標本箱の中に、時間がひとつ紛れていた
夕暮れのにじむ薄紅色の空。どこからともなく風鈴の音がして、湿った風が草の匂いを運んできた。夏休みの夕方、蝉しぐれの合間に、ぽつりぽつりと蛍の灯が浮かぶ時間だった。
榊原直人は、かつて大学で昆虫学を学び、郊外の昆虫博物館に勤めていた。今は誰にも行き先を告げず、古びた列車に揺られていた。
「なんで、俺……こんな場所に?」
降り立った無人駅は、記憶の片隅にあるようで、どこか違っていた。線路脇の雑草が伸び、誰もいないはずの駅前には、小さな少年の影がひとつ──
「なおと……だよな?」
振り向くと、そこには幼い頃の姿そのままの“だいちゃん”が立っていた。数十年は昔の、夏の記憶の中の少年。
「ほら、早くしないと、カブトムシ逃げちまうぞ!」
気がつけば虫かごを持たされ、直人は林の中を駆けていた。涼しい木漏れ日の中、網を振る音。心の奥底にしまい込んでいた、昆虫への純粋な興味と、だいちゃんの笑顔。それが、次第に蘇ってくる。
(……あの時、オオムラサキを追いかけてた。あの瞬間、世界がきらきらして見えたんだ)
誰もいないはずの、子供のころの夏休み。なぜ彼は今ここにいるのか? なぜ、だいちゃんは変わらぬ姿でそこにいるのか? 時間は止まったようで、静かに流れている。
直人は思い出す。昆虫が好きになった理由。命を追いかけた、あのひと夏。
そして──帰らねばならない場所へ、そっと、歩き出す。
林の中は、昼間の暑さを吸いこんだまま、しっとりとした空気に包まれていた。葉の裏から飛び出すコガネムシ、木の幹に張りついたノコギリクワガタ、そして──蝉の羽音が、背中越しに響く。
「なおと、これ見てみろよ!」
だいちゃんが差し出した手のひらには、黒く光るオオセンチコガネ。土の匂いをまとったその昆虫を見た瞬間、直人の胸の奥で何かがはじけた。
(ああ、これだ。この感じ……)
子どものころ、虫たちとふれあった一瞬一瞬が、心に刻み込まれていた。名前も知らない甲虫を図鑑で調べ、日が暮れても夢中で野原を駆け回った日々。だいちゃんと交わした「虫博士になれよ」っていう、あの何気ない約束。
だけど──
「どうして……お前は、変わらないんだ?」
直人は問いかける。だいちゃんは、笑って答えなかった。ただ、虫あみを肩にのせ、森の奥へ歩いていく。
「早く行こうぜ。ヒメオオクワが出る時間だ」
空はすっかり藍色に染まり、ひとつ、またひとつと蛍の光が増えていく。気がつけば、夕方だったはずの空が、いつのまにか満天の星を抱いていた。
直人はふと、胸ポケットの中に手を入れる。そこには、今朝まで使っていた博物館の入館カードが入っていたはず──だが、ない。代わりに入っていたのは、紙でできた虫のスタンプ帳。幼い字で「だいちゃんと こんちゅう さいしゅう」と書いてある。
(これは……いつの? いや、そもそも、これは夢なのか?)
風が吹く。蛍が舞い上がる。だいちゃんがこちらを振り返り、にっと笑う。
「なおとが虫を好きになった理由、思い出したか?」
その瞬間、世界がふっと揺らいだ。蝉の声が遠のき、蛍の灯が流星のように消え、視界が白く、やわらかく、溶けていく。
──目を開けると、見慣れた天井だった。白い蛍光灯。机の上には、標本箱と、途中まで書かれた昆虫展示の解説パネル。
彼は、職場の研究室に戻っていた。机の端には、汚れたままのスタンプ帳が、そっと置かれていた。
そして、心の奥に、少年の声が小さく残っていた。
「また一緒に、虫とり行こうな」
直人は笑った。胸の奥で、何かが静かに、確かに灯った。
その日から、直人の時間は、少しだけ違う流れ方をしはじめた。
朝、研究室の窓を開けると、外の景色がいつもより色濃く見えた。木々の緑は濃く、風に揺れる草の音がやけに耳に残った。昆虫の標本にも、命の名残のような、かすかな温度を感じる。
スタンプ帳は、今も机の片隅にある。茶色くすんだ表紙には、消えかけた赤鉛筆の丸印。裏表紙には、ひとこと、「だいちゃんと、ひみつの林」と走り書きされていた。
(あの夜は夢だったのか。あるいは……)
直人は迷いながらも、再び昆虫たちと向き合うようになった。展示パネルの文章も、ただの解説ではなく、彼自身の言葉で語られるようになっていた。
──ある日、小さな兄妹が博物館を訪れた。
標本をじっと見つめていた男の子が、突然聞いた。
「なんで虫が好きなの?」
直人は答えにつまった。けれど、不思議とあの夜の光景が脳裏に浮かんでくる。
網をふる少年の声、笑いながら駆け出す姿、そして、木々の間をぬけて飛んでいく一匹のオオムラサキ。
「うーん……理由は、たぶん昔、一緒に虫を追いかけた友だちがいたからかな」
