市ヶ谷の黄昏
西暦2040年、春。桜が咲き誇る頃、有馬がもたらした統制は人々から考える力を奪いつつあった。しかし、それでもなお、屈辱の義憤に駆られた一団が、いよいよ暴発しようとしていた。
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その日、東京・市ヶ谷の防衛省庁舎を、早朝の轟音が揺るがした。 武装した自衛官の一団が、庁舎の正門を装甲車で突破。連邦軍の連絡将校と、有馬に直結する自衛隊幹部らを拘束し、庁舎を占拠したのだ。
首謀者は、第一普通科連隊の連隊長、倉田陸佐。彼は、かつて飯田熊治が特殊作戦群にいた頃の、信頼する部下の一人だった。 倉田は、占拠した庁舎のバルコニーから、震える声で「檄文」を読み上げた。 「……我々は、国体を破壊し国民を虐げる君側の奸、有馬征四郎を討ち、東亜連邦の不当な軛から日本を解放せんとするものである!」 それは、あまりにも古風で、絶望的なまでに無力な、計画も、その先の展望もない、ただ義憤に駆られただけの蜂起。
関東山地の地下深く。独立派の隠れ家で、飯田熊治はそのニュース映像を、苦渋に満ちた表情で見つめていた。 「馬鹿者が……!」 倉田は、飯田が最も目をかけていた男だった。有能で、愛国心が強く、それゆえに現状の「下請け部隊」という屈辱に耐えられなかった。 「ボス!」部下の一人が、暗号通信の端末を飯田に突き出す。「倉田陸佐からです!『今こそ共に立て』と……!彼らと合流すれば、俺たちも……!」
部下の目は、久しぶりの希望に燃えていた。自衛隊の正規部隊が味方につく。これ以上の好機はない。 だが、飯田は即答できなかった。有馬が、この程度の蜂起を予測していないはずがない。これは、あまりにも無防備すぎる。 「……罠だとしたら?」 「罠だとしても、乗るしかありません!倉田さんたちは、俺たちと同じ、本物です!」 飯田は、地図を睨みつけた。市ヶ谷を包囲するルート、合流するタイミング。脳が高速で回転する。これは、独立を勝ち取る最大のチャンスか、それとも全てを失う最後の罠か。
同じ頃、首相官邸の執務室。有馬は、市ヶ谷の占拠を示す戦術マップを、冷ややかに見つめていた。 ドアがノックされ、秘書官が緊張した面持ちで告げた。 「総理、東亜連邦大使館より、ヤン=ウェン駐在武官が到着されました。状況の説明を求めておられます」 「……通せ」
硬い表情で入室したヤン武官に対し、有馬は椅子に座ったまま、わずかに頷いた。 「ご足労痛み入る。ご覧の通り、一部の不心得者による小規模な騒擾が発生した」 有馬は、まるで他人事のように続けた。 「白洲、奥田君に繋げ。『国民基盤役務制度』のシステムを起動。蜂起した隊員、三百十二名。その両親、妻子、兄弟姉妹に至るまで、全ての個人情報を抽出。現住所と、現在の役務状況を即座にまとめさせろ」
ヤン武官の眉が、わずかに動いた。彼も、日本社会を管理するそのシステムの恐るべき力を知っている。有馬が、それを躊躇なく同胞に対して使うことを、彼は今、目の当たりにしていた。
数分後、リストが有馬の端末に表示される。有馬は、倉田陸佐への回線をスピーカーフォンで開かせた。
「倉田君。君の行動は、国家秩序維持法に対する重大な反逆行為である」 『……有馬!貴様こそが反逆者だ!』 「感傷に浸っている時間は終わりだ」有馬は、倉田の言葉を遮った。「最高指揮官として命じる。今から二時間以内に投降せよ。さすれば、首謀者である君一人の死で、全てを不問に付そう」 『ふざけるな!我々を、貴様の「下請け」部隊と一緒にするな!』 「そうか」有馬は、端末のリストをスクロールさせながら、淡々と続けた。 「君の妻、倉田恵子。現在、横須賀の復興労働隊にいるな。それと、君の父親。御年七十八歳。彼は今、千葉の介護施設で『シニア期役務』に従事している。……二人とも、実に立派に国民の義務を果たしている」 『……き、貴様……何を言っている……』
