瑠奈との過去
その後。
心身ともに衰弱気味のいろはを励ましつつ、休ませつつ、俺たちはあそこにいるすべての奴隷を救出した。
救出自体は他の冒険者たちでもよくやることなのだが、いろはの〈多言語解〉によって俺たちは亜人たちと意思疎通し、事情を説明し、規律だった救出を行うことができた。これは他に見られないレベルの非常に優秀なやり方だった。
当然冒険者ギルドでの名声は高まり、俺たち〈タイガ団〉は高い報酬……そして評価を得た。
時を経るごとに、〈タイガ団〉の評価は上がっていくばかりだった。
だがそれは、何らかの形でエルフの村が襲われる未来へと繋がっている……かもしれない。
俺は大河たちが道を誤らないように誘導しなきゃならない。それに敵対的な女王への警戒も。加えてできることならいろはを連れてエルフの村に行って……アリスに会いたい。
自分で亜人語を覚えてみようと努力してみたが、これはとても難解だった。そもそも英語すらまともに喋れない俺なのだ。異国の地で異国の言語を学ぶというのはあまりにもハードルが高すぎた。
一歩一歩、進んでいくしかない。
今日の俺は王都の外、城壁近くの草原で本を読んでいた。
エルフ語を勉強しているところを人に見られたくなかった。兵士以外でこういうことをしている人間は変り者扱いされ、差別の対象となるらしい。
「こんなところで読書? 誘ってくれればよかったのに」
ふと、声が聞こえたので活字から目を外すと、そこには瑠奈が立っていた。
「瑠奈はいつも兵士に囲まれて忙しそうだろ? 俺の個人的な趣味につきあわせちゃ悪いと思ってな」
「何それ、私がそんな理由で来栖の誘いを断ると思ったの?」
そう言って、瑠奈は俺の隣に座った。
距離を詰められて、俺は少し息苦しさを感じる。
瑠奈……。
「ねえ、来栖って変わったよね」
「そうか?」
「なんだか、すごく積極的。鉄格子を壊したり、見張りの人倒したり、亜人はいい人だって一生懸命言ってたり。すごく、すごく良い意味で成長してるよね。なんだか、私の知ってる来栖と違う気がして」
「……い、異世界召喚なんてすごい経験だからな。精神年齢十歳程度なら上がってもおかしくないだろ」
実際、ここにいる俺は元の世界で三十歳まで生き、この世界で十六歳までエルフとして過ごしている。単純に年齢を足せば、もうおっさんと言ってもおかしくない領域に達している。
「ねえ、嫌なこと思い出させていい?」
「なんだよ」
「私たち、もうすぐ卒業よね」
「うっ……」
それは、確かに嫌な話だ。
十八歳の俺であれば受験のことを思い出して嫌な顔をしていただろう。そして、今の俺にとってもまた……別れと苦悩の記憶。
「来栖ともっと思い出を作りたかったな。映画見たり、カラオケ行ったり、旅行行ったり一緒にご飯食べたり、もっともっと……元の世界で一緒にいたかったのに。この世界に来てから、私たち……離ればなれ」
「そう……だな」
「ねえ来栖。私のこと避けてない? 寂しいよぉ。私、もっともっと来栖と一緒にいたいの。私のこと、嫌いになっちゃったの?」
「瑠奈……お前……」
この来栖は十八歳の来栖だ。高校を卒業した後どんな運命をたどるか知らない……ということになっている。
だけど俺は知っている。
卒業したそのあと、自分がどうなってしまったのかを。
俺には夢があった。
古植物学の研究者になりたかった。俺は植物も古代の生物も好きだったから、自分にはぴったりだと思ってた。だから大学も、少し離れて俺の学力に見合ったその研究ができるところへ進学する予定だった。
瑠奈も違う学科だけど同じ大学に行くって話を聞いていた。だから俺たちはこれまでと同じように接して、高校を卒業して、大学の入学式で会おうとまで話をしていた。
でも、入学式に瑠奈は来なかった。
おまけに携帯の電話も繋がらない。
不思議に思って、俺は地元の瑠奈の家へと向かった。急いでいたから、スーツのまま新幹線に乗ってだ。何度か訪問したこともあり、俺は瑠奈の家を知っていた。
そこに、家がなかった。
なぜ、どうしてと俺は混乱するばかりだった。せっかく両親の用意してくれた新品のスーツが、汗と泥で汚れて……伸びてしわになってく。そんなことも気にならないほどに……憔悴しきっていた。
なんとかしよう、と思い俺は大河に連絡を取った。
「瑠奈、引っ越したんだぞ? お前、聞いてなかったのか?」
大河は、そのことを知っていた。
瑠奈が引っ越したことを。大河には別れの挨拶をしたらしい。
力なく、俺は通話中のスマホを道路に落としてしまった。
裏切られた気分だった。
なんで、瑠奈は俺に引っ越すことを教えてくれなかったんだ? 一言言ってくれれば、変な期待をしなかったのに。
その後、俺は瑠奈にスマホで連絡を取ろうとしたが繋がらなかった。電話も、メッセージアプリも、全部消えた状態になっていた。
やがて荒んだ心のまま大学生活もままならず、研究をおろそかにして就職活動も失敗。滑り込んだ就職先がブラック企業で身心をすり減らし、最後にはトラックに跳ねられて死亡。
全部全部瑠奈のせいだ――
なんて、二十代の前半頃までは思ってたんだよな。
そう、俺はそう思っていたのは『過去』の話だ。
俺も大人になった。エルフの村では、死ぬまで心穏やかな生活をしていた。
だから、今更瑠奈に恨み言を言うつもりはない。大学生活に失敗したのもブラック企業に就職したのも、全部自分自身の問題だ。
俺がもっとかしこければ、研究者になれた。コミュ力があれば就職も失敗しなかった。あるいはなんとかして瑠奈と話だけでもできれば、自分の中で区切りをつけられたかもしれない。
瑠奈は俺より頭が良かったからな。もっといい大学に受かって、都会に引っ越しただけかもしれない。
その程度の……話だ。
と、心の中では納得しているのだが。
瑠奈と話をしていると、心を乱される自分がいる。
瑠奈と別れたあとの荒んだ心が、俺の中に蘇っていくような気がした。
「例えばさ、例えばの話だ。俺たち二人、大学に行くだろ?」
だから俺は、こんな話をしてしまった。
「突然、何の話?」
「夢を見たんだ」
「…………来栖?」
「一緒の大学に行くはずだったのに、瑠奈がいなくてさ。独りぼっちで大学生活して、就職にも失敗してブラック企業で憂鬱な生活を送るなんて。そんな夢だよ」
これはたとえ話なんかじゃない。実際に、俺が経験した過去の出来事だ。
「瑠奈はさ、頭がいいからさ――」
言いかけて、俺は口を閉じた。
やめようぜ、これ以上は。
なるようになる。俺にとって瑠奈は終わった過去なんだ。いまさら何かを変えようなんて……そんなこと。
「来栖」
瑠奈が、そっと俺の手を握りしめた。
「実は私、大学……いけないの」
は?
