暴走する鉄塊
大村信一郎の死が残した深い亀裂は、日本社会から「信じる」という感情を奪い去った。
政府への不信と、独立派への恐怖。そのどちらにも振り切れることなく、人々は疑心暗鬼という沼の中でただ息を潜めていた。日常は続いている。だが、その足元は、何かによっていつ崩れるか分からないほどに、脆弱になっていた。
その「何か」は、夕暮れの喧騒を切り裂いて、唐突に姿を現した。
首都圏の巨大ターミナル駅。帰宅ラッシュに備え、車庫へ向かう回送列車が、ホームの端で静かに出発を待っていた。運転士はまだ乗っていない。そのはずだった。 突如、列車は短い警笛と共に、ゆっくりと動き出した。ホームにいた駅員が、何事かと訝しげに車両に駆け寄る。だが、列車のスピードは徐々に増していく。運転席は無人。駅員の制止を振り切るように、列車は不気味なほどの静けさで本線へと合流していった。
この異常事態は、瞬く間に全国に中継された。 テレビ画面には、ヘリコプターから撮影された、まるで悪意を持った生き物のように疾走する無人列車の映像が映し出される。駅のホームで電車を待つ人々が、警笛を鳴らすこともなく猛スピードで通過していく不気味な鉄塊に、悲鳴を上げて逃げ惑う。それは、もはやテロというよりも、超常的な怪異に近い、理解を超えた恐怖だった。日常そのものが、突如として牙を剥いたのだ。
パニックが首都圏を麻痺させる中、有馬政権の対応は迅速だった。白洲二郎の指揮のもと、新国鉄と治安維持部隊が連携。暴走列車を郊外の貨物専用線へと誘導し、衝突用の緩衝材に突っ込ませて強制的に停止させる。その一部始終は「英雄的」な活躍として、繰り返しテレビで放送された。
国民が安堵のため息をつく間もなく、白洲二郎が再び緊急会見を開く。その顔には、国家の危機に直面した責任者としての、深い苦悩が刻まれているように見えた。
「……今回の暴走事件について、現在、調査チームが全力を挙げて原因を究明しております」 白洲は、そこで一度言葉を切った。会見場が、水を打ったように静まり返る。 「しかし、現段階では……車両システムへの外部からの侵入、あるいは内部からの不正な操作といった明確な痕跡は、まだ確認されておりません。現在も調査は継続中ですが、極めて不可解な事案であると言わざるを得ません」
その言葉は、日本中を新たな恐怖で満たした。 犯人が捕まらないままの列車転覆事件。自殺として処理された、疑惑だらけの総裁の死。そして今度は、原因さえ分からない無人列車の暴走。 この発表は、国論の二分に、奇妙な形で終止符を打った。
もはや、政府の陰謀を疑う声も、独立派を糾弾する声も、その勢いを失った。なぜなら、自分たちの日常が、得体の知れない脅威に晒されているという、あまりにも生々しい恐怖の前では、どんな理屈も無力だったからだ。
「誰でもいい。何でもいい。この狂った日常を終わらせてくれ」
多くの人々がそう感じていた。
◆
隠れ家でその放送を見ていたユウトは、身が震えるのを感じていた。今度は誰かを犯人に仕立て上げることさえしなかった。ただ、得体の知れない「現象」から漏れ出した影が、国民の精神を静かに追い詰めていく。
飯田が、吐き捨てるように言った。 「……やられたな。奴は、国民から『考える』という行為そのものを奪った。次々と不可解な事件が起きる。これでは、国民は誰を憎んでいいかさえ分からない。ただ、この訳の分からない恐怖から救ってくれる、強力な指導者を求めるしかなくなる」
犯人は「調査中」。だからこそ、恐怖は完成した。 有馬政権は、この国民的な総意を背景に、治安維持法のさらなる強化と、「社会秩序を乱すすべての不安定要素」を排除するための最終作戦への移行を宣言する。その対象には、もちろん独立派も含まれていた。
それは、もはや「狩り」ではなかった。 国民の圧倒的な渇望を得た、国家による「浄化」の始まりだった。




