不死
国民投票まで、あと三日。西暦2046年、初夏。
有馬政権が発動した情報戒厳令により、日本は不気味なほどの静寂に包まれていた。インターネットは遮断され、通信網も極度に制限された。「記憶派」ら反対派の最後の抵抗計画は、実行前に完全に封じ込められたかに見えた。
佐藤ユウトは、データセンターの片隅で、ただ無力感に苛まれていた。有馬のシステムは完璧だった。抵抗の芽は、それが形を成す前に摘み取られる。国民投票は、予定通り有馬の望む結果をもたらすだろう。そう、誰もが信じていた。
その日、事件は起きた。
有馬征四郎首相は、国民に向けた演説を行うため、厳重な警備下に置かれた東京駅丸の内広場に立っていた。
警護部隊(SP)は、狙撃地点となりうる広場両側の高層ビル(丸ビル、新丸ビル)の屋上や主要なオフィス窓を完全に制圧。演説台そのものも、分厚い防弾ガラスで四方が囲まれていた。
警備は完璧に見えた。だが、誰も気づいていなかった。その警備網の心理的な盲点――丸ビル中層階の、内装工事中で無人のはずのフロアに潜んだ一人の狙撃手が、資材の影からバレットM82対物ライフルの銃口を覗かせていることに。
狙撃手は、この数日間の潜伏で、演説台までの正確な距離と高低差、そして防弾ガラスの材質による弾道の「偏向」さえも、冷徹に計算し尽くしていた。
「……我が国が手にした独立と安定を、未来永劫のものとするために。国民諸君の、賢明なる判断を信じ――」
有馬が、その言葉を締めくくろうとした瞬間だった。
轟音は、衝撃と同時だった。
演説台の防弾ガラスが、中心から白い蜘蛛の巣状に砕け散ると同時に、その中央を突き破った銃弾が、有馬の胸を貫いた。
対物ライフルから放たれた.50口径の徹甲弾は、首相官邸の警備が想定していた防御レベルを、その圧倒的な運動エネルギーで無効化したのだ。弾丸はガラスを貫通した後も威力を失わず、有馬がスーツの下に着用していた防弾チョッキごと、その身体を撃ち抜いた。
有馬は、何が起きたのかを理解する間もなく、鮮血を胸から噴き出し、演説台の後方へと崩れ落ちた。
現場は阿鼻叫喚の地獄と化した。聴衆はパニックに陥り、監視ロボットの警告音が鳴り響く中、警備部隊が銃撃地点となった向かいのビルに向かって叫び声を上げる。 中継カメラは、主を失った演説台と、床に倒れ動かなくなった首相の姿を、数秒間、無情にも映し続けた。
『――緊急速報です! ただ今、東京駅前で演説中の有馬首相が、何者かに狙撃されました! 防弾ガラスが貫通されています! 首相は倒れています!』
映像は慌ただしく「しばらくお待ちください」という静止画に切り替わり、日本中が息を呑んだ。
情報は錯綜した。独立派残党の犯行か? それとも海外勢力の陰謀か? あるいは、政権内部の抗争か? だが、国民が知ることになったのは、わずか数時間後に発表された、短い公式声明だけだった。
「有馬征四郎内閣総理大臣は、本日、テロリストの卑劣なる凶弾に倒れ、殉職されました」
灰色の宰相は、自らが国民に最後の審判を問う、その直前に、この世を去った。
◆
日本中が、驚愕と、そして奇妙なほどの虚脱感に包まれた。絶対的な支配者が、あまりにもあっけなく消え去った。これから、この国はどうなるのか? システムは? 国民投票は?
その混乱を収拾したのは、白洲二郎だった。 官房長官として有馬を支え続けてきた彼は、即座に臨時首相代理に就任。憔悴した表情ながらも、テレビカメラの前で毅然として国民に語りかけた。
「…有馬総理の遺志を継ぎ、我が国は断じてテロには屈しない。総理が最後に望まれた、国民自身による国家の未来の選択――国民投票は、予定通り実施する」
白洲は続けた。 「このテロは、我々が築き上げてきた『安定』と『秩序』を破壊しようとする者たちの仕業だ。今こそ、我々は一致団結し、総理が命を懸けて守ろうとしたこの『国民基盤役務制度』を、我々自身の選択によって守り抜かなければならない!」
それは、有馬の死を殉教へと昇華させ、国民投票を「有馬の遺志」と「テロに対する国民の意思表示」へと巧みにすり替える、見事な政治的演説だった。
◆
投票日当日。 街は異様な静けさと緊張感に包まれていた。監視ロボットの数は倍増され、役務センター(投票所)周辺には新国軍の兵士が物々しく警備に立っていた。 有馬の死は、皮肉にも、彼が作り上げたシステムへの支持を、ある種感情的なレベルで補強していた。「テロリストに負けてたまるか」「総理の遺志を無駄にするな」――そんな空気が、声には出されずとも、確かに存在していた。
ユウトも、重い足取りで投票所へ向かった。
有馬は死んだ。だが、システムは生きている。
そして、自分たち国民が、これからそれを生かし続けるかどうかを問われている。 彼は投票用紙を受け取り、ブースへと入った。有馬への憎しみも、システムへの諦めも、今はどこか遠い。ただ、この灰色の安定が失われることへの、漠然とした恐怖があった。
ユウトは、ペンを取り、「賛成」の欄に力なく印をつけた。
◆
開票結果は、もはや誰も驚かなかった。
【国民投票 結果】
投票率: 75.8% (有馬の死への関心から上昇)
『国民基盤役務制度』継続 賛成: 92.1% (有馬への同情票、反テロ感情が上乗せ)
『国民基盤役務制度』継続 反対: 7.9%
それは、有馬が生前に予測した以上の、圧倒的な「信任」だった。 国民は、指導者を失ってもなお、自らの意思で、「自由」よりも「管理された安定」を選んだのだ。
◆
データセンターで、ユウトはその数字を、ただ虚ろに見つめていた。 新国軍の司令部。飯田熊治は、静かに目を閉じた。これで、自分の戦いも終わったのかもしれない、と。 首相官邸。白洲二郎は、新たな首相として、国民からの圧倒的な「信任」を背に、この灰色のシステムを引き継ぐ決意を固めていた。有馬の死は、むしろ彼の権力基盤を盤石なものにした。
書斎で、東山史郎は、『有馬首相記(仮)』の最終稿に、新たな一文を書き加えていた。 (確かなのは、その突然の死が、彼が作り上げたシステムを揺るがすどころか、むしろ強化したという事実だけだ……)
有馬征四郎の死は、何も変えなかった。 国民の審判は下され、日本は、自らの意思で、灰色の豊穣を選び取った。それは、もう誰にも覆すことのできない、この国の新しい形だった。




