轢断と分断
その朝、日本中が再び震撼した。 早朝、都内を走る常磐線の緩やかにカーブした線路上で、轢断された男の死体が発見されたのだ。
身元はすぐに判明した。 新日本国有鉄道総裁、大村信一郎。
現場には、彼の名刺が散乱していた。
独立派の隠れ家で、佐藤ユウトが監視していたニュースフィードにその第一報が飛び込んできた。彼は、その見出しに息を呑んだ。 「……飯田さん!」 ユウトの叫び声に、仮眠をとっていた飯田が跳ね起きる。画面に映し出された大村の顔写真を見て、飯田は唇を噛み締めた。 「……間に合わなかったか」
第一報を伝えたニュースは、慎重な言葉を選んでいた。だが、彼が数日前から行方不明になっていたこと、そして官邸主導の人員整理に最後まで抵抗していたという噂は、すでに公然の秘密だった。人々の心には、瞬時に二つの相反する疑念が浮かんだ。
政府系のメディアは、待っていたかのように一つの物語を提示した。大村総裁は、自らの組織内に多数のテロリスト協力者を抱えていた責任に苦悩し、精神的に追い詰められた末に、自ら命を絶ったのだ、と。それは、己の正義と組織への忠誠の間で引き裂かれた、一人の男の悲劇的な結末として描かれた。
だが、その物語は、翌日発売された一冊の週刊誌によって、根底から覆される。 『大村総裁は殺された! 独自の監察医レポート入手!』 記事によれば、大村の遺体には、列車に轢かれる前に体内の血液がほとんど残っていなかったという。つまり、彼はどこか別の場所で殺害され血を抜かれた上で、死後に線路上へ運ばれた可能性が高い、と。
この記事は、国中に燻っていた政府への不信感に、一気に火をつけた。 この記事を追うように、今度は警視庁内部の亀裂がリークという形で露呈する。殺人や強盗といった凶悪犯罪を担当し、物証を絶対視する捜査一課は、「現場の状況と遺留品から、他殺と断定できる直接的証拠はない」として、自殺の線で慎重に捜査を進めている。一方で、贈収賄や選挙違反といった知能犯を扱い、事件の背景や動機を重視する捜査二課は、これを高度な政治的背景を持つ謀殺事件と見て、独自の捜査を開始したというのだ。
ネット上では、この警察内部の対立を巡り、巨大な論争が巻き起こる。「一課は現場しか見ていない!」「二課こそが真実に迫っている!」「いや、二課は政治に忖度しすぎだ」。数週間前、ユウトを犯人と決めつけていた人々でさえ、あまりに出来過ぎた筋書きと、それを追う警察の混乱ぶりに、強い疑念を抱き始めたのだ。大村を知る鉄道関係者たちが、「あんなに責任感の強い人が、自ら命を絶つはずがない」と口を揃えて証言したことも、謀殺説に拍車をかけた。
国論は、完全に二分された。 「独立派が、裏切った大村を粛清したのか」 「いや、政府が、抵抗する大村を見せしめに殺したのだ」 役務センターの食堂や配給の列では、人々が声を潜めて議論を交わし、互いを不審の目で見つめ合った。誰もが隣人を信じられなくなり、社会全体がパラノイアに侵されていく。
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隠れ家で、ユウトはその報道を固唾をのんで見守っていた。 「どういうことだ……? なぜ政府は、自分たちに疑いがかかるような、こんな雑な殺し方を……。警察でさえ、意見が割れているじゃないか」 隣で腕を組んでいた飯田が、静かに答えた。 「雑じゃない。むしろ、これ以上なく計算され尽くした一手だ」 飯田は、混乱するユウトに説明した。 「有馬の目的は、俺たちをただのテロリストにすることじゃない。この国から、『信じる』という感情そのものを奪うことだ。政府も信じられない、独立派も信じられない。そして、真実を明らかにするはずの警察さえも信じられない。そうなれば、国民はどうなる? 頼れるのは、目に見える『秩序』と『管理』だけになる。つまり、奴が作り上げたシステムそのものだ。この国論の分断こそが、奴の本当の狙いなのだよ」
ユウトは、その言葉に戦慄した。有馬は、物理的な支配だけでなく、国民の絆という精神そのものを破壊して、秩序を与えて支配しようとしているのだ。
そして、事件から一ヶ月後。国民の関心が最高潮に達した中で、警視庁による最終的な捜査結果の合同発表会見が開かれた。会見場には、老練な捜査一課長と、常に冷静沈着で知られる捜査二課長が並んで座っていた。その光景自体が、異例中の異例だった。
先に口を開いたのは、捜査一課長だった。その顔には、深い疲労が刻まれている。 「……本件に関する、あらゆる物証を科学的に捜査してまいりましたが、他殺と断定できる明確な証拠を発見するには至りませんでした。よって、捜査一課としましては……本件を、故人が強い精神的重圧から自ら命を絶ったものと判断いたします」
記者席がざわめく。だが、その声が大きくなる前に、隣の捜査二課長がマイクの前に身を乗り出した。 「……しかし、当捜査二課の捜査におきましては、故人の周辺で、極めて不透明な金の流れや、複数の未確認人物との接触が確認されております。これらの状況証拠は、故人が何らかの巨大な圧力、あるいは謀略に巻き込まれていた可能性を強く示唆するものです。我々は、本件を『自殺と断定するには、あまりに不審な点が多い事件』として、引き続き情報収集を継続する所存です」
会見場は、大混乱に陥った。警察組織が、公式の場で見解の相違を露呈したのだ。 記者席から、怒号のような質問が飛ぶ。「結局、自殺なのか他殺なのか!」「政治的な圧力がかかったのか!」。だが、二人の課長はそれ以上何も語らず、深々と頭を下げて会見場を後にした。
公式には、「捜査一課は自殺と判断、二課は捜査継続」という、前代未聞の形で事件は幕を閉じた。 だが、誰もその結論に納得していなかった。政府の謀略だと信じる者はこれを「一課の醜い隠蔽と、二課の最後の抵抗」と賞賛し、独立派の犯行だと信じる者は「シンパを逮捕しないのは警察の怠慢だ」と非難した。
真実は、再び闇に葬られた。 だが、大村という新国鉄の重鎮は社会から消え、独立派への疑惑は晴れないまま国民の心に残り、そして政府や警察への不信感という、修復不可能な分断がこの国を覆い尽くした。それは、人々から正義と真実を見極める力そのものを奪い去りつつあった。
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東京の首相官邸地下深く。奥田怜奈は、無数のモニターが並ぶ部屋で、ただ一人コンソールに向かっていた。メインスクリーンに映し出されていたのは、国内の生産状況を示すグラフではない。
『全ユニットに対する、誤差0.001秒以内での、同時フェーズシフト実行シミュレーション』
画面には、成功確率を示す「99.999%」という数字だけが、青白く輝いていた。




