夏の記憶をたよりに
春の終わり、博物館の庭でクローバーが風に揺れていた。
分館の一角、「記憶のスタンプ室」は今日も静かに人を迎えていた。
年配の夫婦、若い親子、ひとりでふらりと訪れる学生。
誰もが小さなスタンプ帳を手に取り、それぞれの思い出に印を残していく。
そしてその最後のページには、用意されたメッセージの空欄に、それぞれが好きな言葉を書くようになっていた。
「またここに来よう」
「ぼくの初めての夏」
「だれかに“すき”をわたしたい」
ひとつ、またひとつと、無数の“ささやかな願い”が、そこに並んでいた。
直人はその日、いつものように展示室をゆっくり歩いたあと、裏庭のベンチに腰を下ろした。
手には、あのスタンプ帳。
表紙はだいぶ傷んでいたが、触れると、不思議とまだ温かかった。
春風が吹き抜け、どこからか子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
虫あみを振るう音、地面をのぞきこむ小さな姿。
ふと目を閉じると、遠くの木陰に、網をかついだ少年が立っている気がした。
──だいちゃん。
もう、声は聞こえない。姿もはっきりとは見えない。
でも、それでよかった。
(あの夏は、ちゃんとここに残ってる。お前がくれた“好き”は、もうたくさんの誰かに渡ったよ)
直人はそっとスタンプ帳を閉じた。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
そう言って立ち上がり、ベンチの上にスタンプ帳を一冊、そっと置いた。
もう自分が持っていなくても、だれかが見つけて、また新しいページを開いてくれる。
──それで、十分だった。
数日後。ある少年が、分館のベンチでそのスタンプ帳を見つけた。
パラパラとめくった最後のページに、こう書いてあった。
「君がこのページを開いてくれたなら、もうそれだけでうれしい。
今、どこかで小さな羽音が聞こえたら、それは“すき”の声かもしれない。
――なおと より」
少年はそのページに、自分の名前を書き足した。
そして、新しい“好き”を探しに、ゆっくり林の奥へと歩いていった。
春はやがて夏へと変わる。
ひみつの林には、今年もまた、たくさんの虫たちが羽を広げる。
その羽音の中に、小さな笑い声と、だれかの想いが、確かに生きている。
物語は終わらない。
けれど今は、そっとページを閉じよう。
光る風の中で、静かに、やさしく。
──ありがとう、だいちゃん。
そして、さようなら。