未来の林へ①
【1】
夏が終わりかけた頃、直人のもとに、一本の電話がかかってきた。
それは、かつて自分が勤めていた大学の、昆虫学研究室からだった。
「榊原先生、今度の公開講座で特別講演をお願いできませんか? “昆虫と記憶の関係”というテーマなんですが……先生の話を聞きたいという声が多くて」
一瞬、戸惑いが胸をよぎった。
あの頃の自分は、どこか冷めていた。昆虫を“対象”として見ていたにすぎなかった。
だが今の自分は──虫の中に、自分や他人の人生を見ている。
「……喜んで、お受けします」
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講演当日。大学の大講義室は、学生だけでなく、地域の親子連れも招かれ、思いのほか賑やかだった。
直人は、壇上に立つと、まず一枚のスライドを映し出した。
それは、一匹のオオムラサキの写真だった。
「このチョウは、ぼくの“人生を変えた昆虫”です。見た人にとってはただの標本かもしれない。けれど、ぼくにはこの羽の一枚一枚に、匂いがあり、声があり、誰かの笑い声が聞こえるんです」
静まり返る会場に、遠くで蝉の声が重なって聞こえた気がした。
「虫は、人の記憶をつなぎます。とくに子ども時代に出会った昆虫は、一生残る“記憶の標本”になることがあるんです」
スライドが切り替わり、子どもたちが夢中で虫を追いかけている写真が映る。
「ぼくは、いま“昆虫教室”を通して、未来のだれかの記憶を作るお手伝いをしています。もしかすると、それは学問としては不完全かもしれません。でも、心に残る“何か”はきっとある。それを信じています」
最後に、スタンプ帳の画像を映した。
「これは、ぼくの“生きている標本箱”です。出会った子どもたちの記録が、ここに全部ある。中には、昔亡くなった友だちと再会した記憶まであるんです。信じてもらえるかわかりませんが……」
その瞬間、スライドの端に、なぜか“もう一冊のスタンプ帳”の影が映ったように見えた。
(……だいちゃん?)
だれかが、そっとページをめくった音がした気がした。
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講演が終わったあと、ひとりの学生がそっと近づいてきた。
「先生……ぼく、小さいころ虫が怖かったんです。でも今日、初めて、虫が“誰かの記憶を運んでる”って知って……。なんか、少しだけ好きになれそうです」
直人は、にっこりと笑った。
「それで十分。きっと、君にも“好き”の芽がある。育てるかどうかは、自分次第だよ」
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その晩。帰りの電車の窓に映った自分の顔は、どこか子どものころに似ていた。
「なあ、だいちゃん……聞こえるか? 俺さ、あのときのお前との約束、まだ続けてるよ」
耳を澄ませたその瞬間、電車の窓に、小さな手のひらが触れたように見えた。
反射か、記憶か、それとも奇跡か──
直人は静かに目を閉じた。
記憶の標本箱には、今日もまた、新しい“羽音”が加えられていく。
そして、それを誰かがまた、未来で開く日が来るだろう。
【2】
季節は巡り、山の木々が赤や黄色に染まり始めたころ。
直人はふとした思いつきで、幼い頃過ごした故郷の町を再び訪れてみることにした。
駅前の商店街は静まり返っていたが、どこか懐かしいぬくもりがあった。自転車で走った道、だいちゃんと虫網を持って駆けた坂道、どこも少しずつ姿を変えながら、今もそこにあった。
そして、例の“ひみつの林”の入り口に立ったとき、直人の胸が音を立てて高鳴った。
(ここは……変わってない)
風に揺れる葉の音、乾いた土の匂い。全身に蘇る、あの夏の記憶。
ゆっくりと足を踏み入れると、林の奥にぽっかりと陽の差す小さな空間があった。かつて、ふたりが昆虫を追いかけ、夢を語り合った“約束の場所”。
その中心に、なぜか古びた木の標識が立っていた。
風化して読みにくくなっていたが、そこにはこう彫られていた。
「だいちゃんと、なおとの ひみつのばしょ」
直人はしゃがみこみ、思わず笑った。
本当に……あのときのままだ。
ポケットから、いつも持ち歩いていたスタンプ帳を取り出し、そっと開いた。最終ページの空白に、鉛筆でゆっくり書き加える。
「202X年 秋――約束の林にて」
