08-記録外の歩行
足元の感覚が変わった。
コンクリートの床はそのままなのに、重さが違う。
何かに押し戻されているような、逆に引き込まれているような。
重力の軸がねじれているように思えた。
視界は暗くなった。
目の前が見えているのに、色が薄れていた。
色というより、“解像度”が下がっている。
周囲の建物が、歪んでいた。
いや、建物ではない。
建物“のようなもの”。
名前がつかないものに囲まれている。
ここは、たぶん誰の記憶にも残らない。
足音を響かせて歩く。
一歩ごとに、世界が微かに揺れる。
見えないはずの場所を歩くということは、
この世界の“予定”から外れていくということだった。
歩けば歩くほど、
世界の“補正”が追いついていないことが分かる。
看板の裏。階段の途中。
影のはずの場所に、光がある。
光のはずの場所に、影がある。
この空間では、意味が逆転していた。
遠くの壁に、黒い塊があった。
近づいてみると、それは壊れた椅子だった。
背もたれが折れ、脚も一本欠けている。
もはや座るための道具ではなく、
ただ、“誰かがそこにいた”ことを示すだけの残骸だった。
その隣に、紙片が落ちていた。
触れる前から分かっていた。
それもまた、読める。
──ここで、誰かが諦めた
思わず、周囲を見渡す。
誰もいない。
でも、たしかに“誰かがいた痕跡”だけが残っていた。
誰かに呼ばれた気がした。
それが、名前だったことだけはわかった。
けれど──それが“誰の名前”だったのかは、思い出せなかった。
進む。
この道に、地図はない。
この空間に、ログは残らない。
世界にとって、俺の歩みは“無かったこと”になる。
でも、それでいい。
記録に残らなくても、
誰かが見ていなくても、
この歩みだけは、俺のものだ。
世界が認識しない俺。
誰にも記憶されない俺。
でも、今だけは。
自分が何者なのかを、確かに感じていた。
黒パーカーが、道の先にいた。
やはり何も言わず、ただそこにいた。
ゆっくりと、彼の方へ歩いていく。
その背中が、どこか悲しそうに見えた。
まるで──かつて、同じように歩いて、
同じようにここにたどり着いたことがあるかのように。
そして、また文字があった。
──君が何者かは、君が歩いた場所で決まる