国民投票
2045年、晩秋。
灰色の豊穣は、日本の隅々まで行き渡っていた。人々はシステムが提供する安定した日常に慣れ、かつての自由(あるいは不安定)を語る声は、日増しに小さくなっていた。震災を知らない若い世代にとっては、子供の時からこの『国民基盤役務制度』こそが当たり前の社会だった。
佐藤ユウトの日常も、変わらない。データセンターでの監視役務、規格化された集合住宅での孤独な食事、AIが推奨する最低限の休息。時折、彼は古い記憶――匿名掲示板で怪文書を見つけたあの夜、台湾の塹壕で死を覚悟した瞬間――を夢に見ることがあったが、目覚めればいつも通りの灰色の現実が待っているだけだった。
そんな停滞した空気を破ったのは、他ならぬ有馬征四郎首相自身だった。
臨時国会での施政方針演説。独立達成後の日本が築き上げてきた「安定」と「復興」を自画自賛した後、有馬は、何の前触れもなく、その爆弾を投下した。
「……そして、政府はここに、重大な提案を行うものである」
テレビ中継を見守っていた国民は、息を呑んだ。能面のような宰相の口から、予想外の言葉が紡がれる。
「我が国が採用する『国民基盤役務制度』は、国難を乗り越え、国民の生活を保障するために導入されたものである。その有効性は、この三年の成果が証明していると確信する。しかし、この制度が国家の恒久的な基盤として相応しいか否か、その最終的な判断は、主権者たる国民自身によって下されるべきである」
ざわめきが議場を包む。
「よって、政府は来たるべき春、『国民基盤役務制度』の継続の是非を問う、国民投票を実施することを、ここに宣言する!」
発表は、日本中に衝撃となって駆け巡った。 なぜ、今? 政権運営は盤石に見えた。国内に目立った抵抗勢力は存在しない。野党も、有馬の「鉄の秩序」の前では無力だった。なぜ、自らその体制の根幹を揺るがしかねない国民投票を実施するのか?
ユウトは、データセンターの休憩室で、同僚たちと壁掛けモニターのニュース速報を見ていた。 「国民投票……? どういうことだ?」 若い同僚が、不安げに呟いた。「もし、この制度がなくなったら、俺たちの仕事は……?」 「馬鹿野郎」年配の役務者が吐き捨てるように言った。「なくなるわけねえだろ。有馬さんのやるこった、どうせ出来レースだよ。継続賛成が99%って結果にするためのな」
多くの国民も、そう受け止めた。これは、有馬政権が自らの支配体制に「国民のお墨付き」を与えるための、形式的な儀式に過ぎない、と。
しかし、歴史家の東山史郎は、そのニュースを自宅の書斎で聞きながら、別の可能性を感じていた。 (有馬……君は、本気で国民に選択させるつもりなのか? この安定を手放すリスクを冒してまで?) 彼は、有馬という男の底知れなさを改めて感じていた。あの男は、決して単なる権力欲で動く人間ではない。彼が描く国家像の、最後の仕上げとして、この国民投票を位置付けているのかもしれない。国民自身に「自由」か「管理」かを選ばせることこそが、彼のシステムの完成形だとでも言うように。
◆
永田町。首相官邸の執務室。 白洲二郎は、主君である有馬に尋ねた。 「総理。本当に、よろしいのですか? 万が一……国民が『否』を選択した場合、我々が築き上げてきた全てが水泡に帰します」
有馬は、窓の外――完全に再建された、しかしどこか無機質な東京の夜景を見つめたまま、静かに答えた。 「……国民がそれを望むなら、それもまた、この国の形だ」 その声には、しかし絶対的な自信が滲んでいた。 「それに、白洲君。心配は無用だ。我々には、奥田君の『システム』がある」
有馬は、コンソールを操作し、奥田怜奈から送られてきたばかりの、最新の世論シミュレーション結果を表示させた。そこには、国民投票を実施した場合の予測投票率と、賛否の割合が、冷徹な数字で示されていた。
【国民投票シミュレーション(第一次予測)】
予測投票率: 68.5%
『国民基盤役務制度』継続 賛成: 72.8%
『国民基盤役務制度』継続 反対: 27.2%
「見ろ」有馬は言った。「国民は、もはや『自由』という名の不安を、必要としていないのだよ」
白洲は、その数字が示す圧倒的な「現実」に言葉を失った。有馬は、国民投票という「民主的な手続き」を提示しながら、その結果さえもデータによって予測し、完全にコントロールしている。
しかし、そのシミュレーション結果の片隅に、奥田怜奈が付与した小さな注釈があった。 『※注意:潜在的不満層の動向によっては、最大8.5%の変動可能性あり』
有馬は、その注釈を一瞥したが、気にも留めなかった。 灰色の宰相は、自らが作り上げたシステムへの絶対的な自信と共に、国民への最後の問いかけへと、静かに歩みを進め始めていた。 その先に、何が待っているのかを知らずに――。