そう答えると、少年は笑った。「ぼくも虫博士になる!」と言って、標本の前に張りつくように見入っていた。
直人は、少し空を見上げる。ガラス越しの空に、ふと光る影──蛍がひとつ、舞い落ちたように錯覚する。
(だいちゃん……また、いつか会える気がする)
子どもの頃の夏は、きっと終わらない。どこかに続いている。
そう信じるようになったのは、きっと、あのひと夏をもう一度過ごしたからだ。
そして今日もまた、小さな命たちと向き合う直人の背中には、あの時と同じやわらかな風が吹いていた。
それから数週間が経った。季節は立秋を過ぎ、朝晩にかすかな涼しさが混じり始めた。
ある日、直人は館長に呼び出され、古い収蔵庫の整理を頼まれた。博物館の地下、誰も近寄らないような場所。長年手つかずだった標本や資料の山を前に、懐かしさと埃が入り混じった空気が漂う。
「ここ、子どもの頃に……来た気がするな」
収蔵棚の奥にあった木箱を開けたとき、直人は息をのんだ。そこにあったのは、見覚えのある昆虫の標本だった。少し色褪せたオオムラサキ。ラベルには、こう記されていた。
採集者:だいちゃん・なおと
採集日:1989年8月14日
採集場所:ひみつの林
手が震えた。これは紛れもなく、あの夏、だいちゃんとふたりで追いかけたオオムラサキ。その日付は、夢でタイムスリップした「昨日」だった。
(やっぱり……夢じゃなかった)
思い出が、現実に繋がっていた。時間は巻き戻せないけれど、記憶は形になって残ることがある。虫の羽根の繊細な模様のように、確かにそこに。
直人は、標本箱を丁寧に拭き、新しい解説パネルを作った。タイトルはこうした。
「ひみつの林のオオムラサキ」――ひと夏の出会いと昆虫採集の記憶
展示室の一角に、その標本は静かに置かれた。訪れる子どもたちが、そこに足を止めるたび、直人は胸の中でだいちゃんに話しかける。
(お前のこと、ちゃんとここに置いといたよ。今度は、誰かの心に、残してやってくれ)
夏は終わり、蝉の声が遠のいていく。だが、“好き”という気持ちは、ひとりからひとりへと静かに渡されていく。まるで、蛍の灯火のように。
その光は、今日も誰かの中で、そっと点る。
秋が深まるにつれて、昆虫博物館の来館者は少しずつ減っていった。落ち葉を踏む音が響く中、直人は来館者のノートに目を通すのが日課になっていた。
ある日、その中に一枚だけ、見慣れない紙が挟まっていた。
それは、子どもの走り書きだった。
「オオムラサキ、とてもきれいでした。
ぼくも、いつか友だちと虫とりに行きたいです。
だいちゃん、ありがとう。」
目を疑った。
「だいちゃん」――この名前を知っているはずの人間は、あの“夜”を除けば、存在しないはずだった。
直人はその手紙を、そっと胸ポケットにしまった。
秋の光の中で、ふと空を見上げる。木漏れ日の間に、舞うように降る一枚の葉。まるでそれが、彼に何かを伝えにきたかのように思えた。
その夜、博物館の資料室に残っていた直人の元に、一本の電話が入った。
市内の学校からだった。理科の特別授業に、直人を「虫の先生」として招きたいという。
「……俺で、いいんですか?」
「はい。小学生の子たちが『昆虫の話をしてる人に会いたい』って。『虫のこと、すっごく好きそう』って言ってました。」
電話の向こうの声は明るかったが、直人はしばらく答えられなかった。
(ああ、これが回っていくってことか……)
翌週、直人は小学校の教室に立っていた。少し緊張しながら、「虫の好きなところってどこだと思う?」と問いかけると、子どもたちの手が次々と挙がった。
「カブトムシのつのがかっこいい!」
「ちょうちょの羽がきらきらしてる!」
「セミ、すっごくうるさいけど、なんか好き!」
その光景の中で、直人は一人の男の子に気づく。
大きな虫かごを持ち、じっとこちらを見ていた少年。その目が、どこかだいちゃんに似ていた。
「きみ、虫は好き?」
「うん。ぼく、大きくなったら虫の博物館つくる!」
直人は笑った。その声には、少年だったころの自分と、だいちゃんの声が重なっていた。
(ありがとう、だいちゃん。お前がくれた“好き”は、まだ誰かの中で、生きてる)
静かに、季節が移ろっていく。だが、「ひみつの林」で交わされた小さな約束は、確かに続いていた。
それは、未来の誰かがまた虫を追いかける日のために。
それは、ひとつの“好き”が、何度でも芽吹いていくために。
──直人は、子どもたちの声に囲まれながら、そっと心の中で目を閉じた。
そして聞こえた気がした。遠く、林の奥から、夏の名残のような、あの声が。
「なおと、行くぞ! 次は、あっちの木だ!」
その声に、静かに微笑んで、うなずいた。