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国民基盤役務制度  作者: 喰ったねこ
崩壊編
4/41

民主主義の限界負荷強度 2037

あれから十年。時に西暦2037年、俺、佐藤ユウトは47歳になっていた。世界は緩やかに、しかし確実に変わり果てていた。


日本は、田中准教授が予言した通り、静かで決定的な停滞の中に沈んでいた。


ひび割れたまま放置された道路。


錆びた鎖で固く閉ざされた歩道橋。


シャッターが下り鳩の巣と化した商店街では、色褪せた国旗が風も無く虚しくうなだれていた。


子供の声が消えた公園に佇む錆びたブランコ。風が吹くたびに、キィ…キィ…と、か細い悲鳴が上がる。


郊外の住宅地では、夜になっても半分も灯りがつかず、平成時代には幸せな家族の営みがあったであろう木造住宅は風雪による劣化が進み巨大な墓石のように黒く沈黙している。


かつて活気のあったこの国の毛細血管は、少しずつ詰まり、壊死し始めていた。


俺の生活も、その国の衰退と軌を一にしていた。AIの発達でウェブデザインの仕事は単価が暴落し、今では深夜のデータセンターでのサーバー監視という、肉体と精神をすり減らすバイトを掛け持ちして、ようやく生きている。47歳になった今も、六畳一間のアパートが俺の全てだった。


両親は、父が体を壊したのを機に、千葉の実家を引き払い、今は家賃の安い公営団地で暮らしている。度重なる削減でスズメの涙ほどになった年金と、俺からのわずかな仕送りだけが頼りだ。電話の向こうで「お前も大変なんだから、無理はするなよ」と繰り返す母の声を聞くたび、俺は言いようのない無力感に襲われた。


対照的に、隣国『東亜連邦』は世界の覇者としての地位を不動のものにしていた。『経綸計画』は、西側諸国が「現代の奴隷制度」と揶揄する一方で、その圧倒的な成果の前では、どんな批判も色褪せて見えた。


国営放送が喧伝する映像には、砂漠の真ん中に生まれた巨大な太陽光発電所や、AIによって完全制御された垂直農法プラントが映し出される。そこで働く国民は、一様に明るい笑顔で、国家への貢献を語る。彼らは個人の自由の代わりに、国家による絶対的な安定と、世界をリードしているという強烈な自尊心を手に入れたのだ。


かつての最大の同盟国だった合衆国は、国内で高まる自国第一主義の波に乗り、「トリンプ大統領」の時代にその軍を完全に引き揚げていた。七年前、尖閣諸島を巡る紛争でついに安保条約第5条が発動されなかったことで両国関係は決定的に悪化し、五年前にそのプレゼンスは第三列島線まで後退、在日合衆国軍は完全に消え去った。


核戦争のリスクを冒してまで日本を守る理由がなかった合衆国と、「条約は空手形だ」と悟った日本。両国の思惑が一致した結果だった。


東アジアに生まれた力の空白。その空隙を埋めるように、隣国『東亜連邦』はその有り余る国力を背景に、日本への経済的・外交的圧力を年々強めていた。

日本の基幹産業は彼らの巨大資本に次々と飲み込まれ、国際社会での日本の声は、誰にも届かない虚しい呟きとなっていた。俺たちは、茹でガエルだった。熱湯に放り込まれればすぐに逃げ出すが、ぬるま湯からゆっくりと温度を上げられ、自分が死に向かっていることに気づかない、愚かなカエルだ。


そして、その年 2037年5月10日、午後4時16分。

運命は、ぬるま湯に浸かったカエルを、一瞬で熱湯に突き落とした。


「――緊急地震速報です。東海、近畿、四国で最大震度7の揺れ……」


南海トラフ巨大地震。

それは、あらゆる想定を上回る規模で、この国を襲った。


政府が後に発表した最終的な被害報告によれば、死者・行方不明者は32万人に達した。そのうち23万人が、最短2分で到達した巨大津波に呑み込まれた結果だった。負傷者は62万人。全壊または焼失した建物は238万棟に及び、発災からわずか数時間で、避難を求める人々の数は500万人を超えた。


経済的被害は、直接的な資産被害が170兆円、生産やサービスの低下が50兆円、合計220兆円という天文学的な数字となった。これは、東日本大震災の10倍以上の規模であり、日本のGDPの4割以上が一夜にして消滅したことを意味する。


社会インフラも完全に崩壊した。停電は2700万軒、断水は3400万人。都市ガスは180万戸で供給が停止し、通信回線は930万回線が不通となった。東海道・山陽新幹線は広範囲で脱線・崩壊し、東名・新東名高速道路も無数の橋梁が崩落。日本の大動脈である太平洋ベルト地帯の交通網と物流は、物理的に寸断された。


黒い津波が日本の産業心臓部を呑み込み、経済は一瞬で心停止した。社会システムは完全に崩壊した。


被災地は、地獄だった。


俺は、仕事を失い、東京で災害ボランティアに登録した。数日後、海上自衛隊の輸送艦で名古屋港に送られ、名古屋の避難所に入った。そこで見たのは、鈴木教授の予言が、あまりにも正確に現実化した後の世界だった。政府の対応は後手後手に回り、救助も物資も行き届かない。指揮系統は混乱し、どこに何が足りないのか、誰にも分からない。圧倒的な人手不足。誰もが助けを求めているのに、それを効率的に動員する仕組みがない。日本は、自らの力では立ち上がることすらできない、巨大な被災者と化した。


