国家秩序維持法
2039年、春。灰色の宰相・有馬征四郎の内閣が発足して以来、日本を覆う空気は一層重く、冷たいものへと変わっていた。復興という言葉はもはや空虚なスローガンとなり、国家の歯車が、国民には見えざる巨大な目的に向かって、軋みを上げながら回転しているのを誰もが肌で感じていた。
佐藤ユウトは、配給の列に並びながら、どんよりと曇った空を見上げていた。労働隊員として割り当てられた瓦礫撤去作業は、彼の肩と腰に鈍い痛みを刻みつけている。以前と変わったことといえば、現場を巡回する東亜連邦製の監視ロボット「ウォッチャー7」の数が増えたことくらいか。その単眼レンズが労働者の動きを無感情に追跡し、作業効率をリアルタイムでデータ化している。非効率と判断されれば、即座に配給ランクが引き下げられるのだ。
変化は、街の至る所に現れていた。横浜港や川崎の工業地帯へ続く道は「特別戦略区域」と書かれた物々しいゲートで封鎖され、武装した連邦兵が検問を行っている。かつて乗用車や家電を生産していたはずの工場からは、夜通し金属を叩く無機質な音だけが響いてくるようになった。
「一体、何が始まろうとしているんだ?」
列に並ぶ人々が、囁き合う。その声は不安と諦念が混じりあっていた。誰もが、この国が自分たちの知らない方向へ猛スピードで進んでいることに気づいていたが、ハンドルを握っているのが誰なのか、そしてその行き先がどこなのかを知る者はいなかった。
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その息苦しい沈黙を、轟音と共に破った者たちがいた。 丹沢山地の深い闇の中、元自衛官・飯田熊治は双眼鏡から目を離し、冷たい夜気の中で短く息を吐いた。眼下には、月明かりを受けて鈍く光る線路が続いている。 「時間だ」 隣にいた若い隊員が、緊張に強張った顔で頷く。飯田が掲げた手のひらが振り下ろされた瞬間、夜の静寂は引き裂かれた。
けたたましい爆発音と共に、閃光が谷間を白く染め上げる。数秒後、金属がねじ曲がり、引き裂かれる絶叫のような軋り音が響き渡った。連邦向けの戦略物資を満載した貨物列車が、巨大な獣のように身をよじらせ、先頭車両から次々と暗い谷底へ崩れ落ちていく。 「これは狼煙だ」飯田は、燃え盛る残骸を見下ろしながら呟いた。「我々がまだ死んではいないことを、奴らに思い出させてやる」 この妨害工作は、目に見えぬ圧政に対する、初めての物理的な反撃だった。
事件の報は、即座に首相官邸の有馬征四郎のもとへ届けられた。 「……死傷者は?」 「ゼロです。爆破は自動運転機関車と貨物のみを狙ったものかと」 報告する腹心・白洲二郎の言葉に、有馬は表情一つ変えない。彼は窓の外に広がる東京の夜景に目を向けたまま、静かに口を開いた。 「そうか。では、始めるか」 その声には、待ち望んでいた駒が盤上に置かれたかのような、冷たい満足感が滲んでいた。
翌日、有馬は全国に中継されるテレビカメラの前に立った。 「昨日未明、我が国の復興を支える輸送網が、卑劣なテロ行為によって破壊されました。これは、復興に励む全ての国民の生活を脅かす、断じて許されざる暴挙であります」 その声は怒りに満ちているようでいて、不思議なほど冷静に響いた。彼は、国民の間に広がる漠然とした不安を、飯田という具体的な「敵」へと巧みに誘導していく。 「政府は、国民の皆様の安全な生活を守るため、本日、新たな法を制定することを決断いたしました。『国家秩序維持法』であります」
それは、まさしく「鉄の秩序」の始まりだった。 治安維持部隊の権限は大幅に強化され、テロリストの協力者と疑わしき人物に対しては、令状なしの家宅捜索や通信傍受が合法化された。隣人の不審な言動を報告することは「愛国者の義務」として奨励され、社会は一夜にして相互監視の息苦しい空気に覆われた。「独立派」は公式に「テロ組織」と断定され、飯田熊治を筆頭とする主要メンバーの顔写真が、全国の役務センターや配給所に貼り出された。
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佐藤ユウトは、その手配書を、役務センターの壁に見つけた。見覚えのある、厳つい顔。かつてテレビの討論番組で、災害時の国家機能について警鐘を鳴らしていた危機管理の専門家だ。写真の下には「極めて危険なテロリスト」という赤い文字が躍っている。 周囲の人々は、手配書から目をそらすように足早に通り過ぎていく。恐怖か、無関心か。あるいは、その両方か。ユウトは、ポケットの中で拳を握りしめた。保障された今日の食事と、日に日に奪われていく自由。そして、この国の行き先に対する耐え難いほどの不安。その天秤の上で、なすすべもなく立ち尽くす自分がひどくちっぽけに思えた。
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都心から遠く離れた廃工場の一室で、飯田熊治は、有馬の演説が流れる古いテレビを、冷たい目で見つめていた。 「有馬の動きは想定通りだ」 集まった仲間たちの顔には、疲労と、そして緊張が刻まれている。 「ボス、しかし、これで我々は公式に『テロ組織』です。国民の支持を失うのでは?」 若い隊員の不安げな声に、飯田はテレビを消して答えた。 「支持が失われるのは覚悟の上だ。我々が狼煙を上げなければ、国民は茹でガエルになるだけだった。有馬は、我々を口実に、国民を縛るための法律を作った。奴は自ら『独裁者』の仮面を被ったのだ。これで、戦いの構図は明確になった」 飯田は地図を広げた。 「だが、もう同じ手は使えん。ただの破壊工作は、奴の思う壺だ。これより我々は、奴らの『鉄の秩序』の、さらに裏をかく。奴らが最も見られたくない場所を叩くぞ」
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官邸の執務室で、白洲二郎が主人に問うた。 「飯田という狼を野に放ち、国民という羊の群れを柵の中へ追い込む。見事な手腕です、総理」 有馬は答えず、ただ「鉄の秩序」の網が静かにかぶさりつつある夜の東京を見下ろしていた。




