救国の売国奴
西暦2038年。秋。
神戸の街は、前年に起きた巨大地震の傷跡をあちらこちに残していた。再建された港湾地区のオープンカフェで、一人の女性がタブレット端末のニュースを眺めながら、静かにコーヒーを飲んでいた。
鈴木沙織。
それが、今の彼女の名前だった。三十代になった彼女の姿に、かつての天才データサイエンティスト、奥田怜奈の面影を見つけられる者は、もうどこにもいなかった。
街には、統一されたデザインの作業服を着た人々が溢れている。彼らは東亜連邦の指導の下、効率的にインフラのメンテナンスや公共サービスの復興に従事していた。彼らこそ、かつて日本が自ら捨て去り、そして今、他国の手によって導入された「国民基盤役務制度」の担い手たちだった。街には秩序があり、効率的だった。そして、もはや完全には日本のものとは言えなかった。
『経綸計画導入大復興1周年記念式典、ト連邦代表団も出席』
タブレットに表示された見出しが、彼女の意識を十三年前のあの夜へと引き戻した。永田町の内閣府庁舎、地下深く。窓のないあの部屋へと。
◆
あの夜、有馬たち四人が重い足取りで部屋を去った後も、怜奈は一人、コンクリートの静寂の中に残っていた。完成した報告書『新時代の社会基盤に関する基本構想』が、テーブルの中央で静かに存在を主張している。
「我々の日本にはもう、箱の底に『希望』しか残っていなかったのだよ」
去り際に有馬が遺した言葉が、空虚に反響していた。希望。その言葉の響きは美しかったが、怜奈の目には、その希望が致命的な欠陥を抱えているように見えた。有馬は、この国の人々が自らの手でその希望を掴み取ることを、心のどこかで信じていたのだろうか。だが、怜奈が構築した数理モデルは、その可能性を冷徹に否定していた。
彼女は再び、巨大ディスプレイとコンソールに向き合った。これから行うのは、この報告書がもたらす未来の中から、日本が生き残る唯一のルートを特定する、最後の思考実験だった。
シナリオチャーリー:【国内変数シミュレーション】
まず、彼女は【日本国内の選択肢】を評価した。報告書を政府に提出して握り潰される未来と、国内でリークして大混乱に陥る未来。ディスプレイには二つの世界線が描かれ、そのどちらもが赤黒い「国家機能不全」の色へと収束していく。ただ、リークした場合は、わずか2.2%とはいえ国民に計画が認知される分、崩壊確率が数パーセントだけ低い数値を示していた。
【シミュレーション結果:国内シナリオ統合評価】
国家機能不全(無秩序な崩壊)確率
正規ルートで提出した場合:93.0%
国内でリークした場合:88.5%
「どちらにせよ、チェックメイトか…」
この国は、自らの病巣を自ら切除する手術に、耐えられない。患者自身の抵抗によって、手術は失敗に終わるのだ。有馬の言う『希望』は、この国の中では決して現実にならない。
だが、もし。
もし、この手術を、外部の優秀な外科医に執刀させるとしたら? そう、日本が変わるのは、いつも外圧だけでなかったのか。
シナリオチャーリー:【国際援助ポテンシャル分析】
次に、怜奈は【日本が崩壊した場合の国際支援】の可能性をシミュレートした。
2大超大国の動向を示す結果は無慈悲だった。
合衆国は、自国第一主義の台頭により、巨大の外圧として過去のGHQのような大規模な支援を行う可能性は低い。それどころか、シミュレーションは、対日関税の強化や経済圧迫、更には「在日合衆国軍の段階的撤退」の可能性が年々高まっていることすら示していた。
東亜連邦もまた、一人っ子政策に端を発する日本より年々深刻になりつつある自国の少子高齢化問題と経済問題のため、日本を大規模に支援する余力はそもそもなかった。データによれば、若者は日本以上に就職難、2024年の出生率はわずか1.0前後。この国も日本と同様の病を抱えていたし、経済悪化による不安定化の可能性すらあった。そうなれば、日本の貿易収支は更なる悪化は避けられない。安全保障にとっても大きな問題になる可能性があった。
そして、一旦、日本で巨大地震が発生した場合、そのときに世界が日本を援助するかという点では、さらに無慈悲で絶望的な数値が並んで示されていた。
他国のことより、自国の事が重要な時代だ。
