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国民基盤役務制度  作者: 喰ったねこ
占領期編
10/41

始まり

2039年、晩夏だというのに酷暑の日々が続いていた。


有馬政権成立以降、東亜連邦が震災復興の為として送り込んだ役務者の多くは、そのまま居残って、占領が既成事実化していたし、有馬政権はそうした現状を更に押し進めて一部の基地を安全保障の為として東亜連邦に貸与するなど、日本の主権を売り渡しているようにも見えた。そのような強引ともいえる政策を推し進めるために築かれた国家秩序維持法という「鉄の秩序」によって、季節とは真逆に日本社会の表面は氷のように固く凍らせていた。


その「鉄の秩序」の目に見える実行部隊の一つは、皮肉にも、かつて国を守る組織であったはずの自衛隊だった。


少子化で既に人員も充足せず、独立国家の軍隊という矜持きょうじを失った彼らは、事実上東亜連邦の指揮下にある。国内の治安維持と復興作業を担う、連邦の便利な「下請け部隊」――それが、現状だった。


最高指揮官としての有馬は、その彼らに、あえてデモの鎮圧や不満分子の摘発といった「汚れ仕事」を押し付けた。 日本人が日本人を取り締まるという、最も陰惨な統治の道具。その非情なまでの「合理性」は、東亜連邦の有馬への信頼を確固たるものにする一方で、国民の憎悪を、ただ一人、彼自身へと集約させていった。


有馬がもたらした氷の下では、人々の不満と怒りが熱い潮流となって渦を巻いていたのだ。


その潮流が向かう先は、ただ一つ。政府が「テロリスト」と断罪し、そして、その堕落した自衛隊が「同胞」として追う男、飯田熊治だった。


事件は、横浜の役務センターで起きた。食料配給の遅延に苛立った群衆が、治安維持部隊と小競り合いになったのだ。警棒が振り下ろされ、老婆の悲鳴が上がったその瞬間、どこからともなく声が上がった。 「飯田さんなら、俺たちを見捨てない!」 その声は、瞬く間に怒号の合唱へと変わった。「独立派万歳!」という叫びと共に、建物の屋上から一枚の垂り幕が下ろされる。そこには、翼を広げた鷲を模した「独立派」の紋章が描かれていた。群衆は、その紋章に向かって歓声を上げ、拳を突き上げる。怯んだ治安維持部隊が後ずさる中、群衆は配給物資を手にすることなく、秩序を保ったまま誇らしげに解散していった。彼らはパンよりも、尊厳を選んだのだ。


佐藤ユウトは、その光景を遠巻きに見ていた。彼の心にも、熱い何かが込み上げてくる。飯田はテロリストなどではない。この息の詰まる社会で、人々の最後の希望となっているのだ。 だが、その熱は、すぐに冷たい現実によって冷やされた。ユウトは、騒ぎが大きくなる前にその場を離れようと、足早に群衆から離れた。面倒事はごめんだった。彼はもう、理想を追いかけるような若者ではない。ただ、明日を無事に生き延びたいだけの、中年男なのだ。


家路を急ぐ彼の耳に、興奮冷めやらぬ様子の若い男たちの会話が飛び込んできた。 「…おい、見たかよ、さっきの! 最高だったぜ!」 「ああ。だが、聞いたか? 鷲の紋章の、本当の話」 「本当の話?」 「噂だがな」男は、辺りを窺うように声を潜めた。「本当に追い詰められた人間が、最後の助けを求める時の…おまじないみたいなもんだ。夜中に、誰にも見られずに、街のどこかにある紋章の下にチョークで小さな円を描くんだと。そうすりゃ、鷲の目が見つけてくれる、ってな」


その囁きを聞いた瞬間、ユウトの背筋を悪寒が走った。彼は、聞こえないふりをして、さらに歩を速める。


「馬鹿言え」別の男が、嘲るように鼻を鳴らした。「そんなのは罠に決まってる。治安維持部隊が、俺たちみたいな不満分子を捕まえるために撒いた餌だ。そんなもんに引っかかったら、翌日にはどこの収容所にいるかも分からんぞ」


その言葉に、ユウトは心の中で激しく同意した。 ――そうだ、罠だ。そんな都市伝説、信じる奴は馬鹿だ。


先ほどまで胸に灯っていた熱いものは、完全に消え去っていた。代わりに、関わってはいけないものに近づきすぎてしまったという、冷たい恐怖が心を支配する。彼は俯き、誰の目にも留まらないよう、雑踏の中へと消えていった。 そんな危険な賭けに手を出すくらいなら、今の不満だらけの日常の方が、まだずっとマシだ。



