鬼紋
「…………」
ひとまずクリフを故郷に連れて帰る。
そう宣言したアルフレッドたちは、すぐに建物の外に出た。
外。
これまでずっと気が付かなかったが、どうやらここは大森林の中にある小屋だったようだ。アルフレッドたちは冒険の途中でここに立ち寄り、休憩をしていたらしい。
なんだ……これは?
俺の知っているモルガ=モリル大森林とは、まったく異なるその風景。
瑞々しい緑色の植物が存在しない。毒々しい色をした紫色の植物が周囲を覆っている。鼻につく匂いも清涼感のある森の香りではなく、まるでアンモニアか何かを気化させたような鼻につく刺激臭だ。
魔界、という表現が一番適切だろう。そんな光景が……周囲に広がっていた。
「ちぃっ! 害はないといっても鼻がもげそうだぜ。仕事とはいえ、魔王領の大森林には近づきたくないな」
アルフレッドが苦虫を潰したような表情をしている。
パステラ王国は魔王を封印し、西の森を手に入れた。
それ以降、それまでの国と一線を画すことを意味し、頭に『大』の字を付けて『大パステラ王国』と名乗るようになったらしい。
未来の世界では魔王が封印されている。それから森は本来の緑を取り戻したということか。
それにしてもこの紫の植物、見たことないよな。
こいつを俺が扱えるようになったら、以前よりも戦闘のレパートリーが広がるかもしれない。
もっとも、古代樹の種がない今では以前とは比べ物にならないほどに戦闘力が低下しているわけだが。
「お前ら……少し下がってろ」
そう言って、アルフレッドが前に出た。
彼の視線の先、すなわち森の奥には薄暗い闇が広がっている。だが注意深く耳を傾けると、わずかだが獣の唸り声のような音が……。
そして、奴らが現れた。
形状としては狼に似た四足歩行の動物。しかしその体毛は周囲の森と同化してしまいそうなほどに毒々しく、充血しきって真っ赤に染まった目は普通の獣ではありえない姿。
――魔物。
野生の獣とは違う、闇の眷属たち。魔族に使役されたこの生物、俺の世界でははるかに西の山脈付近に生息する危険種だったはず。
少なくとも、こんな森の中で出くわす存在じゃない。
やはり、魔王が討伐されていない影響か……。
「わらわの結界がある限りここは安全。だけど……」
「いつまでもここに引きこもってるわけにはいかねーからな。俺に任せとけ。少し掃除してきてやるっ!」
アルフレッドは剣を構えながら魔物の群れに突撃した。
ここはヴィクトリア王女が張った結界の中なのか? だから建物の中まで臭いが来なかったのか?
「わらわはアルフレッド様を援護しに行くわ。だからそいつはあんたが守ってよね。婚約者なんだから」
「婚約者?」
続いて、ヴィクトリア王女が前に出る。
後に残ったのは俺と、鬼族の亜人であるナターシャの二人。
「俺たち、婚約してたのか?」
「…………」
こくり、頷くナターシャ。
「私たちは、王都の近くにある村で暮らしていました」
「村……」
「そこは亜人にも寛容で、幼くして両親を失った私を引き取り、育ててくれたのです。私は子供のころ、ちょうど同じ年齢だったクリフ……あなたと良く遊んでいました」
「幼馴染ってことか?」
「はい」
亜人の婚約者か。
俺とアリスのことを思い出すよな。それなのに俺が割り込んで……なんだか悪人みたいだなこれじゃ。
「いつしか私たちは自然と惹かれ合い、将来の結婚を誓う仲と……。いえ、……覚えていないのに婚約者というのも、理解しがたい話かもしれません。クリフ、今は忘れてください」
「本当に申し訳ないな、俺の記憶がないばかりに……」
ナターシャの境遇を考えると申し訳なくなった。
だけどだからといって、俺が死ぬわけにもいかない。そしてそんなことをしてもクリフが戻ってくるわけでもない。
誤魔化し続けるしか……ないのか?
「アルフレッドとはその村で会ったのか?」
「ええ、ちょうど私たちが婚約したころ、あの方が村にやってきてこう言ったのです」
――我が名はアルフレッド、魔王を討つ者っ! 鬼族の少女よ、どうかあなたの力を貸して欲しいっ!
「鬼族は戦闘力が高く有名ですからね。戦闘の役に立つと思ったのでしょう」
確かに、そんな話を俺も聞いたことがある。
「戦闘の役に……、道具みたいな言い方だな」
「ああ……誤解しないでください。その時は勘違いしていた、というだけ。あの方は素晴らしい方です。私にもクリフにも、仲間として接してくれる」
「そう……なのか?」
「私の村は魔族に滅ぼされたのです。両親への復讐を望む私にとって、アルフレッド様の言葉は天からのお告げのように感じました」
魔族。
魔王を頂点とする魔の集団。人や亜人を害し、殺すことを是とする生きとし生けるものの敵。
俺の時代には魔王以外滅ぼされたというあの強大な種族が、今、この時代は何体も生きている。
「クリフ、あなたはそんな私を心配してついてきてくれたのです。私はそれがとても嬉しかった。危険な旅になるのは分かり切ったこと。あなたは私にとって……ああ、本当にごめんなさいね。記憶がないのに、つい、昔話ばっかり……」
「…………」
「とにかく、たとえこの命に代えても、あなたを守ってみせると。それが私の誓いなのです……」
ナターシャがそう言い切ったまさにその時。
バチン、と何かの弾ける音が聞こえた。
慌ててそちらを見ると、そこには一体の魔物がいた。
結界の内。
どうやら、アルフレッドの追撃を逃れ、ヴィクトリア王女の結界を通り抜け、ここまでやってきてしまったらしい。
王女は安全だと言っていたのに……。彼女が離れてしまったことによって、結界が弱まったか?
王女の結界を抜けたその魔物は、俺たち二人に狙いを定め突進を始めた。
「ナターシャっ!」
即座に〈森羅操々〉を起動する。大技は使えないが、ツタで足を強化したり剣を作ったりはできる。
「――〈鬼紋〉」
ナターシャがそう言い放った瞬間。
褐色の彼女の肌に浮かび上がる、光り輝く幾何学的な紋様。戦闘に長けていると有名な鬼族固有の魔法、彼女の力ということか。
「クリフはここを動かないように」
弾けるように、ナターシャが飛び出した。