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国民基盤役務制度  作者: 喰ったねこ
占領期編
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灰色の宰相

あの巨大地震が日本を焼き尽くし、国民投票がその運命を東亜連邦の手に委ねてから、一年半の歳月が流れていた。時に西暦2038年、冬。


国は、いまだ癒えぬ傷口から、熱と膿を放出し続けていた。


震災後、国民投票を主導した菊池内閣は、東亜連邦から提供される限定的な支援と、ハイパーインフレによって価値が暴落した円との間で板挟みになり、有効な手を何一つ打てずにいた。国民の生活は、日に日に苦しくなる一方だった。十三年前に構想された「月給22万円」は、今やその額面通りの価値を失い、人々は配給の列に並び、わずかな現物支給で糊口をしのぐ日々を送っていた。


そして、国民の不満は、ついに沸点を超えた。


東京、大阪、名古屋。主要都市で、数万規模のデモが連鎖的に発生した。「無能な菊池内閣は退陣せよ!」「東亜連邦は日本の富を奪うな!」――プラカードを掲げ、怒りを叫ぶ人々の顔には、もはや震災直後のような無力感はなく、飢えと屈辱からくる激しい憎悪の色が浮かんでいた。


治安維持部隊との衝突で、負傷者が続出する。国内の混乱を前に、菊池首相はなすすべもなく、内閣総辞職を表明した。日本は、再び政治的な権力の空白地帯と化した。誰が、火中の栗を拾い上げ、この破綻国家の舵取りをするのか。誰もが固唾をのんで見守る中、その名は突如として浮上した。


有馬征四郎。


元財務事務次官であり、あの「令和総力戦研究所」の所長。そして、現在は東亜連邦の「最高顧問」という肩書を持つ男。国民の多くにとっては、震災前から国の危機を訴えながらも、結局は連邦に魂を売った「過去の亡霊」に過ぎなかった。


その男を、次期首相として強力に後押ししたのは、東亜連邦そのものだった。彼らにとっては、菊池内閣のような無能な政権が社会不安を増大させるよりも、「国民基盤役務制度」の生みの親であり、その思想を熟知している有馬に統治させた方が、遥かに日本の管理がしやすい。連邦の指導部は、有馬を「最も信頼できる日本の協力者」と見なしていた。


国会での首相指名選挙は、異様な雰囲気の中で行われた。大政翼賛会的な『日本生存戦略会議』の中にあって、元野党系の派閥はもちろん、元与党系の派閥からも「連邦の傀儡を首相に据えるのか」という反発の声が上がった。しかし、連邦からの無言の圧力を背景にした多数派工作の前には、いかなる抵抗も無力だった。


結果、有馬征四郎は、賛成多数で内閣総理大臣に指名された。


そのニュースが流れた瞬間、SNSには国民の怒りが爆発した。

「#売国奴有馬を許すな」「#日本の終わり」

そんなハッシュタグが、タイムラインを黒く染め上げた。

しかし、それも無駄な抵抗で、ネット検閲システムによって瞬く間に削除されていく。


数日後、首相官邸の階段で、有馬は新閣僚と共に記念撮影に応じていた。無数のフラッシュを浴びながらも、その表情は能面のように変わらない。その背後に、一人の若い男が控えていた。官房副長官に抜擢された、白洲二郎。元外務省のキャリアで、その鋭い頭脳と、誰に対しても物怖じしない言動で知られる男だった。有馬が、自らの右腕として官邸に引き入れた唯一の腹心だ。


「笑ったらどうです? 総理。国民が見ていますよ」

白洲が、有馬にだけ聞こえる声で囁いた。


「…必要ない」

有馬は短く答えた。彼は、国民に媚びるつもりも、理解を求めるつもりも、毛頭なかった。


その日の午後、国会で行われた所信表明演説で、有馬は日本の宰相として、その揺るぎない姿勢を国民に突きつけた。


「――内閣総理大臣を拝命いたしました、有馬征四郎であります」


旧野党席から飛ぶ怒号を、彼は意にも介さなかった。


「我が国が、国難の只中にあることは、論を待ちません。震災の傷跡は深く、経済は疲弊し、国民の生活は困窮している。この現実から、我々は目を背けてはならない」


静まり返る議場で、有馬の低い声だけが響き渡る。


「一部に、我が国の主権や独立を憂う声があると承知しております。しかし、私は問いたい。感傷や、過去の栄光への固執で、国民の腹が満たされるのでありましょうか。プライドで、凍える国民を暖めることができるのでありましょうか」


彼は、ゆっくりと議場を見渡した。その目は、まるで氷のようだった。


「我々が今なすべきことは、ただ一つ。あらゆる手段を用いて、国民の生活を再建すること。それだけです。そのために、東亜連邦の支援が不可欠であることは、論理的な帰結であります。彼らの資金、彼らの技術、そして彼らの社会システム。利用できるものは、全て利用する。国民を飢えさせない。ただ、その一点のために、私は我が身にどのような汚名を着せられようと、一切躊躇するつもりはありません」


演説は、賞賛も、期待も生まなかった。

ただ、日本中を、冷え冷えとした諦めと、底知れない恐怖で満たした。

この男は、本気だ。本気で、連邦の協力者として、この国を支配するつもりなのだ、と。


その夜、官邸の総理執務室で、有馬は一人、分厚い資料に目を通していた。そこに、白洲二郎が入ってくる。


「総理。素晴らしい演説でしたよ。おかげで、就任早々支持率は戦後最低を記録しそうです」

白洲は、皮肉とも本気ともつかない口調で言った。


「…それでいい」

有馬は、顔を上げずに答えた。


「国民にできもしない希望を語り、期待を煽るのは、民主主義時代の政治家のやることだ。私は、現実という盤面の上で、駒を動かすだけだ。一手、一手、生存確率が最も高い場所へとな」


「その駒の中には、あなたの腹心である私も含まれている、と?」


「無論だ」


有馬は、ようやく顔を上げ、白洲を真っ直ぐに見つめた。

「それで、神戸での件はどうなった」


その問いに、白洲は表情を変えず、淡々と報告を始めた。

「はい。先日お伝えした通り、奥田怜奈本人と接触に成功しました。当初は抵抗されましたが、こちらの素性と目的を伝えたところ、今は我々の管理下にある施設で待機しています」


「そうか」

有馬は短く応じ、再び手元の資料に視線を落とした。彼の表情からは、長年追い求めていた重要人物を確保したという高揚感は、一切読み取れない。


白洲は、そんな有馬の様子を値踏みするように見つめ、続けた。

「彼女は、総理に一つだけ質問がある、と」


「何だ」


「『有馬先生は、本当に日本を東亜連邦に売り渡すおつもりですか』と」


その言葉に、有馬は初めて、ぴくりと眉を動かした。彼は、資料から顔を上げることなく、氷のように冷たい声で、一言だけ命じた。


「――余計なことは喋るな。彼女を東京へ移送しろ。仕事の時間だ、とな」


白洲は、全てを理解したように、静かに一礼して部屋を去った。


灰色の宰相が率いる、暗黒の内閣。


日本史上、最も国民に憎まれた政権が第一歩を、今、踏み出した。

第二部 占領期編第一話

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