新国鉄の人員整理
湿ったコンクリートと黴の匂いが立ち込める地下の一室。佐藤ユウトは、ランプの揺らめく光の中で、壁に寄りかかっていた。数時間前までの死の恐怖が、まだ手足の震えとなって残っている。
目の前には、飯田熊治が立っていた。彼が銃口を向けることはなかったが、その目はユウトの心の奥底まで見透かすように鋭く、一切の油断も隙も感じさせなかった。 「……よく、ここまでたどり着いた」 飯田は、静かに、しかし有無を言わせぬ響きを持つ声で言った。 「なぜ、お前が犯人にされた? あの夜、お前は一体、何を見た? 全て話せ。詳細にな」
それは、尋問というよりは、現場からの第一報を求める指揮官の口調だった。ユウトは、震える唇を必死に動かし、あの夜の全てを語り始めた。緑色の作業服を着た男たち。彼らの線路の解体作業。 「……そして、声が」ユウトは、思い出すように眉をひそめた。「会話の中に、明らかに日本語ではない、外国語が混じっていました」
「……ボス。つまり、実行犯には日本人じゃないものも居た、ということですか」 飯田の隣に控えていた側近の男が、目を見開いた。 「ああ」飯田は静かに頷いた。「俺たちの組織に、外国人はいない」 彼の頭の中では、全ての点が繋がり始めていた。これは、単なる独立派への罪のなすりつけではない。東亜連邦が直接関与する、高度な謀略作戦だ。
「奴らの目的は、俺たちへの支持を失墜させることだけじゃないのかもしれない」飯田は、低い声で言った。 飯田は、ユウトに向き直った。その目は、もはやユウトを評価するものではなく、仲間として認識する者の目に変わっていた。 お前は重要な『生きた証拠』だ。これから、お前には俺たちと共に行動してもらう」 それは、選択肢のない命令だった。ユウトは、自分がさらに深い闇へと足を踏み入れてしまったことを悟った。
それから、数週間が過ぎた。 ユウトが犯人として指名手配されたことで、治安維持部隊による独立派の掃討作戦は、かつてないほど激化していた。街には、ユウトの顔写真と共に、「テロリストの逮捕に協力を」という文言が躍るポスターが至る所に貼られ、密告には高額の懸賞金がかけられた。
独立派は、全国に張り巡らされた監視網と、密告に怯える国民の目から逃れるため、地下へ、そしてさらに深い闇へと潜航を続けていた。これまで協力してくれていたシンパの何人かは、恐怖に耐えきれず連絡を絶った。いくつかの隠れ家は摘発され、仲間が何人も捕らえられた。彼らの世界は、日に日に狭く、息苦しくなっていた。
◆
2039年の晩秋、新日本国有鉄道の全支社に向けて、唐突に官邸直轄の通達が下された。
その組織は、この国の絶望から生まれたものだった。南海トラフ巨大地震は、国土だけでなく、民間インフラという神話をも粉々に打ち砕いた。日本の大動脈たる太平洋ベルト地帯の鉄道網は物理的に寸断され、JRグループ各社は事実上経営破綻。前政権である菊池内閣は、国家の生命線を維持するため、唯一の選択肢に踏み切った。『経綸計画』導入の布石として、そして国内物流を国家管理下に置くという大義名分のもと、JR各社と主要私鉄を強制的に統合・再国営化したのだ。こうして発足したのが「新日本国有鉄道」――現場の職員たちから、自嘲を込めて「新国鉄」と呼ばれる巨大組織だった。それは、かつての国鉄よりも、国家による完全管理を目的とした、より強権的な怪物でもあった。
通達の名目は『震災復興の最適化及び、生産性向上のための経営合理化計画』。その美しい言葉の下で提示されたのは、数千人規模の、大規模な「人員整理」リストだった。
新国鉄総裁である大村信一郎は、そのリストを見て絶句した。そこに並んでいたのは、非効率な若手や問題のある職員ではない。長年の経験を持つベテラン機関士、保線の神様とまで呼ばれた熟練技術者、そして何より、現場の職員たちから人望の厚い、各部署のリーダー格の男たちばかりだった。
大村には、リストに隠された真の意図が、全く理解できなかった。これは合理化ではない。経営の観点から見れば、組織の屋台骨を自ら引き抜く自殺行為に等しい。あくまで技術者としての立場から、この国のインフラを支えることに人生を捧げてきた。その彼から見て、このリストはあまりにも非論理的で、狂気の沙汰にしか思えなかった。
彼は抵抗した。官邸に乗り込み、白洲二郎と直接談判する。「彼らは、新国鉄の背骨です。彼らを失えば、日本の鉄道は安全を維持できなくなる! これは経営判断ではなく、組織の破壊です!」
だが、白洲は表情一つ変えずに言い放った。 「大村さん、時代は変わったのです。もはや鉄道の安全は、熟練の経験ではなく、我々が導入するAI監視システムが担保する。あなたの言う『背骨』は、予測不能なヒューマンエラーやサボタージュを誘発する、システム上のバグに過ぎない。我々が構築する完璧な兵站網に、人間の『経験』や『矜持や主義』といった不確定要素は不要なのです。我々のシミュレーションによれば、これらの人間が介在することによって、鉄道の効率が大きく低下することが判明している」
大村は、自らが信じてきた鉄道員としての誇りと、安全運行という絶対的な使命、その全てを否定された。もし、この命令を拒否すれば、彼自身が「非効率な旧時代の抵抗勢力」として即座に解任され、後任が機械的にこの狂気のリストを実行するだけだ。だが、命令に従えば、彼は自らの手で、生涯をかけて守ってきた鉄道の魂を殺すことになる。
彼は、出口のない迷路に追い詰められていた。
◆
独立派の隠れ家で、ユウトと飯田もこのニュースを知る。飯田の元には、新国鉄内部のシンパから、悲痛な連絡が次々と入っていた。「俺たちもリストに入った」「大村総裁は、俺たちのことを何も分かっていない官僚だと思っていたが、今、たった一人で官邸と戦ってくれているらしい」。
この合理化計画は、新国鉄内の独立派シンパを一掃することを目的としているのは明らかだった。
飯田は、自分たちの生命線が、じわじわと締め付けられていくのを感じていた。大村は仲間ではない。だが、有馬の非情な計画の前に立ちはだかる、唯一の防波堤だった。
「……警告を送る。大村は、自分が何と戦っているのかを理解していない。相手は、ただの官僚じゃない。殺されるぞ」
だが、すでに大村の周辺は治安維持部隊によって厳重に監視されており、独立派が接触する術はなかった。
追い詰められた大村は、最後の手段に出る。これは政治闘争ではない。技術者として、この国のインフラを崩壊させる狂気の計画を、世に問わなければならない。彼は、粛清リストのコピーと、AI監視システムの危険性を告発する内部資料を、懇意にしていた週刊誌の記者に密かに渡そうと試みた。
だが、その約束の夜。大村は、記者が待つ場所に現れることはなかった。