大学に……いけない?
予想外の言葉に、俺は動揺を隠せなかった。
「どうしてだ? 瑠奈は俺より頭いいだろ? もっと別のレベルの高い大学に行くってことか?」
「違うの、私は大学に行けないの。お母さんが……浮気……して、怒ったお父さんが……家を出て行ってね」
「え……」
「離婚して、お母さん……慰謝料請求されて。お父さんは私の顔も見たくないって……。家族がめちゃくちゃになって……、もう、私だけ大学なんてわがまま……言えないよ」
あまりにも、突然の告白だった。
信じられなかった。だって瑠奈は、俺といるときにいつも楽しそうにしていて……笑ってたのに。
無理してたのか?
いや、もしかすると、居心地の悪い家と違って、学校での生活が……彼女にとっての楽しい日常だったのかもしれない。
「ど……どうして言ってくれなかったんだっ! 俺は、瑠奈が毎日順調で、これからもずっと一緒にいられるって思ってたんだぞ! せめて……せめて、一言だけでもそうだって言ってくれれば。瑠奈が引っ越すならそっちの大学にいけたかもしれない。一緒にバイトして、大学試験の費用だって用意できたかもしれない。それに……」
「でも来栖には夢があるんでしょ? 大学も受けて、進学して研究者になって。今一生懸命受験勉強してるのに、私の問題が、邪魔になって欲しくなかった」
何言ってんだよ。
お前がいなくても俺は……勉強なんてできなかった。研究者にもなれず、就職にも失敗して。それが俺の未来だったんだ。
「来栖は優しいから、私が相談したらきっと全力で協力してくれるのよね。お金だって用意してくれるかもしれない、自分の夢を犠牲にして大学を諦めるかもしれない。でも、それで幸せなの? 私は来栖を不幸にするだけの存在なの?」
「…………」
「でも私、来栖のことが好きなの」
涙に濡れたその瞳には、確かな意思の炎が宿っている。
「もう、時間がないの。元の世界に戻ったら、受験が始まって卒業して、私は来栖と会えなくなる。だからせめて、この世界では来栖と一緒に思い出を作りたい。ごめんね、来栖が悲しむこと……分かってるのに。私……来栖のことが好きで、好きで好きで好きで好きで好きで。この気持ちを……押えられないから」
突然、瑠奈が俺に抱きついて……キスをした。
「わがままな女の子だけど、許して」
その気持ちよさに、彼女の柔らかな感触と甘い香りにその身を委ねようとして……踏みとどまった。
止めろっ!
俺は今何を考えた?
瑠奈と、よりを戻せるかもしれないって。一緒にやり直せるかもしれないって……思ったか?
アリスっ!
俺はアリスを助けなきゃならないんだっ! 結婚式まで開いたのに、今更昔の彼女が帰ってきたからって、気持ちを切り替えてしまうのか?
そんなことが許されるわけない。
「…………」
瑠璃を受け入れることはできない。
けど、激しく拒絶するのも問題だ。だって俺たちは付き合ってたんだから。
もし、何かの拍子に今の俺という存在が消えて、元の異世界転生する前の俺に戻ったとしたら、どうなる? せっかく積み上げた二人の思い出が、俺の方だけ記憶の中から全部消えてしまったとしたら?
瑠奈を余計に傷つけるだけだ。何の罪もない並行世界の俺だって、余計に苦しめてしまう。
だから俺は瑠璃を振り切れない。
激しく抱きついてくる瑠奈を、俺は無理やり引きはがした。
「来栖?」
「今はさ、〈タイガ団〉がせっかく盛り上がってるときなんだ。あんまり浮ついたこと、考えるのはやめようぜ」
「来栖……私……」
「俺のスキルじゃお前に釣り合わないよ。こういうのはさ、元の世界に戻ってからにしよう、瑠璃」
俺は逃げ出すようにその場から走り去った。
背後から、いつまでも瑠奈の視線を感じた。