その瞬間、どこかで枝が揺れ、小さな羽音が聞こえた。
ふと見上げると、木の枝に止まった一匹のオオムラサキが、夕日に透けて羽を広げていた。
(……来てくれたのか)
直人はそっと立ち上がり、帽子をとって微笑む。
「だいちゃん。ありがとうな。お前がいてくれたから、今の俺がいる」
風が吹き、落ち葉が舞った。その中に、どこか懐かしい声が混じっていた気がした。
「なおと。まだ虫とり、終わってないだろ?」
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帰り道、直人は何度も振り返った。
けれど林は、もう静かに沈み、元の静寂を取り戻していた。
それでも、彼の中には確かにあの時間が刻まれていた。
少年だったころの心と、虫たちと過ごした奇跡の季節。
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その冬。直人の博物館では、新しい特別展が開催された。
タイトルは――
「ひみつの林の標本箱 ― 昆虫と、記憶と、約束と。」
展示の最奥には、小さな木の標識が再現されていた。
その隣には、スタンプ帳のレプリカ。
そして一枚の写真。満面の笑顔で網をかまえる二人の少年。
その展示を見たある来館者が、そっとノートにこう記した。
「ぼくも、だれかとこんな夏をすごしたい。
大人になっても、きっと忘れたくないです。」
直人はその文字を読み、目を閉じた。
そうしてまた、次の教室の準備に取りかかった。
彼の“虫とり”は、まだ終わらない。
【3】
春。
山桜が咲きはじめ、街全体が淡い色に包まれる頃。直人のもとに、ある一通の封書が届いた。差出人は、小学5年生の頃からずっと彼の昆虫教室に参加していた少女・水城遥だった。
彼女はかつて「図鑑をつくる人になりたい」と言った少女だ。
封筒の中には、一枚の手紙と、手づくりの昆虫図鑑の試作ページが入っていた。
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直人先生へ
わたし、今春から東京の大学に行きます。
昆虫の研究ができる学部に合格しました。
最初に先生の教室でオオムラサキを見たときのこと、今でも覚えています。
あの光が、わたしの中の“最初の夏”でした。
先生みたいに、誰かの心に残る虫の先生になります。
だから見ていてくださいね。
ひみつの林、いつか案内してください。
水城遥
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読み終わった直人は、手紙をそっと胸にしまい、しばらく動けなかった。
胸の奥で何かがじんわりと広がっていく。
これは誇りなのか、寂しさなのか、それとも──かつての自分に対する返歌のようなものか。
「……見てるよ、遥」
呟く声は静かで、けれど確かな響きをもっていた。
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数日後、直人は博物館の地下保管室で、ひとつの標本箱を開けていた。
それは、かつて自分とだいちゃんが初めて一緒に作った、記念すべき箱。
中には古びたオオムラサキと、ふたりの名前が小さく記されたカードが添えられていた。
彼はそこに、そっと小さなラベルを加えた。
「202X年 春:第一の教え子、旅立ち」
これでいい。
だいちゃんとの夏が、誰かの未来になった証。
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春の展示が始まり、来館者が再びにぎわう博物館の片隅に、小さな案内板が新しく設けられた。
《あなたの“ひみつの林”を探そう。》
その案内に誘われるように、今日もまた小さな子どもたちが虫かごを抱えてやってくる。
中には、何かを思い出したように涙ぐむ大人の姿もある。
記憶はめぐり、命は受け継がれ、“好き”はつながっていく。
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直人は、その日も教室の準備をしていた。
新しく届いた虫あみを整えながら、心の中でつぶやく。
「だいちゃん……あのときの“約束”、俺はまだ守ってるよ。
きっとこれからも、ずっと──」
窓の外に、ふわりと一匹の蝶が舞った。
淡い光のような羽音を残して、春風に乗って消えていった。