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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

作者: 小城

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

「母上よ、粥にござる。」

 寒い季節である。その部屋には囲炉裏もない。あるのは、火鉢ひとつだけである。その火鉢にも、火は灯っておらず、煤ばかりが、汚らしく火鉢そのものを汚していた。

「母上の具合はどうだ。」

 今、男が粥を差し出したのは、その母である。そして、男の後ろから内を覗こうとしているのが、兄であった。

「兄上よ。そこでは、様子も分かるまい。もそっと近くに寄ればよかろう。」

「内へ入れば汚れる。」

「また、そのようなことを。」

 鹿の毛皮にくるまれた母の体は見えない。ただ、そこには、異臭だけが漂っていた。

「臭いの。」

「しかたのないこと。」

 身動きひとつしない母に向けて椀を置くと、兄弟ふたりは、小屋を出た。

「糞尿はどうなっておる?」

「分からぬ。然れど、この所は、粥も食さぬ故、下の方も出ないようじゃ。」

 母が歩くことがなくなり、どのくらいになるだろうかと、弟は気になったが、思い起こそうとしても、思い出せなかった。

 一時は、物に憑かれたかのように、昼も夜も歩き回っていたが、それが、突然、止んだ。兄弟は、母を壺屋の内に押し込めて、外側から栓棒をして、閉じ込めることにしていたが、静かになるまでの間は、内で、母が何をしているのかを知る事はなかった。食事に粥を持って行き始めたのも、それからである。静かになったのは、単に、餓えただけなのかも知れなかった。

「哀れなことよ。」

「なにがでござるか。」

 兄弟は猟師をしていた。そもそも、住家は山の中にある。すぐ外に出れば、林が広がっている。

「おう。来たな。逃すなよ。」

「おう。」

 弟の放った矢は、二人の下にやって来た鹿の首筋を射抜いた。

「死んだか。」

「おう。」

 首筋に矢を受けた鹿は、三、四歩、歩くと、その場に倒れた。

 それを見た兄弟は、するすると樹上より、地面に落ちて来て、鹿の傍らに寄った。二人のしているのは、「待ち」という狩猟法である。木の股に横木を組んで登り、鹿が来るのを待つやり方であった。

 直に山は冬になる。冬になる前に、兄弟は鹿を狩った。翌日も、兄弟は、山に入り、二人して、樹上に登った。

「来ぬ……。」

 その日は、夕刻を過ぎても、鹿は来なかった。暮れが早い山の中は、既に暗い。それでも、兄弟は、じっと、木の股の横木に座り、鹿を待った。

「おい。」

「おい。」

 暗闇の中、弟は兄の声を聞いた。

「もし今、俺の髻を掴んで、引き上げようとする奴がいたら、お前はどうしてくれるか。」

 突然の兄の言葉である。弟は返答に困った。辺りは暗い。空には細い月が出ている。そのような時に発せられた兄の声は、須く、帰宅を促す言葉かと思った。しかし、弟の見当に外れて、兄の吐く言葉は、存外なものであった。

「ならば、われが射抜いてくれようぞ。」

「今まさに、そのような奴がいるのだ。」

「では、音を目当てに、其奴を射抜いてくれる。」

「ならば、射て。」

 兄の酔狂だと、弟は思った。それは、暗中で獲物を待つのに飽きた末の余興であり、弟を弄ぶ、兄の言葉であると思った。

 弟は、瞬時、迷った。しかし、結局は、兄の言葉に従って、自らの弓に雁股の矢を番えて射た。兄弟の間は、距離にして、四、五段はあるかと思われた。

「どうだ、当たったか。」

 しばらく、兄の返事はなかった。

「おう。俺を掴んでいた手は、お前の射た矢に射切られて、今、ここにある。俺が持っている。」

「然様か。」

「さあ、帰るぞ。」

 辺りは、また静かになった。再び、兄の言葉に従って、弟は、するすると、樹を降りた。兄は先に地上にいた。

 帰り支度を済ませた兄弟は、そのまま野道を下った。弟は、兄のすぐ後ろに付いた。道中、二人は、無言であった。辺りは真っ暗で何も見えない。それでも、夜目の利く二人は、するすると、山を降りた。

「何の声だ。」

 住家に帰ると、すぐに耳に入ってきた。それは、微かなうめき声のようなものであった。

「母上か。」

「これ、何をうめいておられる。」

 母のいる壺屋から返事はなかった。

「おう。兄上。その手は、なにか。」

「なに。」

 弟の言うのは、兄の手ではなかった。兄の手が持つ他人の手である。それが、初めて、今、弟の目に映った。

 今の今まで、兄がそのような物を持っているとは、弟は知らなかった。それが、森の中で、兄の髻を掴み上げた手であるということを、弟は初めて理解した。そして、森の中で、兄が言った言葉が、実のことであり、あの時、己が射た矢によって、その手が射切られた物であると、初めて悟った。

 外の暗闇とは異なる住家の暗闇の中で、それをよく見ようとして、弟は火種を扱い、それを照らした。

「母の手に似たり。」

「なに。」

 弟が照らすそれを兄は、凝視した。

「分からぬ。」

「よく似ておる。」

 兄は、見るのを止めた。そして、足を動かして、母のいる壺屋の方へ向かった。確かに、うめき声は、そこから発せられているのを、兄弟は知った。

「母上よ、何をうめいておられる。」

 やはり、返事はなかった。

「開けまするぞ。」

 栓棒は外れていた。遣り戸を開けると、出掛ける前と同じ姿で、母は寝ていた。

「己等は。」

 兄弟は、幾月か振りに、母の起き上がる姿を見た。そして、幾年か振りに、母の歩く姿を見たと思った。しかし、それは本当に母なのかと思った。それは、うめき声を上げながら、二人の元へと、歩いて来た。

「これは御手か!!」

 弟は兄の怒声を聞いた。次に、宙を飛ぶ、痩せ枯れた手を見た。それは、間違うことのない母の手であった。

 兄の怒声に弟は驚いた。それは、かつて聞いたことがない調子であった。憤りと恨みが籠もったような声音であった。弟は、何故、そのようなものが兄の口から発せられたのか分からなかった。

 遣り戸が閉められる激しくうるさい音が耳を打った。兄弟は、駆け出していた。外は暗かったが、二人は、再び、山の中へと戻って行った。


 ほどなくして、母は死んだ。兄と弟の二人は、母の亡骸に片手のないことを見て、森の中で射切ったあの痩せ枯れた手が、母の物であったと得心するに至った。その射切られた手は、壺屋の内の母の亡骸の傍らに落ちていた。

「母上は、いたく老いぼれて鬼になり、子を食わんとして、山に付いて行ったのであろうよ。なあ。」

 兄弟が、母の亡骸を埋葬している時、弟に向かって、兄はそう言った。

「然様なものか。」

 弟が射切った片手も、亡骸と同じく、葬った。

「人のおやというものも、年、いたく老いたれば、必ず鬼になり、かように、子をも、食らわんとするものなのよ。」

 土饅頭に造られた塚に、兄弟は山で採った草花を手向けた。兄の心中では、これで、どこかで、なにか、一区切りが付いたようすであった。

 しかし、弟の心中には、遣り戸を開いた、その時に聞いた、母の声と、兄の声、その両者の声音に含まれた憤りと憎しみの調子が消えることはなかった。

 例えば、あの時のように、冷たい冬の夜に、それを思い出すと、妙な不快感とともに、誰にともなく、嫌悪と悲しみの情が溢れ出て来るのを、弟は、密かに感じているのである。

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