未来の林へ②
【4】
ゴールデンウィーク明けのある朝。
博物館の中庭では、直人が小さなテントを立て、青いビニールシートの上に虫あみと図鑑、拡大鏡を並べていた。
「“動く教室”って、本当にやるんですか?」
新しく博物館に入った若いスタッフが、やや不安げに尋ねた。
「やるよ。外に出ないと見えないこともある。教室は建物の中だけじゃない」
直人の表情は、かつての少年そのものだった。
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その週末、「移動昆虫教室」の初回が始まった。
行き先は、直人とだいちゃんが駆け回った、あの“ひみつの林”。
バスに揺られて集まったのは、小学生と保護者あわせて30名ほど。
春の新緑が光を反射し、葉の隙間から蝶やカミキリムシが顔を出す。
直人は子どもたちの先頭を歩きながら、笑い声のまじる林の中に、何度もふと立ち止まった。
「ここで昔、オオムラサキを見つけたんだ」
「この倒木の裏に、でっかいヒラタクワガタがいたんだぞ」
子どもたちは夢中で後に続き、保護者たちはどこか懐かしそうな顔をしていた。
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午後になり、陽が少し傾き始めたころ。
子どもたちが捕まえた虫を並べて観察しながら、直人はひとりの男の子に声をかけた。
「きみ、虫とりどうだった?」
男の子は答えなかった。じっと、虫かごの中のコガネムシを見つめていた。
「……この虫、光ってるね」
「そうだね。ときどき、心の中の何かに似てると思わない?」
男の子は、顔を上げてポツリと言った。
「おじいちゃんが死んじゃってさ。でも、虫を見てたら、おじいちゃんの話を思い出したんだ」
直人は、その子の頭をそっとなでた。
「それは、すごく大事なことだ。きっと、おじいちゃんも、今ここにいるよ」
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夕方。帰りのバスの中で、子どもたちが口々に「また来たい!」「あの虫の名前、覚えたよ!」とはしゃぐ声が響いていた。
そして、直人は誰にも言わずに、最後にもう一度だけ林に戻った。
静まり返った林の奥。空気は昼間よりひんやりしていて、木々の間から、茜色の光が差し込んでいた。
直人は、あの標識の前に立ち、スタンプ帳を開く。
そして、最後のページに小さく書き込んだ。
「202X年 初夏:ひみつの林、開放」
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その夜、博物館の展示室では、新しいコーナーが準備されていた。
タイトルはこうだ。
「未来の林へ――“好き”がつなぐ虫と記憶の旅」
展示の入り口には、誰でも記入できるノートが置かれていた。
「虫を好きになった日」
「だれかと虫とりをした思い出」
「これからの“ひみつの林”」
ページは毎日、少しずつ埋まっていった。
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ある晩。閉館後の静かな展示室にて、直人はひとりノートをめくっていた。
すると、どこにも署名のない、けれど見覚えのある文字があった。
「なおとへ
お前が“好き”を届けた子は、もう次の子に渡してるみたいだぞ。
虫とり、終わらせるなよ?
――だいちゃん」
思わず笑いながら、直人は展示室の天井を見上げた。
風も、声もない夜なのに──確かにそこには、夏のはじまりの気配があった。
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“好き”は命と似ている。目に見えなくても、誰かに残る。
そして、それを受け取った子がまた、自分だけの林を歩きはじめる。
直人の旅も、まだ続いている。
【5】
それは、ひとつの夏の終わりと、もうひとつの夏のはじまりだった。
新学期がはじまり、博物館にはいつも以上にたくさんの子どもたちが訪れていた。校外学習の定番になった直人の「動く昆虫教室」は、今や年齢も地域も超えて広がりを見せていた。
ある日、直人のもとに、ふたりの男の子がやってきた。
背の高い子が虫かごを手に持ち、小柄な子は小さなノートをぎゅっと胸に抱えていた。
「先生、こいつ、虫は好きなんだけど触れないんだって!」
「うるさい! でも……先生、見てるのは好きなんです」
直人は笑ってしゃがみ込むと、ふたりに言った。
「虫は、さわれなくてもいい。まずは“見たい”って気持ちがあるだけで、それはもう仲間だよ」
「仲間?」
「うん。虫のこと、ちゃんと見てる人は、虫にとっても“見られてる”ってことだよ。だから、きっと向こうも安心してくれる」
男の子は、少し黙ってから言った。
「……じゃあ、ぼく、仲間になれるように、毎日ノート書く」
「いいね。それ、きっと君だけの“図鑑”になるよ」
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その夜、直人は久しぶりにスタンプ帳を開いた。
ページの間から、1枚の古い写真がひらりと落ちた。
だいちゃんとふたり、満面の笑顔で虫あみを振りかざしている、あの夏の一枚だった。
写真の裏には、鉛筆でこう書かれていた。
「202X年にまたここで会おうな」
──未来の約束を、過去の少年が残していた。
(202X年……今じゃないか)
心の奥が、静かにざわめいた。
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秋の気配が混じる風の中、直人は“ひみつの林”にひとり足を運んだ。
陽が傾きかけた時間、あの標識の前に立ち止まる。
「……来るわけないか。いや、もしかしたら──」
そう思って、ふと目をこらすと、林の奥に、ひとつだけ小さな光が瞬いていた。
一匹の蛍だった。
季節外れのその光は、まるでだいちゃんの「また来たぞ」と言っているようだった。
直人はその場に腰を下ろし、静かに語りかける。
「なあ、だいちゃん……
お前の“好き”はさ、今、いろんな子どもたちの中で生きてる。
泣き虫の子も、虫がこわい子も、いつかみんな、好きになるって信じてる。
だから、俺、もう少しこっちでやるよ」
蛍は、ゆらりと一度だけ羽を震わせて、空へと消えていった。
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博物館に戻った直人は、展示室の片隅に、小さな木箱を置いた。
その中には、スタンプ帳の複製と、子どもたちの“好き”を集めたノートが収められている。
箱のふたには、こう彫られていた。
「君だけの“ひみつの林”を探しに行こう。」
来館者が気まぐれにふたを開けて、そっと思い出を書き留める。
それはもう、ひとつの標本箱ではなく、記憶が育つ森の入口だった。
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そして、ある晴れた午後。
直人は展示室で、新しくやってきた少女に話しかけられた。
「先生……虫って、どこまで飛んでいけるの?」
直人は答えた。
「どこまでも。心の中に“好き”があれば、きっと、どこまでも飛んでいけるよ」
少女はうなずき、虫かごを手に、出口の方へと走っていった。
その背中を見送った直人の耳に、かすかに声が聞こえた気がした。
──なおと。お前、ほんとに、終わらせないんだな。
直人はうなずく。
「まだ、旅の途中だよ。だいちゃん」
そして今日もまた、“誰かの夏”がはじまっていく。