りの物を見せて、と。私は母の着物─この着物を着た時の写真を見せました。この着物がお気に入りだと言いました。彼女は見てみたい、あなたが着ている所を是非見せてと言いました。家に帰って母に言うと、私が友人の話をするなど初めての事でしたから、とても嬉しそうにしてくれました。翌日、帰宅した私は着付けてもらい、約束の場所──神社へと向かいました。すると──加藤弘子さんたちは脱げと──言いました。着物を脱げと。当然私は拒否しました。何故そんなことをしなければならないのか聞きました。すると彼女たちは「あんたが大嫌いだ。役立たずのあいつらが何もしないから私たちが手を下す。脱がないと泥で汚してやる」と言いました。役立たずのあいつらとは恐らく私を苛める為の同級生の子たちでしょう。私は騙されたと分かりました。苛められて泣いていたあの子も、あの子も、あの子も──みんな彼女の差し金だったと。苛められていたあの子たちは皆、加藤弘子さんが守っているように見えた。だけど、それは彼女たちの遊びだったのです。私は走って逃げました。お堂の裏─この場所より奥へ。しかし、すぐに捕まり、止めて嫌だと、脱げよこせと口論をし、乱暴に髪をほどかれた。その後の事は恥ずかしながら覚えておりません。気が付いた時は家の玄関におりました。両手の指の間に細い髪が束になって挟まっておりました。毛根から無理に抜いたのでしょう、血がついて皮膚らしきものも見えました。顔や着物にも血がついていたのを母が見つけ、慌てて風呂に入れてくれました。彼女たちの髪を引き抜き、爪を剥ぎ、指を折った。私が文芽さんが目撃した─山姫なのです」


「思い出せる──今なら」


─俺は、見た。


「この目で。紫乃さん─あなたがあの四人に襲いかかっている所を見た。恐怖で足が竦んだ。あなたは悪鬼さながらの形相で──別人のようだった。それでもあなたは──」


─泣いていたんだ。頬に涙を伝わせて──


「俺と目が合った。だけど、あなたは俺など見えていないかのようにふらりと何処かへ消えて行った。俺は─あの四人を襲ったのは紫乃さんではない何かだと思った。だってあんなにも美しい姿で──」


─山姫なんていないんだ。


「私は──文芽さん。あなたが大好きでした。あなただけが私に微笑みを反してくれた。会話などしなくても、あなたの想いは伝わり私の心を強くしてくれました。だから、あなたが事件以来落ち込んでいた時も、この地から離れたと知った時もとても悲しかった。一言でも声をかけたかったのだけれど、私は何故かそれができなかったのです。とても後悔しました。──私は、自分の記憶を無意識に都合の良いように塗り替えたのです。あの事件の時、私は家で母の手伝いをしていたと。そう記憶しなおした。自分の事なのに他人事のように振る舞ったのです。でも、あなたがこちらへ戻って来て私の記憶も呼び戻された。私は──彼女たちに会って詫びようと──」


─もう良い。


「加藤弘子さんの──」


「もういい!その後は!だって─」


─あなたは。


「あなたはその着物姿で加藤弘子たちに会いに行った!あいつらにしたらその着物は恐怖そのものだ!あなたは詫びるつもりなどなかった!最初から加藤弘子たちに復讐するつもりだったんだ!」


─そうなんだ。紫乃さんは自分のため、そして俺のために復讐した。だから、英介は俺を此処に来ることに悲しそうな表情を見せたのだ。英介は全て分かっていたのだ。


紫乃は悲しげに息を吐いた。

そのまま山の中へと消えていきそうだ。


「文芽さんを巻き込んでしまいました。私は山姫の存在を見せる事で過去の文芽さんの証言が事実であったと知らせたかった。文芽さん自身にも間違っていなかったと思っていてほしかった。そして、あなたが戻れるような環境を」


「もういいです!俺は──何だったんだ──」


英介の言った「忘れている大切な事」と云うのは、山姫が紫乃だと云うことだった。

あの時に思い出していれば、何かが変わったとは思わないが、少しでも覚悟はできていたのかもしれない。


自分の柔な心を必死に守ろうとするあまり、文芽自身が握りしめて駄目にさせないように、英介は見ていた。


─俺は一生、英介に宥められるのだろう。


友の後ろ姿を見てその時そう思った。


紫乃への嫌悪感は文芽の心の深くに押しやった記憶に起因したものだった。


あの時、深く傷付いたのは紫乃だけではない。

文芽も知らぬうちに心に重たいものを背負ったのだ。








「紫乃さんはどうなるの?」


紫乃を家まで送り届け、帰宅した。

朝食まで一眠りしようとしていた時だった。


─眠れない。


そう思っていると、類が言ったのだ。


他の二人も眠れないのだろう、すぐに英介が言った。


「罪には問われないだろうね。紫乃さんはあの二人に会いに行っただけだから。それが引き金になったのだとしても、それを証明することは難しいのじゃないかな」


「文芽くんは此処に戻ってくるの?」と類。


─そんなこと、考えていなかった。自分がいなくても此処の時間は流れている。戻りたくない訳ではない。今さら戻る理由はないし、戻って何をすればいいのかも分からない。時間は流れている。


「戻りたくなったら戻るよ」


「英介!また鯰くんの頭を撫でてやることになるぞ!」


沙矢は楽しそうに笑った。


「文芽くんはきっともう、大丈夫だよ」


そう英介は言ってくれた。



外はすでに明るくなっている。

開け放した窓から入る風は冷たい。


微かに味噌汁の薫りがした。


母が朝食の準備をする音。

甥の泣き声。

それを宥める妹夫婦の声。

父が新聞を捲る音。



ありふれた日常だ。



文芽は寝返りをうって目を閉じた。



End

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