その夜。日本橋室町の、国籍不明の企業名が並ぶ古びた雑居ビルの一室。安物の輸入煙草の匂いが染みついたその古びた部屋には、意外な事に官房副長官・白洲二郎の姿があった。そこは、東亜連邦の息のかかった協力者たちが、密かに情報を交換するために使う、表向きは東亜産業株式会社(貿易コンサルタント)という民間会社を装ったアジトだった。


彼の前には、上質な、しかし何の個性もない濃紺のスーツを着た男が一人、直立していた。その佇まいだけが、男がただのビジネスマンではないことを示唆していた。


部屋の中央にあるテーブルには、一枚の電子マップだけが青白い光を放っている。日本の大動脈である東海道本線。その山深い一点が、静かに赤く点滅していた。


「義憤は、強い燃料だ」白洲は、マップから目を離さずに言った。「だが、場所を間違えて爆発すれば、火をつけた者だけが焼け爛れる。彼らには分かっていない、安っぽい義憤で騒いだところで何も解決しないどころか、その行動そのものが邪魔だという事が」


スーツの男は、何も答えなかった。ただ、主人の言葉を待っている。


「今、必要なのは、物語だ」白洲は続けた。「独立派の思想に染まった、哀れなシンパが暴走したという物語がな。犯行は、粗雑でいい。いや、粗雑でなくてはならない。プロの仕事ではない。感情に任せた、後先を考えない破壊工作。だが、誰がやったかは、決して分かってはならない。そう、真犯人は決して見つからない。だが、犯人は存在する。そういう状況」


「承知しております」男が、初めて低い声を発した。「舞台に上がる役者の中から、最も都合の良い『主役』を選び出し、物語を完成させます」


「忘れるな。我々の真の敵は、独立派ではない。『非効率』と『遅延』だ。一本の列車が止まれば、十の工場が止まる。生産の歯車を狂わせる、いかなる砂粒も許容しない。分かったな」 白洲は、満足げに頷くと、踵を返した。「では、始めろ」 彼は、一度も振り返ることなく部屋を出ていく。扉が重い音を立てて閉まると、部屋にはスーツの男と、赤く点滅する光だけが残された。



その数日後、ユウトは珍しい役務を割り当てられた。深夜、東海道本線の沿線で、老朽化した信号ケーブルの交換作業を手伝うというものだ。山深い渓谷に響くのは、虫の声と、時折吹く風の音だけ。月明かりの元、手元の小型ライトが頼りの作業現場には、数人の役務隊員と、彼らの動きを赤い単眼レンズで追う、一体の自律型監視ロボットがいるだけだった。


作業が中盤に差しかかった頃、生理現象には逆らえず、ユウトは腹の具合が悪いと監視ロボットに作業の一時中断を報告し、少し離れた茂みに分け入った。用を足し、現場に戻ろうとした、その時だった。


月光に照らされた線路上で、数人の男たちが何かの作業をしているのが見えた。役務隊員の制服とも違う、深い緑色の作業服。彼らはバールで犬釘をこじ開け、大型のスパナで継ぎ目板のボルトを抜いていた。だが、その動きには無駄がなく、奇妙なほどに連携が取れていた。


噂に聞く独立派の鉄道破壊工作か。ユウトは恐怖に竦み、身を隠して彼らの動きを目で追った。


風に乗って、彼らの囁き声が届いた。ほとんどは日本語だったが、その中に、明らかに日本語ではない、言葉も混じっていた。


その瞬間、ユウトの全身を悪寒が貫いた。 彼らは、独立派ではない。


見つかってはいけない。この世に存在しないものを見てしまったのだと、本能が告げていた。後ずさったユウトの足が、足元の枯れ枝を踏み、パキリと乾いた音を立てた。


「誰だ!」


男たちの一人が、鋭く振り返る。ユウトは、声も出せずにその場から逃げ出した。 「待て!」 背後から、サイレンサーで抑制された発砲音が数発響き、銃弾がすぐそばの木を抉る。だが、遠くから夜行列車の警笛が聞こえていた。 「発砲するな! 撤収するぞ!」 リーダー格の男の声が響く。


背後で、甲高い金属の衝撃音と、それに続く地を揺るがす轟音が夜の闇に響いた。ユウトは振り返らなかった。彼はただ、闇雲に山中を駆け抜けた。心臓が破裂しそうなほど脈打ち、ぜえぜえと喘ぐような呼吸が漏れる。若い頃とは違う。だが、恐怖だけが彼を突き動かしていた。木々の間を抜け、獣道を転がるように下り、彼は夜の闇へと消えていった。

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