設計図
この小説はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
夜光虫の死骸のように、無数の光が散らばる街を、俺は窓から見下ろしていた。佐藤ユウト、35歳。フリーランスのウェブデザイナー。この六畳一間のアパートが、俺の城であり、仕事場であり、そして世界の全てだった。カレンダーは令和7年、2025年9月12日を示している。時刻は、間もなく深夜二時になろうとしていた。
今日の仕事を終えたのは、一時間ほど前だ。クライアントからの度重なる修正指示に耐え抜き、ようやく納品した案件の報酬は、税金と経費を引けば、手元に数万円しか残らない。来月の家賃を払えるだろうか。その前に、来月の仕事はあるのだろうか。そんな終わりのない不安が、希硫酸のようにじわじわと胃を焼く感覚には、もう慣れてしまった。
これが、俺たちの世代の「普通」だった。
テレビをつければ、アナウンサーが神妙な顔で「異次元の少子化対策」の失敗と、過去最高を更新し続ける国の借金について語っている。スマートフォンを開けば、SNSにはキラキラとした富裕層の日常か、あるいは俺と同じように未来への不満をぶちまける匿名の呟きが溢れている。俺たちが子供の頃に夢見ていた21世紀とは、似ても似つかない灰色の日々。誰もが、この国が緩やかに、しかし確実に沈みゆく船であることを知っていた。ただ、自分だけは沈没の瞬間まで、濡れずに済む方法を探しているだけだ。
千葉の実家に住む両親は、とうに70歳を過ぎた。それでも父は警備員、母はスーパーの品出しのパートを続けている。彼らの口癖は「年金だけじゃ暮らしていけないからな」だった。電話をかけるたびに、母は「ユウトはまだ結婚しないのか」「ちゃんと正社員になって、安定しなきゃだめよ」と、呪文のように繰り返す。その言葉が、悪意のない善意から来ていると知っているだけに、余計に胸が抉られる。安定。その言葉が、この国で最も価値のない幻想になったことを、母はまだ知らない。
やり場のない虚しさを抱えたまま、俺はいつものように、古びたノートパソコンでアンダーグラウンドな匿名掲示板を開いた。社会への不満、政治への罵詈雑言、真偽不明のゴシップ。便所の落書きと揶揄されるこの場所だけが、今の俺が唯一、社会と繋がっていると感じられる空間だった。
いくつものスレッドを無意味にスクロールしていく。その中で、ふと、一つの書き込みが目に留まった。
『【投下】この国の本当の未来。笑うか、絶望するかは、お前ら次第』
書き込みには、一つのファイルへのリンクが書かれていた。
『【極秘】新時代の社会基盤に関する基本構想.pdf』
どうせ手の込んだ釣りだろう。あるいは、どこかの大学生が作った、意識の高いレポートか何かだ。普段なら無視して通り過ぎる。だが、その夜の俺は、何故かそのファイルに強く惹きつけられた。疲労と、ほんの少しの好奇心。俺は、まるで禁断の果実に手を伸ばすように、ダウンロードのボタンをクリックした。
◆
【極秘】
資料 2-1
令和7年8月06日
内閣官房 全世代型社会保障構築本部
『新時代の社会基盤に関する基本構想』
―「国民基盤役務制度」の創設について―
1.はじめに(現状認識と課題)
我が国は、少子高齢化という構造的な課題に加え、それに伴う国民負担率の継続的な増嵩、そして現役世代を中心とした将来への深刻な閉塞感という、三つの国難に直面している。従来の社会保障制度は、高度経済成長期の社会モデルを前提としており、現状との乖離は限界に達している。
現行制度の延長線上にある対症療法的な改革では、この複合的危機を乗り越えることは不可能である。今、我々に求められるのは、社会のあり方を根本から再設計し、次世代に希望を引き継ぐための、抜本的かつ統合的な改革を断行することである。
本構想は、その中核をなすものとして、社会保障の理念を『給付から就労へ』と転換する新制度「国民基盤役務制度」を創設することを提言するものである。
2.新制度の理念と概要
理念:『給付から就労へ(Work, not Welfare)』
国家が国民に保障するのは、現金給付ではなく「尊厳ある働く機会」であることを基本原則とする。全国民が社会の支え手となる「一億総活躍社会」を真に実現する。
概要:全ての国民に対し、生涯を通じて一定期間、国が提供する公的な役務に就く、任意に行使可能な権利を保障する。これにより、失業・貧困問題の抜本的解決と、社会全体の生産性向上を企図する。
