受け継がれたカレー・レシピ
※しいなここみ様主催『華麗なる短編料理企画』に出品した料理です。
バイトがない日の帰り道では、よく弟の秀人の帰りとタイミングが合う。
「あれ? 姉ちゃん、今日は早いね。バイトは?」
「しばらく休み。そろそろ前期試験も近いし」
「大学生の試験って年に二回だけなんだよね? いいなー」
「何言ってんの。その分、範囲も広いし、論述式ばかりで大変なんだからね」
そんな会話をしながら我が家の手前の角を曲がると、辺りに食欲をそそるスパイシーな香りが漂ってきた。
「うわ、今夜はカレーか……」
秀人がなぜか、げんなりしたようにぼやく。
「え、あんたカレー好きでしょ? 母さんのカレー、美味しいじゃん」
「いや、それはそうなんだけどさー。
ただ、いつも同じ味だし──ぶっちゃけ、飽きね?」
まあ、秀人の言いたいことはわからないでもない。
我が家のカレーは市販のルーを使わず、小麦粉とカレー粉を炒めるところから始めるオールド・スタイル。使う肉も豚肉で、まさに『ザ・日本の庶民のカレー』といった味だ。
最近は『バターチキン・カレー』だとか『キーマ・カレー』『グリーン・カレー』なんかも一般的になってきたし、カレー・ルーも色々な種類が出ている。でも、母さんは頑なに昔からの作り方を変えようとはしないのだ。
「母さんって料理上手だし、他のカレーを作ってもぜったい旨いと思うんだよね。
──よし。俺、一度お願いしてみるわ」
「やめなよー。せっかく作ってくれたのにケチつけるみたいじゃん」
「言い方には気をつけるって。姉ちゃんだって母さんが作る他のカレー、食ってみたいだろ?」
「うーん──それは、まぁ」
「食後に切り出してみるから、姉ちゃんも援護してよ。──母さん、ただいまー!」
父さんはいつも帰りが遅いので、夕食は3人で摂ることが多い。
何の気なしに交わす雑談の中で、秀人がそれとなく、先日外食した時の話題に誘導しようとしているのがわかった。
──なるほど、そこから話を持っていくつもりなのね。
「そう言えば母さん、こないだの店で『ほうれん草のカレー』を食べて、凄く美味しいって喜んでたよね」
「ん?」
「ああいうのって自分で作ったりしないの? 母さんくらい料理上手なら、もっと色々なカレーも作れるような気もするんだけど」
「うーん、作れなくはないけど──そういう変わったカレーは、外食の時に食べれば良くない?」
やっぱり母さんはあまり乗り気じゃない。
「家庭のカレーに奇抜さはいらないんじゃないかしら。ほら、二日続けて食べるようなこともあるし、オーソドックスな味の方がいいと思うんだけど」
「いや、そうなんだけどさー」
秀人はまだあきらめるつもりはなさそうだ。
「母さんって、他のメニューだと毎回ちょっとずつ改良したりしてるじゃん。なのに、カレーだけは毎回まったく同じレシピなのって、何か不自然だなぁと思ってたんだよね。
何か特別な理由でもあんの?」
「え? ──ああ、そういえばあなたたちには、まだこのカレーの由来を教えてなかったわね」
そう言って母さんは、なぜか背筋をピシッと伸ばしてやけに真剣な顔つきになった。
「このカレーはね、代々受け継いできたレシピなの。
元々は私の祖父──あなたたちのひいお祖父ちゃんが教えてくれたレシピなのよ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
あなたたち、ひいお祖父ちゃんのこと、何か知ってる?
──まあ、無理もないわね。私もほとんど知らないし、お祖母ちゃんも顔は覚えてないって言ってたわ。お祖母ちゃんがほんの小さな頃に亡くなったそうだし。
ひいお祖父ちゃんは海軍の船乗りだったの。
──そう、『自衛隊』じゃなくて『海軍』。その意味はわかるわよね?
