情報戒厳
国民投票まで、あと一週間。西暦2046年、初夏。
梅雨の気配を含んだ湿った空気が、管理された都市を覆っていた。表向きの静けさとは裏腹に、社会の水面下では、システム継続の是非を巡る最後の攻防が、熱を帯び始めていた。
「反対」の声は、もはや単なる個人的な呟きではなかった。 検閲AIとの戦いを続けるアンダーグラウンドなネットワークでは、高度に暗号化された通信手段を用いて、連絡を取り合うグループが現れ始めていた。彼らは自らを「記憶派」と名乗り、震災前の「自由」の価値を再評価し、システムによる管理社会に警鐘を鳴らす短いメッセージやイメージデータを拡散していた。
佐藤ユウトは、その潮流の中心に、知らず知らずのうちに引き寄せられていた。データセンターでの役務の合間、彼は古い端末を使い、「リメンブランス」のメンバーと匿名でコンタクトを取っていた。彼の持つ、震災前から培ってきたITスキルと、政府の監視システムに関する(独立派に居た時に得た)断片的な知識は、彼らにとって貴重な武器となっていた。
「…本当にやるのか?」 暗号化されたチャットルームで、ユウトは問いかけた。投票日当日、全国の主要都市で、システムの監視網に一瞬の「穴」を開け、人々が自由に意思表示できる空間を作り出すという、あまりにも大胆な計画が進んでいた。 『やるしかない』リーダー格の人物からの返信は、簡潔だった。『声なき声を、可視化する。それが我々の最後の抵抗だ』
ユウトは迷っていた。この行為が露見すれば、「社会秩序を乱す扇動者」として、懲罰役務どころでは済まないだろう。しかし、彼は台湾の塹壕で、そして独立後の灰色の日常の中で、失われた「何か」を確かに感じていた。ここで何もしなければ、自分は永遠に後悔するのではないか。
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その不穏な動きは、当然、首相官邸も察知していた。 白洲二郎は、有馬征四郎に、奥田怜奈が統括する監視システムからの緊急報告を上げていた。 「総理。『リメンブランス』と名乗る反体制グループの活動が活発化しています。投票日当日に、何らかのサイバー攻撃、あるいは小規模なデモを計画している兆候があります」
有馬は、眉一つ動かさなかった。 「……計画の詳細は?」 「特定には至っていません。彼らは極めて巧妙に痕跡を消しており、奥田君のシステムをもってしても、全容解明にはあと数日かかると…」 「投票後には意味がない」有馬は冷たく言い放った。「投票は、予定通り実施する。だが、いかなる『ノイズ』も許容しない。白洲、投票日前夜をもって、国内の全通信ネットワークに対し、一時的な『アクセス制限措置』を実施しろ」
「…! 全ての、ですか?」白洲は驚愕した。「それでは、経済活動や国民生活に甚大な影響が…」 「構わん」有馬は即答した。「理由付けは後で考えろ。『外部からの大規模サイバー攻撃の予兆』でいい。重要なのは、投票日当日、国民が『静かな環境』で、賢明な判断を下せるようにすることだ」
それは、事実上の情報戒厳令だった。有馬は、反対派の最後の抵抗の芽を、投票前に力ずくで摘み取ることを決断したのだ。彼は、国民投票という形式は取りながらも、その結果が自らの意に沿わないものになる可能性を、微塵も許容していなかった。
白洲は、その命令の非情さに内心戦慄しながらも、ただ「はっ」と短く応じるしかなかった。
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新国軍の訓練基地。 飯田熊治は、演習を終えた若い兵士たち――その多くは「国防役務」で徴集されたばかりの若者だ――に、精神訓話を行っていた。 「…我々が守るべきは、この独立した祖国であり、国民の生活だ。その根幹たる『国民基盤役務制度』を守り抜くことこそが、諸君に課せられた崇高な任務である…」 それは、有馬政権が作成したマニュアル通りの、空虚な言葉だった。
訓話の後、彼の元に、かつての独立派の仲間であり、今は部下となった将校の一人が近づいてきた。 「…飯田司令。本当に、これでいいのでしょうか」 将校の声は、苦渋に満ちていた。「俺たちは、自由のために戦ってきたはずです。なのに、俺たちが今守っているのは、その自由を奪うシステムそのものではないのですか」
飯田は、何も答えられなかった。彼の心の中にも、同じ葛藤が渦巻いていた。有馬は「独立」を与えた。しかし、それは飯田が夢見たものとは似ても似つかない、管理された独立だった。 「…今は、耐える時だ」飯田は、絞り出すように言った。「我々には、この国を守る力が必要だ。その力を得るまでは…」
将校は、それ以上何も言わず、敬礼して去っていった。だが、飯田は彼の目に宿る、諦観だけではない、別の光を見た気がした。国民投票。それは、飯田たち元・独立派にとっても、自らの存在意義を問われる、運命の日となりつつあった。
投票日まで、あと三日。 有馬による情報統制の鉄槌が振り下ろされようとしていた。声なき声を集めようとする者たちと、それを力で封じ込めようとする者。最後の攻防が、始まろうとしていた。