3.制度設計の詳細
本制度は、国民のライフステージに応じて最適化された、二段階のハイブリッドモデルを採用する。
▼アクティブ期(18歳~69歳)
利用上限:生涯を通じて合計10年間(120ヶ月)
基礎月給(可処分所得):22万円
制度の目的:
①一時的セーフティネット(失業、傷病、介護等)
②キャリア再構築の足場(学び直し、起業準備)
▼シニア期(70歳~)
利用上限:無制限
基礎月給(可処分所得):15万円
制度の目的:
①年金代替機能
②社会参加の維持と健康寿命の延伸
<例外規定(最終セーフティネット)>
重度の障がい、深刻な疾病、常時介護等の事由により就労が著しく困難な国民に対しては、専門委員会による厳格な審査を経て、従来の生活扶助に相当する現金給付を行う。
4.財源について
本制度の財源は、以下の三本柱を一体的に改革することで確保する。
(1)徹底した行政改革:国家・地方公務員の総人件費を大幅に圧縮する。新規採用の抑制、早期退職の推進、及び行政DXの断行により、行政組織を企画・管理機能に特化させ、現場業務の多くを役務者が担う体制を構築する。
(2)社会保障制度の抜本的再編:年金、雇用保険、生活保護等の既存制度を本制度に段階的に統合・代替する。これにより、各種社会保険料という形での国民負担を構造的に軽減する。
(3)聖域なき歳出改革:効果の低い補助金や公共事業を徹底的に見直し、捻出した財源を振り向ける。
5.期待される効果
本制度の導入により、以下の効果が期待される。
(1)国民の根源的な不安の解消と活力の向上:
国家による就労保障が、失業や老後への過度な不安を取り除き、国民に精神的な安定をもたらす。これにより、起業や結婚・出産といった前向きな挑戦が促され、社会全体の活力が向上する。
(2)国民負担率の上昇トレンドの反転:
社会保険料負担の構造的軽減と、労働参加率向上による国民所得の増大により、右肩上がりを続けてきた国民負担率を安定、ひいては低減させることを目指す。
(3)公民連携によるシナジー創出と社会の強靭化:
民間と公共の間で人材が絶えず循環する社会を構築する。民間の効率的な発想が行政サービスを改善し、公共的な視点を持った人材が民間経済を豊かにすることで、社会全体の生産性と強靭性を高める。
6.結論
「国民基盤役務制度」は、単なる社会保障制度改革に留まるものではない。それは、『自己責任』を前提とした社会から、『国家的保障』を基盤とする社会へのパラダイムシフトであり、我が国の未来を左右する新たな社会契約の締結に他ならない。
本構想は、現在我々が直面する『負のスパイラル』を断ち切り、国民一人ひとりが希望を持って人生を設計できる『正のスパイラル』を創出するための、具体的かつ唯一の設計図であると確信する。
政府は、国民的議論を喚起しつつも、国家百年の計として、本改革を不退転の決意で断行すべきである。
以上
【付属資料1】
資料 2-2
令和7年8月06日
内閣官房 全世代型社会保障構築本部
「国民基盤役務制度」導入に伴う財政影響シミュレーション(概要)
1. シミュレーションの基本前提
本シミュレーションは、制度導入から10年が経過し、旧制度からの移行が一定程度進展した安定稼働年度(令和17年度を想定)における単年度の財政影響を試算するものである。各種数値は、内閣府、財務省、及び総務省の既存統計を基に、本部の責任において将来推計を行ったフェルミ推定値を含む。
制度利用者総数: 約500万人
社会情勢、労働市場の流動化、及び高齢者の就労意欲の高まりを勘案し、稼働年齢人口(18~75歳)の約5.5%が常時制度を利用すると推定。
内訳:
アクティブ期(18~69歳)利用者: 約200万人
シニア期(70歳~)利用者: 約300万人
2. 歳出の見積
本制度の運営に伴う主な歳出は、役務者への給与支払い及び制度の管理運営費である。
(1) 役務者給与総額: 約10.7兆円
アクティブ期給与: 200万人 × 22万円/月 × 12ヶ月 = 5.3兆円
シニア期給与: 300万人 × 15万円/月 × 12ヶ月 = 5.4兆円
(2) 制度管理運営費: 約1.3兆円
全国の「国民役務センター」の運営、AIマッチングシステムの維持管理、役務者向け研修プログラムの提供等にかかる経費。給与総額の約12%と見積もる。
【歳出合計】: (1) + (2) = 約12.0兆円
