表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

未来の林へ②

【4】

ゴールデンウィーク明けのある朝。

博物館の中庭では、直人が小さなテントを立て、青いビニールシートの上に虫あみと図鑑、拡大鏡を並べていた。

「“動く教室”って、本当にやるんですか?」

新しく博物館に入った若いスタッフが、やや不安げに尋ねた。

「やるよ。外に出ないと見えないこともある。教室は建物の中だけじゃない」

直人の表情は、かつての少年そのものだった。

________________________________________

その週末、「移動昆虫教室」の初回が始まった。

行き先は、直人とだいちゃんが駆け回った、あの“ひみつの林”。

バスに揺られて集まったのは、小学生と保護者あわせて30名ほど。

春の新緑が光を反射し、葉の隙間から蝶やカミキリムシが顔を出す。

直人は子どもたちの先頭を歩きながら、笑い声のまじる林の中に、何度もふと立ち止まった。

「ここで昔、オオムラサキを見つけたんだ」

「この倒木の裏に、でっかいヒラタクワガタがいたんだぞ」

子どもたちは夢中で後に続き、保護者たちはどこか懐かしそうな顔をしていた。

________________________________________

午後になり、陽が少し傾き始めたころ。

子どもたちが捕まえた虫を並べて観察しながら、直人はひとりの男の子に声をかけた。

「きみ、虫とりどうだった?」

男の子は答えなかった。じっと、虫かごの中のコガネムシを見つめていた。

「……この虫、光ってるね」

「そうだね。ときどき、心の中の何かに似てると思わない?」

男の子は、顔を上げてポツリと言った。

「おじいちゃんが死んじゃってさ。でも、虫を見てたら、おじいちゃんの話を思い出したんだ」

直人は、その子の頭をそっとなでた。

「それは、すごく大事なことだ。きっと、おじいちゃんも、今ここにいるよ」

________________________________________

夕方。帰りのバスの中で、子どもたちが口々に「また来たい!」「あの虫の名前、覚えたよ!」とはしゃぐ声が響いていた。

そして、直人は誰にも言わずに、最後にもう一度だけ林に戻った。

静まり返った林の奥。空気は昼間よりひんやりしていて、木々の間から、茜色の光が差し込んでいた。

直人は、あの標識の前に立ち、スタンプ帳を開く。

そして、最後のページに小さく書き込んだ。

「202X年 初夏:ひみつの林、開放」

________________________________________

その夜、博物館の展示室では、新しいコーナーが準備されていた。

タイトルはこうだ。

「未来の林へ――“好き”がつなぐ虫と記憶の旅」

展示の入り口には、誰でも記入できるノートが置かれていた。

「虫を好きになった日」

「だれかと虫とりをした思い出」

「これからの“ひみつの林”」

ページは毎日、少しずつ埋まっていった。

________________________________________

ある晩。閉館後の静かな展示室にて、直人はひとりノートをめくっていた。

すると、どこにも署名のない、けれど見覚えのある文字があった。

「なおとへ

お前が“好き”を届けた子は、もう次の子に渡してるみたいだぞ。

虫とり、終わらせるなよ?

――だいちゃん」

思わず笑いながら、直人は展示室の天井を見上げた。

風も、声もない夜なのに──確かにそこには、夏のはじまりの気配があった。

________________________________________

“好き”は命と似ている。目に見えなくても、誰かに残る。

そして、それを受け取った子がまた、自分だけの林を歩きはじめる。

直人の旅も、まだ続いている。


【5】

それは、ひとつの夏の終わりと、もうひとつの夏のはじまりだった。

新学期がはじまり、博物館にはいつも以上にたくさんの子どもたちが訪れていた。校外学習の定番になった直人の「動く昆虫教室」は、今や年齢も地域も超えて広がりを見せていた。

ある日、直人のもとに、ふたりの男の子がやってきた。

背の高い子が虫かごを手に持ち、小柄な子は小さなノートをぎゅっと胸に抱えていた。

「先生、こいつ、虫は好きなんだけど触れないんだって!」

「うるさい! でも……先生、見てるのは好きなんです」

直人は笑ってしゃがみ込むと、ふたりに言った。

「虫は、さわれなくてもいい。まずは“見たい”って気持ちがあるだけで、それはもう仲間だよ」

「仲間?」

「うん。虫のこと、ちゃんと見てる人は、虫にとっても“見られてる”ってことだよ。だから、きっと向こうも安心してくれる」

男の子は、少し黙ってから言った。

「……じゃあ、ぼく、仲間になれるように、毎日ノート書く」

「いいね。それ、きっと君だけの“図鑑”になるよ」

________________________________________

その夜、直人は久しぶりにスタンプ帳を開いた。

ページの間から、1枚の古い写真がひらりと落ちた。

だいちゃんとふたり、満面の笑顔で虫あみを振りかざしている、あの夏の一枚だった。

写真の裏には、鉛筆でこう書かれていた。

「202X年にまたここで会おうな」

──未来の約束を、過去の少年が残していた。

(202X年……今じゃないか)

心の奥が、静かにざわめいた。

________________________________________

秋の気配が混じる風の中、直人は“ひみつの林”にひとり足を運んだ。

陽が傾きかけた時間、あの標識の前に立ち止まる。

「……来るわけないか。いや、もしかしたら──」

そう思って、ふと目をこらすと、林の奥に、ひとつだけ小さな光が瞬いていた。

一匹の蛍だった。

季節外れのその光は、まるでだいちゃんの「また来たぞ」と言っているようだった。

直人はその場に腰を下ろし、静かに語りかける。

「なあ、だいちゃん……

お前の“好き”はさ、今、いろんな子どもたちの中で生きてる。

泣き虫の子も、虫がこわい子も、いつかみんな、好きになるって信じてる。

だから、俺、もう少しこっちでやるよ」

蛍は、ゆらりと一度だけ羽を震わせて、空へと消えていった。

________________________________________

博物館に戻った直人は、展示室の片隅に、小さな木箱を置いた。

その中には、スタンプ帳の複製と、子どもたちの“好き”を集めたノートが収められている。

箱のふたには、こう彫られていた。

「君だけの“ひみつの林”を探しに行こう。」

来館者が気まぐれにふたを開けて、そっと思い出を書き留める。

それはもう、ひとつの標本箱ではなく、記憶が育つ森の入口だった。

________________________________________

そして、ある晴れた午後。

直人は展示室で、新しくやってきた少女に話しかけられた。

「先生……虫って、どこまで飛んでいけるの?」

直人は答えた。

「どこまでも。心の中に“好き”があれば、きっと、どこまでも飛んでいけるよ」

少女はうなずき、虫かごを手に、出口の方へと走っていった。

その背中を見送った直人の耳に、かすかに声が聞こえた気がした。

──なおと。お前、ほんとに、終わらせないんだな。

直人はうなずく。

「まだ、旅の途中だよ。だいちゃん」

そして今日もまた、“誰かの夏”がはじまっていく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