かつてのGHQレベルのリソースを投じて、わざわざ日本を救済する国がいないのは当然の話だった。もちろん、お悔やみ程度の援助はあるだろう。だが、必要な支援との乖離は天文学的なものだった。
「誰も、助けてはくれない…なにかしらの力学が働かない限りは。国家に真の味方は居ないということか」
日本は、世界の過疎地となって、独り沈むしかないのか。
怜奈のシミュレーション結果は、自力もダメ、他力本願もダメという絶望的な結果だった。
この壊滅的なデータを見つめていた怜奈の脳裏に、一つの仮説が閃いた。悪魔的な、しかし唯一の論理的な可能性。
シナリオアルファ:【外部介入シナリオの発見】
「――待って。東亜連邦に『余力』がないなら、その余力そのものを、こちらから作り出せればどうなる?彼らは日本と同じ悩みを持っていたはず。その悩みを解決するために『国民基盤役務制度』を我々は作り出したはずだ」
彼女はキーボードを叩き、新たなシミュレーションを組み立てる。それは、東亜連邦が「国民基盤役務制度」を導入した場合の未来だった。
結果は明白だった。民主主義のブレーキを持たない彼らは、この制度を日本以上に効率的に運用し、国内問題を解決し、国力を増大させる。
そして、怜奈は最後の計算を実行した。
その「国力が増した東亜連邦」が存在する世界線で、日本を援助するかどうかの未来を。
ディスプレイに表示された数値を見て、怜奈は息をのんだ。
【シミュレーション結果:東亜連邦への外部介入シナリオ】
日本の『無秩序な崩壊』回避確率:99.8%
「国民基盤役務制度」の政策が大きく変容するなど、気になる点は数多くあったが、背に腹は代えられない。
論理的な答えは、出てしまった。
無策なままで沈むか。あるいは、隣国に「国民基盤役務制度」を導入させ、その救いの手によって管理されることで、生き残るか。
彼女が信じるのは、善悪でも、美醜でも、愛国心でもない。ただ、目の前にある数字だけだ。そして、その数字が示す「生存確率」を最大化することこそが、彼女にとっての唯一の正義だった。
いや、本当にそうだろうか。
彼女の行動の背後には、データサイエンティストとしての冷徹な判断だけではない、人間としての、最後の「心の迷い」があった。この国に、最後の問いを投げかけてみたい。
自らが弾き出した2.2%という絶望的な確率に、抗う奇跡を見せてくれるのかどうか。 だが、その問いかけは、もはや祈りに近い。
そして、怜奈は祈りだけに国家の運命を委ねるほど、非合理的ではなかった。奇跡の有無を待っている時間はないのだ。彼女の計画は、寸分の狂いもなく、同時に実行されなければならなかった。
怜奈は、有馬の顔を思い浮かべた。あの老獪な戦略家なら、どの未来を選ぶだろうか。どちらがより「マシ」な敗戦処理だろうか。
「ごめんなさい、有馬さん」
計画は、二段階で実行される。単純な情報漏洩では足りない。それは、世界というチェス盤の上で、相手を確実にチェックメイトに追い込むための、冷徹な二手一組の定跡だった。
怜奈は、自らが密かに構築していたバックドアを通じて、Torネットワークに接続した。数分後、彼女は何年も更新された形跡のないセキュリティの甘い中小企業のウェブサーバーを特定し、その深くに潜り込む。そして、時限式の自動実行タスクを三つ、静かに仕掛けた。起動は、一ヶ月後。その頃には、新時代の社会基盤に関する基本構想は政府内ではそれなりに閲覧されているだろう。閲覧者が多い程情報漏れの特定は難しい。
あとは自動的に、国家の運命を左右する二つの矢が放たれるのだ。
第一の矢。それは、日本社会を内側から揺さぶるための、二段構えの仕掛けだった。
まず、社会への不満や真偽不明のゴシップが渦巻く、あのアンダーグラウンドな匿名掲示板への自動投稿スクリプト。怜奈は、一ヶ月後に起動するスレッドのタイトルを、人の注意を引くような文字列に設定した。
『【投下】この国の本当の未来。笑うか、絶望するかは、お前ら次第』
本文には、報告書の抜粋版を置いたサーバーへのリンクを貼るだけ。これで導火線に火はつく。
しかし、ノイズが本物の炎上となるには、起爆剤が必要だ。怜奈は、第一の矢に、もう一つの仕掛けを施した。