3. 財源(歳入効果)の見積
本制度の財源は、既存の歳出構造を抜本的に改革することで捻出する。
(1) 社会保障制度の再編効果: 約15.0兆円
年金・雇用保険の新規加入停止と給付の将来的な代替、及び稼働年齢層に対する生活保護の原則廃止により、関連する社会保険料収入と国庫負担分を財源に転換。
(注:既存受給者への支払いは継続するため、効果は段階的に発現)
(2) 行政改革による人件費削減効果: 約8.0兆円
国家・地方公務員の総人件費(約28兆円)のうち、段階的な自然減と業務のデジタル化・役務者への移管により、約3割弱の削減を見込む。
(3) 聖域なき歳出改革による財源捻出: 約3.0兆円
政策効果の低い各種補助金、及び陳腐化した公共事業等を精査・見直し、歳出を削減。
【財源合計】: (1) + (2) + (3) = 約26.0兆円
4. 財政収支シミュレーションと考察
上記の試算に基づくと、本制度導入後の単年度財政収支は以下の通りとなる。
約26.0兆円(財源合計) - 約12.0兆円(歳出合計) = 14.0兆円 の財政改善効果
【考察】
本シミュレーションは、「国民基盤役務制度」が、それ自体の運営コストを賄うに留まらず、年間約14兆円規模の財政改善効果を生み出す可能性を示唆している。
この改善効果は、我が国の喫緊の課題である財政健全化(国債償還)への寄与はもとより、防衛費の増額、あるいは科学技術振興や教育といった未来への投資に振り向けることを可能とする、極めて大きな戦略的意義を持つ。
結論として、本制度は社会保障改革であると同時に、我が国の財政構造を根本から立て直し、国家の持続可能性を確保するための、最も現実的かつ効果的な改革案であると評価できる。
以上
◆
読み終えた時、俺は自分が息をするのも忘れていたことに気づいた。
心臓が、警告のように速鐘を打っている。なんだ、これは。手の込んだ悪戯にしては、あまりにも首尾一貫している。付属資料の財政シミュレーションに至っては、現役官僚が作ったとしか思えないほどの生々しさだった。
もし、これが本物だとしたら?
俺は震える手で、もう一度、ディスプレイに映る文字をなぞった。
『アクティブ期 基礎月給(可処分所得):22万円』
今の俺の月収は、良い時で20万、悪い時は10万にも満たない。安定した22万円の収入。それが10年間、国によって保障される。
『シニア期 利用上限:無制限』
70歳を過ぎても、警備員の制服を着て夜勤に立つ父の姿が目に浮かんだ。月15万でも、安定した仕事があるなら、父はあんなに無理をしなくてもいいのかもしれない。
『国民の根源的な不安の解消と活力の向上』
不安。そうだ、俺たちは常に不安だった。失業への不安。老後への不安。病気になることへの不安。この国は、いつからこんなにも、生きることが罰ゲームのような場所になってしまったのだろう。
だが、その特効薬の代償は、あまりにも大きい。
年金、生活保護、雇用保険の廃止。そして、公務員の大幅削減。
想像するだけで、凄まじい社会の軋轢が目に浮かぶ。テレビの向こうで激怒する老人たち。デモ行進をする公務員組合。既得権益という名の岩盤に、この計画は衝突して、粉々に砕け散るのが関の山だろう。だからこそ、これは『極秘』文書なのだ。
それでも。
それでも、その先にあるのが、誰もが「やり直せる」社会なのだとしたら。
失敗を恐れずに、新しいことに挑戦できる社会。親の介護でキャリアを諦めなくてもいい社会。年老いて、子供に迷惑をかける心配をしなくてもいい社会。
『自己責任』を前提とした社会から、『国家的保障』を基盤とする社会へ――。
その一文が、俺の心のど真ん中に突き刺さっていた。
俺たちは、いつから自己責任という言葉で、見捨てられるようになったのだろう。努力が足りないから。甘えているから。そう言われ続け、いつしか、助けを求めることさえ忘れてしまっていた。
俺は、窓の外で白み始めた東京の空を見上げた。
巨大な都市が、ゆっくりと目を覚まそうとしている。
この文書が本物なら、今、この国の水面下で、とてつもない地殻変動が始まろうとしている。
それは、破滅か、それとも再生か。
俺たちの世代は、その歴史的な瞬間の、当事者になるのかもしれない。
夜明けの光が、埃っぽい部屋に差し込んでいた。それは、あまりにも眩しくて、俺は思わず目を細めた。
少子高齢化ネタで、かなり前に考えていた話です。