つながる夏 そして記憶の標本
それから一年が経った。
榊原直人の「昆虫教室」は、博物館の一角から始まった小さな取り組みだった。だが今では、県内の学校はもちろん、全国の教育関連団体や企業からも講師として招かれるようになった。その数、年間150回以上。
不思議なうわさがあった。
──この昆虫教室を聞いた大人は、忘れていた大切な何かを思い出す。
──参加した子どもたちは、まるで“思い出を作るように”夢中で動き出す。
都市のビル街の学童でも、山あいの分校でも、昆虫の話を始めると、子どもたちの目が光る。標本ではなく、命の鼓動を語る直人の話は、教室を一瞬にして夏の野原に変えてしまう。
「見てごらん。この羽の模様は、どの個体にも少しずつ違うんだ。まるで、人間の指紋みたいにね」
「先生、ぼくも虫博士になれるかな?」
そんな声を聞くたびに、直人は思い出す。自分にも、同じ言葉をかけてくれた人がいたことを。
──だいちゃん。
あの日の林、あの日の夏。もう一度戻れたあの時間。あの奇跡が、彼の人生を、静かに動かし続けている。
博物館でも、彼の存在は大きくなっていた。副館長として、展示やイベントを統括する一方で、自ら子どもたちと向き合う時間を何よりも大切にしていた。
ある日、ひとりの少女が言った。
「先生、虫ってね、さわれないけど好きなの。だって、わたし、誰かと虫とりしたことないから。ここで初めて、楽しいって思えたの」
直人は微笑みながら、彼女の手にそっと小さな虫かごを渡した。
「じゃあ、今日が“はじめての思い出”だね。大事にしていこう」
子どもたちの言葉が、いつも彼に教えてくれる。自分がなぜ昆虫を愛したのか、なぜ“好き”という気持ちを手放さなかったのか。
そして、その“好き”は、巡って、また誰かの未来へ灯る。
――ある夜、直人は書斎でふと目を上げた。棚には、あの古びたスタンプ帳が並んでいる。そっと開くと、最後のページに、小さな書き足しがあった。
「なおとへ。お前はちゃんと、約束を守ってるな。
だいちゃんより」
インクのにじみ、筆跡。きっと、風にまぎれてやって来たのだろう。あの日の“声”が、またそばにある気がした。
直人は笑った。まだまだ、夏は終わらない。
そしてまた、ひとつ新しい昆虫教室の案内状を手に取る。
どこかの子どもが、自分の“ひみつの林”を見つけるために、待っている。
【2】
春の終わり、風に揺れる草の香りが変わり始めたころ。直人のもとに、一通の手紙が届いた。
差出人は、小さな離島の小学校の教員だった。児童はわずか5人。けれど「自然と虫が大好きな子ばかりです。ぜひ来ていただけませんか」という、素朴でまっすぐなお願いだった。
「行こうか、久しぶりに……」
直人は手帳を閉じ、少し笑った。どんなに忙しくても、“初めて出会う夏”を待っている子どもたちがいる限り、自分の役目は変わらない。
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離島の学校は、海と森に囲まれた、まるで童話のような場所だった。
校庭の裏はすぐ林につながっていて、蝶が舞い、カマキリが草の陰からひょっこり顔を出す。虫たちの息づかいが、そこかしこにあった。
「今日の先生は、昆虫博士なんだって!」
そう言って迎えてくれたのは、少し生意気そうな男の子だった。だいちゃんに、どこか面影が似ていた。
「先生って、虫の言葉わかるの? オレ、虫としゃべってみたいんだよね」
「わかるときもあるよ。静かに、ちゃんと見てればね」
そう言って見せたのは、小さなカナブンが葉の上を歩く様子。子どもたちは目を丸くして見つめ、やがて一人ひとりが虫たちの動きを観察し、名前を覚え、いつのまにか「好き」という言葉が口からこぼれるようになっていた。
その日の帰り、例の男の子がポツリと言った。
「ねえ先生。虫って、なんでそんなにきれいなんだろうね?」
直人は答えなかった。ただ、ふっと目を細めて空を見上げた。
──あのとき、だいちゃんも同じことを言った。
「なあ直人、虫って、宝石みたいじゃね?」
夕焼けに包まれた校舎の裏で、直人は一人、心の中でつぶやいた。
(お前の声、また聞こえたよ。俺、まだこっちでやることがあるみたいだ)
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その夜、宿の縁側で、直人は虫かごに灯るほのかな光を眺めていた。
あの頃の夏と、今の夏が、重なり合うような静かな夜だった。
そしてふと思う。
「いつか、自分の教え子たちの中から、“次の博士”が生まれるかもしれない」
それは、終わりではなく、始まり。
ひとつの“好き”は、こうして受け継がれていく。
命の鼓動とともに。草の匂いと、羽音とともに。
そしてまた、ひとつの夏が来る。
【3】
離島での昆虫教室が終わった翌週、直人は博物館の講堂で、ひさびさの大規模授業を控えていた。
当日は100人を超える親子連れが訪れ、講堂は子どもたちの声と熱気で満ちていた。教室が始まる前、直人は一人、舞台袖から客席を見つめていた。
「これだけの“未来の虫博士”が、今日も来てくれたんだな」
そして始まった昆虫教室。
スライドではなく、直人は木の箱を抱えて登壇した。
箱の中には、今日のために準備した、羽化したばかりのオオムラサキがいた。
「このチョウは、ぼくが子どものころに“初めて名前を知った虫”です。見るたびに、だれかと虫とりをした思い出がよみがえります。今日は、みんなにもそんな“ひとつの出会い”をしてほしいと思って、連れてきました」
息をのむような静けさが広がり、教室が始まった。
──その日、直人の話に耳を傾けていたある少女がいた。
彼女は授業のあと、まっすぐに直人のもとへやって来た。
「先生、オオムラサキって、いつか絶滅しちゃうこともあるの?」
直人は、一瞬だけ言葉を探して、そして静かにうなずいた。
「そうかもしれない。けれど、忘れなければ、誰かが守ろうとする。覚えてる人がいれば、未来に残せることはたくさんあるんだよ」
少女はしばらく黙って、それから言った。
「わたし、図鑑をつくる人になる。虫のこと、たくさんの人に伝えられるように」
その言葉に、直人はなぜか胸が熱くなった。
(きっと、あのときの自分も、こんな気持ちだったんだ)
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夜、博物館のテラスで風にあたりながら、直人は空を見上げる。
星の合間に、蛍がひとつふわりと光を残して通り過ぎた。
それを見送るように、そっとポケットからスタンプ帳を取り出す。
今では、全国各地の子どもたちとの思い出が、ぎゅうぎゅうに貼り込まれていた。
最後のページのすみに、空白が一つだけ残っている。
(この夏の記録は、まだ書かない。きっと、まだ“何か”がある気がするから)
そう思いながらページを閉じたその瞬間、どこからか風にのって、かすかな声が聞こえた気がした。
「なおと、虫とり、まだ終わってないぞ」
直人は目を細め、笑った。
(ああ、わかってるよ、だいちゃん。まだまだ、これからだ)
そして、またひとつの夏が、静かに始まろうとしていた