倉田の声が、初めて恐怖に震えた。ヤン武官は、そのやり取りを表情を変えずに見つめている。
「二時間後。君たちが投降しない場合、蜂起した全隊員の家族、総員七百六十四名を、『懲罰役務』に切り替える」 有馬は、非情な宣告を続けた。 「行き先は、原子力発電所の廃炉作業、デブリ取り出し作業の最前線だ。分かるな? 私は、ためらわない」
『……悪魔め……!!』 倉田の絶叫と共に、通信は切れた。
有馬は、静かにスピーカーを切ると、ヤン武官に向き直った。 「ご覧の通りです、武官殿。連邦軍の手を煩わせるまでもありません。我が国の『内部の問題』は、我が国のシステムで処理いたします」
そして、有馬は市ヶ谷を包囲している他の自衛隊部隊の指揮官に、別の通信を入れた。 「反乱部隊の鎮圧を命じる。成功の暁には、君たちの部隊の待遇を、連邦軍準拠にまで引き上げよう。失敗は許さん」
飯田が、ついに決断を下し、「市ヶ谷へ向かう!生き残っている部隊だけでも救い出す!」と叫んだ、まさにその時だった。 隠れ家のラジオが、市ヶ谷での銃撃戦の開始を報じた。 「……早すぎる!?」
飯田の予測を遥かに超え、クーデターは内部から崩壊した。「家族」という、絶対に抗えない人質を取られた兵士たちは、次々と戦意を喪失し、武器を捨てた。倉田陸佐は、残ったわずかな部下と共に抵抗を試みたが、彼らに襲いかかったのは東亜連邦軍ではなかった。 「待遇改善」という餌に釣られ、同胞に銃を向けることを選んだ、他の自衛隊部隊だった。
市ヶ谷の庁舎前で繰り広げられたのは、日本人同士が殺し合う、あまりにも惨めで、一方的な「鎮圧」だった。 飯田は、その中継音声を聞きながら、膝から崩れ落ちた。
数日後。有馬は、この事件を「独立派テロリスト(飯田)に扇動された、一部の自衛官による暴動」と断定し、公式に発表した。
ヤン武官は、本国への報告書にこう記した。「有馬首相は、極めて有能かつ非情な指導者であり、連邦隷下の日本の安定統治において最も信頼に足る人物である」と。
この事件を口実に、有馬は独立派への全国的な浄化をさらに強化。同時に、自衛隊内部に残っていた「不満分子」や倉田に近いと目された者たちを一掃し、組織を完全に掌握した。逮捕、処刑、あるいは懲罰役務への異動。自衛隊から「反骨心」は完全に消え去った。
しかし、有馬の浄化の網をかいくぐり、逃げ延びた者たちがいた。倉田と共に蜂起しようとしたものの、寸前で難を逃れた、あるいは鎮圧部隊にいながらも同胞を撃てなかった、高度な訓練を受けたエリート兵士たち。彼らはもはや自衛隊には戻れない。「テロリスト」の烙印を押され、行き場を失った彼らが向かう先は、ただ一つだった。
隠れ家で、首謀者として指名手配された自分の顔写真を見ながら、飯田熊治は、乾いた笑いを漏らした。 有馬は、飯田の最後の希望だった「同胞」すらも、自らの「忠誠の証」として使い潰し、その罪さえも飯田に着せたのだ。 正規軍による蜂起という希望は潰えた。もはや、この国に正攻法で立ち向かえる「力」は残っていない。
だが、飯田の目はまだ死んではいなかった。彼の元には、有馬の粛清を逃れた「本物の軍人」たちが、少数ながらも集まり始めていた。彼らは絶望を知り、それでもなお戦うことを選んだ者たちだ。 独立派は数を減らした。しかし、その「質」は、静かに、そして確実に変貌を遂げようとしていた。




