緊張の高まり
2041年、春。ワシントンD.C.、フォギーボトム。
国務省の窓のない一室は、濃いコーヒーの匂いと、サーバーの低いハミング、そして張り詰めた緊張感に満ちていた。壁一面のモニターには、日本の工業地帯を示す衛星写真、横浜港のコンテナ積載量を示すグラフ、そして東海道本線を24時間体制で行き交う貨物列車の運行データが、無機質に映し出されている。
その中央に座る東アジア局の副次官補は、目の前の男に視線を固定していた。 「……もう一度、結論を聞かせてくれ、Mr.湯川」
スティーブンスは眉をひそめ、信じられないという顔でモニターの生産グラフを指さした。 「これが信じられんのだ。あの壊滅的な震災から、わずか数年で、日本の主要産業が震災前レベル……いや、一部の軍需部門ではそれを超える生産力だと? 我々のどのシミュレーションより早い。これはもはや復興ではない、異常だ」
彼はもう一つのスクリーンに、有馬の最新の演説映像を映し出す。 「そして、これだ。先週、東亜連邦の幹部会で行ったスピーチだ。『西欧の古い秩序は終わり、アジアは一つの理念の下に団結する』『我々日本は、その新秩序の礎石となることを誇りに思う』……。まるで熱心な信者のようだ。彼は、連邦の支配下で、強制的に復興させられている傀儡ではないのかね?」
その問いに、湯川道彦は静かに答えた。数年間の亡命生活で、その温和だった元厚生官僚の面影は消え、警鐘を鳴らし続ける者の鋭い眼光を宿していた。
「スティーブンスさん、あなた方は彼の行動を『恭順』や『圧政と人権弾圧』という政治的レンズで分析している。だから本質を見誤る。まず、なぜ有馬が一連の謀略を実行したのかそれを考える必要がある」
湯川は、モニターに映る日本の姿を、まるで自らが作り出した恐るべき怪物を見るかのように見つめた。
「彼の本当の意図は私にも分かりかねます。ただ、有馬征四郎は、政治家である前に、究極の合理主義者であるはずだ。私と彼があの研究所に居た時から、その本質は変わっていないように思える。彼にとって、あの一連の謀略ですら政治闘争ではなかった。究極のシステムを構築のための、冷徹な『デバッグ作業』と見なせば腑に落ちるのです」
「デバッグ……?」
「そうです」湯川は、列車転覆事件のレポートを指さした。「有馬にとって、飯田熊治ら独立派は、政治的な敵である以前に、自らの計画の『遅延』や『破壊』を誘発する予測不能なバグだった。だから、彼はまず、国民の恐怖心を煽ることで、このバグを社会から徹底的に隔離する必要があった。あの列車転覆事件は、そのための非情な口実作りに過ぎません」
「だが、大村総裁は違うだろう」スティーブンスは食い下がった。「彼はテロリストではない。実直な技術者だったはずだ」
「しかし、彼はそれゆえに有馬の方針に逆らって人員削減に抵抗してしまった」
湯川の声の温度が、一段階下がった。
「新国鉄の大量解雇を動機として、独立派が人員削減を進める新国鉄トップの大村を殺害するという絵を描いて、抵抗する総裁を物理的に排除すると共に、彼の死を利用して人員削減を最大限に強行した」
湯川は立ち上がり、新国鉄の運行データが並ぶモニターを指さした。
「大村総裁が抵抗していた『人員整理』とは何だったか。それは、AIの管理に馴染まない、ベテランや独立派シンパたちの一掃でした。有馬は、彼らを『鉄道の安全を守る背骨』ではなく、『AIによる最適化に抵抗するノイズ』としか見ていなかった」
「そして、実際に大村総裁が殺害され人員削減が進んだ結果、どうなったか。新国鉄の運行管理は、人間の経験則から完全に切り離された。官邸のAIシステムによる絶対的な管理下に置かれたのです。今や、日本の鉄道は一本の遅延も、ヒューマンエラーによる事故もない。すべての貨物列車が、工場から港まで、誤差数秒の精度で物資を運び続けている。賃金を上げろというストライキも、独立派に呼応するサボタージュも、もう存在しない」
スティーブンスは、息を呑んだ。有馬の謀略の真の目的が、繋がっていく感覚に襲われた。
湯川は、最後のモニターを指し示した。そこには、国民基盤役務制度による労働力の配置図が、日本地図上にマッピングされている。
「そして、これです」
湯川の声には、自らへの深い悔恨が滲んでいた。
「私が16年前に起草した、あの『国民基盤役務制度』のレポート……あれは、国民を救うための社会保障計画だったはずだ。だが、有馬はそれを、人類史上最も摩擦のない戦争遂行エンジンの設計図として利用した」
湯川は、スティーブンスに向き直った。
「この三つが、今、完璧に噛み合ったのです。
(一)国民基盤役務制度という、完璧な『人的資源データベース』。
(二)AIシステムによる、抵抗ゼロの『生産・輸送管理システム』。
(三)そして、有馬の謀略によって『バグ』を排除され、AIに最適化された『新国鉄』という大動脈。」
「あなた方が有馬の『圧政』を非難している間に、彼は東亜連邦の資金と技術を最大限に使い、彼らのために、この巨大な兵站工場を完成させてしまった。戦争準備は、もう万端です」
スティーブンスは、言葉を失った。有馬征四郎は、その冷徹な合理主義の果てに、東亜連邦が夢見た「新秩序」のための、その引き金を引く準備を、完璧に整えてしまったのだ。
「……副次官補」湯川は、静かに言った。「もう、議論している時間はありません。東亜連邦の指導者たちが、この完璧な兵站工場を見て、何を考えるか。…いや、何をするか。答えは、一つしかないでしょう」
スティーブンスは、何も答えられなかった。彼の視線は、壁一面のモニターに釘付けになる。
そこに映し出されていたのは、もはやデータやグラフではなかった。赤い点が無数に明滅しながら、寸分の狂いもなく稼働し続ける、恐ろしく静謐な日本の生産システム――一つの巨大な「機械」そのものだった。