その時、世界に向けて声明を発表したのは、東亜連邦の国家総主席だった。


「我々は、日本の悲劇に心から哀悼の意を表する。そして、我が国の『経綸計画』の下で災害復旧の専門訓練を受けた、百万人の役務者を、日本の復興のために、無償で派遣する」


それは、善意の仮面を被った、あまりにも屈辱的な最後通牒だった。


東亜連邦の役務者たちは、地震発生から一週間後には、統一された制服と最新鋭の重機を携え、被災地に降り立った。彼らの動きは、軍隊のように統率が取れ、驚異的な効率で瓦礫を撤去し、道路を復旧させていく。


それもそのはずだった。彼らの『経綸計画』は、失業者や生活困窮者のうち、就労能力のある者を国家が直接雇用し、権利ではなく義務的に役務を課す制度だったからだ。国による強制と圧迫がその推進エンジンだった。


西側諸国はこれを「福祉という概念を廃止し、失業する自由さえ認めない強制労働だ」と非難したが、結果として東亜連邦は失業者ゼロと、巨大な動員可能労働力を同時に実現していた。彼らは志願したボランティアではない。民間市場からこぼれ落ちた瞬間に、自動的に国家という巨大な雇用主に再配置された労働者なのだ。


泥と埃にまみれた俺たちは、ただ呆然と、その光景を眺めることしかできなかった。

彼らが使っているのは、12年前に俺たちの国が捨てた、あの計画そのものだった。

――そこから、「自由」だけを抜き取った姿の。



3ヶ月後。復興の主導権を完全に東亜連邦に握られた日本は、国家としての最終的な選択を迫られていた。


この国難に際し大政翼賛会的な『日本生存戦略会議』を母体とする新政権が発足し、彼らは国民に向けて、歴史上最も重い問いを投げかけていたからだ。


「もはや、我々の力だけでは、この国を再建することは不可能です」

テレビに映る首相の顔は、苦渋に満ちていた。


「東亜連邦は、復興を加速させる為として、彼らの社会運営システム『経綸計画』の本格導入を提案しています。これを受け入れれば、国はある程度は再建され、国民の生活は保障されるかもしれません。しかし、それは我々が知る日本の形ではなくなります。この選択を、政府だけで決めることはできません。日本の未来を、国民一人ひとりの手に委ねたい。来月、歴史上初めて、国家のあり方そのものを問う国民投票を行います」


日本中が、最後の熱狂と深い分断に揺れた。これは経綸計画だけを受け入れる事だけではなかった、東亜連邦の様々なシステムを、事実上受け入れるということだった。


「賛成」派は、「生きるためにはプライドを捨てろ」「明日のメシがなければ、自由も民主主義も無意味だ」と叫んだ。

「反対」派は、「失業者への強制労働反対」「日本の魂を売り渡すな」「管理される家畜になってはいけない」と訴えた。

しかし、瓦礫の山と化した街で、配給の列に並ぶ人々にとって、その声はあまりにも理想論に聞こえた。


そして、運命の投票日。


俺は、避難所の片隅で、スマートフォンの小さな画面に映し出される開票速報を見ていた。バイト先だったデータセンターは、もうない。両親は、この投票を前にして「もうわからない」とだけ呟き、棄権した。


午後八時。投票締め切りと同時に、画面に速報のテロップが躍った。

『「賛成」派、投票率85%のうち、得票率51.2%の見込み』


アナウンサーが、厳粛な、しかしどこか覚悟を決めたような声で、言葉を紡ぐ。

「……国民は、自らの手で、選択しました。戦後九十年以上続いた、我々の社会のあり方を終わらせ、生き残る道を選ぶことを、決断したのです」


俺は、モニターの電源を切った。

静寂が、部屋を支配する。


あの時、匿名掲示板で、一つの文書を見つけた夜。俺は「それは、破滅か、それとも再生か」と考えた。


12年前、俺たちは、自分たちの手で再生する道を選ばなかった。

そして今日、俺たちは、破滅を避けるために、他者から与えられる自由のない再生を、自らの意思で選んだのだ。


これから、この国はどうなるのだろう。地震で仕事を失った俺も国民基盤役務制度(経綸計画)へ強制的に登録されるだろう。そこでは、どんな役務を割り当てられるのだろうか。

もう、わからない。ただ一つだけ確かなのは、俺たちが知っていた日本は、たった今、俺たち自身の投票によって、終わったということだけだった。



ポケットに入れていたスマートフォンが、短く振動した。画面には、政府からの通知が表示されていた。


『【国民基盤役務制度】登録完了のお知らせ。佐藤ユウト様の初回役務が割り当てられました。期限:2037/10/22 17時までに最寄りの役務センターへ出頭してください。期限後の場合、罰則対象となります。』

2025年9月19日2:00 5話を投稿予定。


経済的被害は、直接的な資産被害が170兆円、生産やサービスの低下が50兆円、合計220兆円という天文学的な数字となった。※2025年現在の金額で将来のインフレ分を盛り込まず。



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