不合理な疑問
国民投票の実施が告示されてから、数ヶ月が経過した。西暦2046年、早春。 日本社会は、表面的には有馬首相の予測通り、静穏を保っていた。政府系のメディアは連日、『国民基盤役務制度』がもたらした「安定」「豊穣」「安全」を称賛し、震災後の混乱や、それ以前の「自己責任社会」の過酷さを繰り返し報道した。
「あの頃に戻りたいのか?」
その問いは、特に震災の地獄を経験した世代にとって、強力な呪縛となっていた。多くの国民にとって、システム継続への「賛成」は、考えるまでもない自明の選択のように思えた。
佐藤ユウトも、その一人だった。データセンターでの単調な役務を終え、配給される食事を受け取る。かつて夢見た自由や成功とは無縁だが、飢える心配も、職を失う恐怖もない。国民投票のポスターが、役務センターの壁に貼られている。「確かな未来へ『賛成』の一票を」。彼は、その前を無関心に通り過ぎた。反対する理由が見当たらない。ただ、心のどこかで、何かが決定的に失われたという感覚だけが、鈍い痛みのように残っていた。
しかし、その分厚い氷の下で、わずかな変化が起き始めていた。 それは、組織的な抵抗運動ではなかった。システムによる監視網が張り巡らされたこの社会で、大規模な反対活動は自殺行為に等しい。変化は、もっと個人的で、ささやかな形で現れ始めた。
始まりは、インターネットの片隅、政府の検閲AIがまだ完全に捕捉しきれていない、古い匿名掲示板の残骸だった。 『あの頃を、覚えているか?』 誰かが、そう書き込んだ。震災前の、不自由だったかもしれないが、自分の意思で未来を選べた時代のことを。書き込みはすぐに削除されたが、同じような声が、別の場所で、形を変えて囁かれ始めた。
『システムは、俺たちから何を奪った?』 『管理される人生は、本当に「生きている」と言えるのか?』
それは、主に二つの世代から発せられていた。
一つは、ユウトよりもさらに上の、震災前に引退し、システムの恩恵(シニア期役務)を受けながらも、かつての「震災以前の自由」の味を知る老人たち。 年金や生活保護の廃止をうけて、事実上、彼らは役務制度に完全に縛られていた。
現役世代であれば、国から指定された国防等の義務役務がなければ、自分の選択で民間企業で働くことも可能ではあったが、定年以降になるとそれがとても難しかった。それが、役務制度下の高齢者の現実だった。それでも、震災直後のように、年金や医療の破綻に比べればマシなのかもしれなかったが、今や最もシステムの窮屈さを感じている世代ともいえた。
もう一つは、子供の頃からシステムの中で育ち、その息苦しさに疑問を感じ始めた若い世代だった。子育て費用の削減と将来人材の最適化の為、教育にも国民基盤役務制度システムが導入され、進路に対して様々な介入が行われるようになったからであった。国の要求教育レベルに達しない大学や高校等は容赦なく廃止されていったのである。
「国にあれこれ、いちいち指図されるなんて、家畜と同じじゃないか」
彼らの声は小さく、すぐに監視システムによって摘み取られた。書き込みをした者は「社会不適合」と判定され、再教育プログラムへと送られた。それでも、声は完全には消えなかった。 街角の監視ロボットの死角に、スプレーで描かれた小さな「×」印。 役務の合間に交わされる、短い、しかし意味深な視線の交換。 システムが推奨しない、古い映画や音楽のデータが、アンダーグラウンドで密かに共有される。
それらは、有馬政権を脅かすほどの力は持っていなかった。しかし、確実に存在していた。『自由』への郷愁と、『システム』への反発。かつて有馬自身が予見した、国民の心の中に潜む、最後の抵抗。
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首相官邸。白洲二郎は、有馬征四郎に、国内の治安状況に関する定例報告を行っていた。 「…以上のように、国民投票に反対する、あるいは制度自体に疑問を呈する書き込みや、小規模なサボタージュ行為が散見されます。いずれもシステムによって即座に検知・対処しており、社会全体への影響は軽微です」
「そうか」有馬は、関心なさげに頷いた。「泳がせておけ。多少のガス抜きは必要だ。完全に抑えつければ、かえって疑念を招く」 彼は、奥田怜奈のシミュレーション結果を絶対視していた。国民の大多数は「安定」を選ぶ。これらの小さな反発は、予測された範囲内のノイズに過ぎない、と。
「それよりも、飯田君の動向はどうだ?」 「は。新国軍・特別顧問として、忠実に任務をこなしております。先日の軍事演習でも、見事な指揮能力を発揮していました。…ただし」白洲は言葉を選んだ。「彼個人の内心までは、システムでも完全には…」
「構わん」有馬は遮った。「彼も現実主義者だ。我々が築いたこの『独立』を守るためには、このシステムが不可欠であることを理解しているはずだ。彼自身の過去の理想よりも、な」
有馬の視線は、既に国民投票の先を見据えていた。国民自身の手によって「選択」されたシステム。それこそが、彼が目指した国家の最終形態だった。
しかし、白洲は報告書には載らない、微かな「ノイズ」の増加を感じ取っていた。システムによって削除される反対意見の頻度が、わずかに、しかし確実に上昇している。それはまだ統計的な誤差の範囲内だ。だが、奥田怜奈のシミュレーションにあった、あの小さな注釈が、白洲の脳裏をよぎった。
『※注意:潜在的不満層の動向によっては、最大8.5%の変動可能性あり』
白洲は、その一抹の不安を、しかし口には出さなかった。灰色の宰相の絶対的な自信の前では、それは杞憂に過ぎないと思われたからだ。
投票日まで、あと二ヶ月。 日本社会の分厚い氷の下で、微かな亀裂が、静かに広がり始めていた。