週刊誌『週間文冬』のタレコミ窓口へ、匿名メールを送信するスクリプトだ。本文は、簡潔だった。例のスレッドのURL。そして、突破口となる鍵を指し示す一文だけを。
『厚生労働省 年金局 湯川道彦を調べろ』と。
怜奈の数理モデルは、この一文だけで、あの週刊誌の優秀な記者たちが、国家生存戦略研究室の存在を暴き出す確率を98%と弾き出していた。これで、単なる怪文書は、無視できない政治スキャンダルへと昇格する。一ヶ月後、日本国内で政治的な大混乱が始まるだろう。
この第一の矢は、怜奈の心の迷い。少女のような儚い願いを担ったものにすぎなかった。
そして、第二の矢。本命の一手。
匿名掲示板への投稿と寸分違わずに起動する、もう一つのスクリプト。
あらかじめ特定しておいた複数の通信ノードへ、完全版の『新時代の社会基盤に関する基本構想』報告書のPDFファイルを送信する。完全版にはこの制度を社会実装する上で肝となる各種の計算モデルが含まれていた。
送信先は、東亜連邦の国家安全部や人民解放軍総参謀部が管理するダミーサーバー群。
彼らは、この唐突に送りつけられたファイルを、最初は手の込んだ偽情報だと疑うだろうか。だが、その疑念はすぐに確信に変わる。表の世界で、あの匿名掲示板の書き込みが引き起こす政治的パニック。政府の狼狽した否定会見。それら全てが、このファイルの信憑性を裏付ける、何よりの証拠となる。
日本社会の混乱そのものが、この報告書が本物であることの認証キーなのだ。
最後には、これら二つのタスクが完了した直後に起動する。踏み台としたサーバー上の自身の痕跡を、全て消し去る自己破壊スクリプト。
怜奈は、サーバーと通信した全てのログを破壊し、部屋のシステムに痕跡一つ残さなかった。
そして、彼女は一度も振り返ることなく、あの窓のない部屋を、永遠に後にした。
◆
「おかわりはいかがですか?」
カフェの店員の声に、怜奈はふと我に返った。
「いえ、もう結構です」
彼女は微笑み、勘定を済ませて席を立った。
破壊された街を、再建の槌音が鈍く響く中、怜奈はゆっくりと歩いた。
役務に就く人々が、巨大なインフラの残骸の下で、黙々と働いている。彼らには明日食べるパンがあり、雨露をしのぐ家があり、そして最低限の『仕事』があった。
全てを失ったわけではない。ただ、決定的な壊滅を免れた、それだけだ。
彼らは、自分たちが生きているこの社会の設計図が、誰によって、どのような意図で世に出されたのかを知らない。そして、これからも知ることはないだろう。
(有馬さん、あなたは正しかった)
怜奈は心の中で、かつての上司に語りかけた。
(希望は、確かに箱の底に残っていました。でも、その箱を開ける鍵は、この国の中にはなかった。「外圧」という名の、最後の鍵は)
彼女は、誰にも知られることなく、この国を救った。そして、誰にも知られることなく、この国を売ったのだ。
その罪を、彼女はただ一人で背負っていた。
雑踏の中に紛れ、彼女がカフェを立ち去ろうとした、その時だった。
「奥田怜奈さん、ですね?」
背後からかけられた静かな声に、怜奈の心臓が凍りついた。その名前で呼ばれるのは、十三年前、あの部屋を出て以来、初めてのことだった。ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは、怜奈よりも少し年下に見える、鋭い知性を感じさせる目をしたスーツ姿の男だった。
「…人違いです。私の名前は鈴木沙織です」
怜奈は、表情を変えずに白を切った。
男は、その嘘を意にも介さず、静かに続けた。
「有馬征四郎先生からの、伝言です」
有馬――その名を聞いた瞬間、怜奈の呼吸が浅くなる。男は、怜奈の目を真っ直ぐに見つめ、一言一句を違えぬよう、丁寧に言葉を紡いだ。
「――『君なら、必ずやると信じていた』と」
その言葉は、怜奈の心の最も深い場所に突き刺さった。時間が止まる。驚愕が、彼女の顔から全ての表情を奪い去る。
気づいていた。あの時から、全て。私の思考も、絶望も、そして、下すであろう決断さえも。
怜奈が声も出せずに立ち尽くす前で、男――有馬の腹心は、初めてわずかに口元を緩め、こう言った。
「改めて。先生が、あなたのお力をお貸しいただきたいと。お話があります」
第二部へ続く
第一部(崩壊編)完 第二部(占領期編) 第三部 第四部を予定。