お祖母ちゃんの記憶に唯一残っているのは、ひいお祖父ちゃんの船が修理のために帰港して、休暇を取って家に帰って来た時のこと。
ひいお祖父ちゃんはパリッとした軍服姿で、お米や野菜、お肉なんかをたくさん持って帰ってきたそうよ。
──もう戦争も終盤で、本当に物がない頃だったみたい。
いくら軍人さんが多少は優遇されるとはいえ、それだけの食料を都合するのは、並大抵の苦労じゃなかったはず。
それでもひいお祖父ちゃんは、疲れた顔ひとつ見せず、帰ってくるなりお祖母ちゃんやその兄弟たちにこう言ったんだって。
『さあ、今日は父さんが海軍式のライス・カレーを作るぞ! 皆、今夜はごちそうだ!』
ここからは、お祖母ちゃんが大きくなってから、ひいお祖母ちゃんから聞いた話の又聞きなんだけどね。
子どもたちが満腹になって寝てしまった後で、ひいお祖父ちゃんがひいお祖母ちゃんに、こっそり胸の内を打ち明けたんだって。
次に出航したら、きっと自分はもう生きては戻れない。それくらい、もう戦局は絶望的になってしまっている。
自分は結局、この子たちに何もしてやれなかった。遊んでやることも、勉強を教えてやることも──思い出ひとつ残してやれなかった。
だから、せめてひとつくらいは自分を思い出す縁を残してやりたい。そこで、自分の一番の好物を食べさせてあげたかったのだ。
船の調理担当に無理やり頼んで作り方を教えてもらったので、メモを書き残しておいた。食料が充分に手に入る平和な時代になったら、また子どもたちに作ってあげてほしい。
そして、それを食べるほんのひとときだけでも、子どもたちやお前が自分のことを思い出してくれれば嬉しい。
そんなふうに言って、とても穏やかな笑みを浮かべていたそうよ。
──戦争が終わっても、ひいお祖父ちゃんが帰ってくることはなかった。
そしてひいお祖母ちゃんからやがてお祖母ちゃんへ、私へとカレーのレシピが受け継がれたの。
確かに、他のカレーを作れないわけじゃないのよ。でも、これはひいお祖父ちゃんが子どもたちに唯一残した、精一杯の想いが込められたレシピなの。
それを軽々しく変えてしまうのは、やっぱり違うんじゃないかしら。
世の中にはね、簡単に変えてはいけないこと、変えないことに意味があることだってあるのよ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
母さんの話は、予想以上に重かった。
目頭が熱くなっているのが自分でもわかる。
何か話さなくちゃと思って、私が口を開きかけた時──隣で秀人が声をあげて泣き出した。
「か、母さん、ごめん! 俺、そんな大事なレシピだなんて知らなくって──!
そうだよな、そんなレシピを変えちゃだめだよな!」
「わかってくれた?」
「ああ! 俺もそのレシピを覚えるよ! そして、子どもが出来たら今の話と一緒に、子どもにも伝えていくよ!」
私も同感だ。
戦争の話なんて、自分には関係のないどこか遠い話だと思っていた。でも、まさかこんな身近に戦争にちなんだものがあったなんて。
これは、絶対に語り継いでいかなければいけない物語だ。
私もそう強く思ったのだ──その時は。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それから数か月後。実はこの話には、意外な形でオチがついた。
お祖母ちゃんがちょっとした病気で入院したので、私は大学の帰りにお見舞いに寄ることにした。
そこで、母さんからひいお祖父ちゃんのカレーの話を聞いたことを伝えたのだ。
それを聞いたお祖母ちゃんは、しばらくきょとんとした顔をして──そしてなぜかケラケラと笑い始めた。
「あらやだ! あの子ってその話、まだ信じてたの!?」
え? ──えええええっ!?
「ちょっと、お祖母ちゃん! 『まだ信じてたの』ってことは、まさかあの話って──!?」
「そう、ぜーんぶ私の作り話なのよ」
ええっ、嘘でしょ!?
「私の父が早死にしたのは本当だけど、それは病気のせいだったしね。
そもそも、元々が病弱だったから、軍隊には入れてもらえなかったし。
それにあのカレーの作り方も、私が婦人雑誌の記事で覚えたものだったのよね」
お祖母ちゃんは茶目っ気のある顔で話してるけど──ダメだ、ぜんぜん意味がわかんない。
「で、でも、それじゃ何でそんな作り話を──?」
「それがね、あの子が小さい頃って、カレー・ルーの新商品が次々と出て来た頃でねぇ──」
どうやら、当時はテレビでもカレーのCMが次々と流れていて、その度に母さんは『あれが食べたい、作って!』とおねだりしていたらしい。
でもお祖母ちゃんは、市販のルーを使ったカレーだと油がきつくて胸焼けしてしまう。そこで、母さんがおねだりしなくなるようにと一計を講じたらしい。
「そういう重たい話にしておけば、あの子ももう二度とワガママ言わなくなると思ってね。
まあ、今でも信じてるってことは、なかなか効果覿面だったみたいね。
──私って、お話作りの才能もあったんじゃないかしら?」
いやいや、『効果覿面』すぎるよ、お祖母ちゃん。又聞きした秀人までもが完全に信じ込んじゃったんだから。
まあ、私もなんだけど。
とりあえず、この話は私ひとりの胸にしまっておくことにした。
母さんも秀人も、ああやって信じちゃってるわけだし、今さら真実を伝えなくてもいいような気がする。
私に子どもが出来た時に伝えるかどうかは──まあ、その子の性格次第かな。
もしその子がわがままを言うようなタイプだったら、お祖母ちゃんの作ったストーリーを私も利用させてもらおうか。
──あっ、そうか。
その家に伝わる『伝統』とか『家訓』って実は案外、こういうふうに作られたり、伝えられるようになっていくものなのかも。