表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

挫折経験

作者: 竹仲法順

     *

 妙に外に出るのが嫌になったのを覚えたのは、一浪して進学した大学の文学部在籍時、だった。大学近くのアパートにこもり、持っていたノートパソコンを使って小説の原稿などを書くようになったのだ。大学四年の夏である。今と同じように蒸し暑かった。僕自身講義やゼミなどに出席するのが嫌になって、こもり始めていたのを覚えている。買い物や生活費等を下ろす銀行、それに街の散策など以外、ほとんど自宅アパートから出なくなった。その頃から何かと周りとのギャップを感じ始めていたのだし、実際それは止めようがなかったのである。いわゆる学生生活に疲れてしまったと言うことかもしれない。たとえそれが二十代前半の一青年の挫折だったにしても……。ずっとキーを叩き続けていた。今から九年前の二〇〇三年である。卒論じゃなくて退学届の方を大学事務局に出しに行った後、中退扱いとなった。その代わり、書き綴っていた小説がその年の九月発表の公募新人賞の最終選考に残り、大賞こそもらえなかったものの、特別賞を射止めた。それから作家として活動し始めるようになる。大野木(おおのぎ)義哉(よしや)という本名で。大学在学時の挫折を乗り越えて、晴れて文芸の世界に入ったのだ。十年後、二十年後の自分を想像できずに。だけど時が経つのは実に早い。作家デビューしてからあっという間に九年が経ち、今、三十代ながら文芸の世界ではある程度名を成している。僕も九年間で出した本は六十冊を優に越えていた。ほとんどがミステリーで驚くほど増刷が掛かっている。何もかもがあの挫折の産物だったのだろう。あの学校や講義室に対する違和感さえなければ、順当に大学院に進学し、博士課程ぐらいまで行っていたのかもしれない。でもそれが僕には出来ないことだった。第一、院まで行くのにどれだけの費用が掛かるのかは想像に難くない。いくら文学部で明治の古典、とりわけ森鴎外を研究していたにしても……。だけど鴎外の研究を続けていたとしても、多分僕自身、納得の行かないことばかりが残るものと思われる。まあ、仕方ないことだったが……。

     *

「こんにちは。いつもお世話になります。駿研出版(しゅんけんしゅっぱん)加護川(かごかわ)です」

 ――ああ、加護川さん。こちらこそお世話になってます。

「大野木さん、早速来月の中旬ぐらいまでに新作を書いていただけませんか?」

 ――分量はどのぐらいでしょう?

「そうですね。出来れば四百五十枚ぐらいの長編を一作」

 ――分かりました。では完成し次第、メールにて入稿いたしますので。

「お願いいたします。では失礼いたします」

 加護川からの電話が切れた。駿研出版は大手でずっと世話になっている。五十万部を超える異例のヒットを飛ばした処女作もここから出していた。いろんな出版社と契約しているのだが、駿研出版がメインだ。この社でも僕の場合、全て企画出版でこっちは一円も出してない。大野木義哉が書くミステリーを誰もが読みたいと思っているのだろうし、僕も書き手としてしっかりとやっていた。三十代で一番仕事に脂が乗るときである。ずっとパソコンのキーを叩き続けていた。外出は滅多にしないのだが、外に行くときは大抵スマホを持っていく。メモ帳にネタなどを打っておくためだ。僕の場合、時間がお金に変わる。作家としては成功した部類に入っていた。パソコンやスマホは十分使いこなせている。僕もキーを叩き続けていた。今、若年ながらも作家としては中堅の部類に入る人間として文壇に居続けられるのは、しっかりと仕事をこなしてきたからである。努力に勝るものはない。それに僕もずっと仕事が続くのだが、この季節は少し休みを取りたいと思っていた。幸い掛け持ちで五本持っている文芸雑誌の来月号の連載原稿はすでに全て入稿している。しばらくはフリーの状態でいられそうだ。盛夏に夏休みを取れそうである。仕事ばかりしていると、苦痛こそないものの疲れてしまう。好きなことを本業にして生活しているのだ。これから先もずっとやっていくつもりでいた。時折こうやって休みを入れながら……。原稿の締め切りは来月九月半ばである。またキーを叩く作業に追われるのだが、しばらく休んで充電してから取り掛かる気でいた。時間が惜しいと思ったことは一度としてない。それだけ僕も余裕を持ってやっているのだった。別に今すぐにどうのこうのと言うことはないので……。時間は作ればいくらでもある。そう思ってやっていた。一応簡単な下書きぐらいはしておこうと思ってパソコンのワードの画面に打ち込む。キーを叩くのは半ば作業となっていた。パソコンと向かい合っているときは真剣である。気を抜かない。その分、オフのときはゆっくりする。ダラダラと生活することだけは何としてでも避けたいからだ。使わないときは極力パソコンの電源をオフにする。大抵一日でも朝から午後三時過ぎぐらいまで書くと、後はフリータイムに充てていた。地デジのテレビでDVDレコーダーに録っておいた映画やテレビドラマなどを見る。それで時間が過ぎていった。僕も作品を書くときは気を入れる。そうやって続けていた。

     *

 お盆休みは駿研出版を中心とする各出版社も営業してないので、加護川や他の編集者とは連絡を取れない。携帯やスマホなどの番号は知っているのだが、あえて掛けなかった。あちらも休みはゆっくりしているだろうと思って。人様の私生活を邪魔するほど常識がない人間じゃないと、僕自身思っていたのだし、ちゃんと仕事上では協力し合えていたのでそれでいいのだった。しばらくはテレビを見ていようと思っていたのである。自宅のリビングでずっと。僕もさすがにテレビ番組を多数録画していたので見るのが大変だった。見始めて面白いと思うと見るのだが、そうじゃないものは途中で止めてしまう。僕もそういった意味では結構シビアに番組を見ていた。普段作る側の人間としていくらかでも参考になればいいと思っていたのだし……。

 そして休みはあっという間に過ぎ去っていった。あっけないと言った方が正しいか……?ずっとテレビを見ていたのだが、一日に三時間見れば飽きる。途中でコーヒーを淹れ直して見るぐらいがちょうどよかった。年中コーヒーはホットである。暑いときも寒いときも。それにまた執筆を再開した。休み明けからずっと仕事が続く。滞りなく。僕もキーを打つのは速い。何せ時間がお金に変わるのだ。こういった職種が実に一番向いているのだった。もし九年前に大学を辞めていなかったら、こんな人生は訪れなかっただろう。それに本当に好きなことに打ち込めることもなかったのかもしれない。あの挫折経験が僕の人生を百八十度変えた。いい方向へと。改めてそう思える。たとえ日常が淡々としていても、今の僕があるのはあのときの挫折だったのかもしれない。ずっとそう思っていた。執筆活動をしながら……。九月の半ばまでに加護川のパソコンのメールアドレス宛に新作を入稿する必要があったので。

                                (了)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