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後.

 後編です。

「なんで、いきなりそんな呼びかたするの?」


 尋ねてきたのは、私の妹のような関係の女性だ。

 ふたりで、遊びに行ったことまではなかったかもしれないが。親しいといって、さしつかえない間柄であり、むこうもそう思っていてくれるのだろう。


 だが、葬儀の日から。


 私は。彼女を、それまでの、私がつけた愛称ではなく「さん」づけで、呼ぶようになった。

 ことばも、多少、くずしはするが、敬語をつかう。


 私の友人ではないが。家族ぐるみのづきあいがある、歳のそれほどまでには離れていない青年にも、同様の接しかたをとることにした。


 そのときはもう、きちんと理解していたからだ。


 このかたたちは、私の客ではない。


 家族や、亡くなったそのひとのために、駆けつけてくれたのだ。

 私は、それに対して礼を尽くさねばならない。


 きちんと。


 自分の客ではない、かたがたに対して。



 それ以来。


 私は誰に対しても、敬語をつかうことにした。


 小学生くらいまでの子があいてなら、べつだが。

 たいていのかたとは。仕事の、接客につかうようなことばで話す。


 このあいだは、いまの上司に

「ぼくに、そんなことばはつかわないでほしい」

とまで、いわれてしまったのを苦々しくおぼえている。

 もちろん、敬語は以前からつかってはいた。彼が気にしたのは「はい」という返事を避けて、「かしこまりました」とこたえるようにしたことだ。

 ショート・メイルの返事でも、私はこれをつかう。


 ばかばかしいかもしれないが。私は、こんなふうにしか、やりかたをみつけられなかったのだ。



「大人と子供の違いなんて、たいしてないよ」


 あのときは、そう思っていたが、今はちがう。


 私は、私なりの。ひとつのこたえを出した。



「他者と他人。その二つが同義語に近づいたのが大人だ」



 自分以外の「他者」。


 冷たい意味での「他人」。


「他者」でも「他人」でないような、接しかたをすれば、それは、甘えになる。


 報いることを、じゅうぶんにできるほどの人間ならば、それもよかろう。

 私には、それができるのか? 問うまでもなく、私は首を横に振る。

 私は、それをできないことを恥じている。

 努力や誠意があれば、それを果たすために力をそそぐはずだから。おまえのそれは、たんなる怠慢だと、責められることも、当然だとさえ思っている。


 だが、そんな無力な私にできることは。


 せめて、家族も、友人も。

 すべての「他者」を「他人」として。尽くせるはずもない礼を、少しでも払うことしかない。


「他人」に接するのに、必要な行儀とはなにか?——文字通り「他人行儀」だ。


 だから、私はだれに対しても敬語を使い。もう、以前のような愛称で呼ぶことは、なくなった。


 ある友人とは、連絡すらとらなくなった。


 かつて一時期、仕事の上司でもあった彼だが。友人として、彼の部署への助力を求められた経緯もあり。仕事場でさえ、敬語を嫌った彼のことだ。

 私の変化に、理解こそ示してくれるかもしれないが。けっして、いい顔をしないであろうことは、想像に難くない。

 それでも、近々、連絡をとろうとは思う。

 こんな私でも、友人は必要なのだ。


 たとえ、その友人が「他人」の範疇にあろうとも。



 私の「他者」に対する、接しかたの変化より。

 こちらこそ、理解し難いかもしれないのだが。


 私は「他者」を「他人」として、拒みたいわけではない。

 もう一度くりかえすが、今回にかぎらず。

 たくさんの「他者」から、助けや厚意をいただいたことに、私なりの感謝をいだいているし。これまでだけでなく、これからも。それは、私に必要なものだとも、わかっている。


 私は無力だ。


 そして、それを理由にして「他人」に報いることに、力を尽くさない、ずるい人間だ。


 そのくせ、礼を尽くしたいとか言って、形式ばかりの態度をとる。


 それでも。


 こんな愚かな、私が。


「他人行儀」をもって「他人」に接するようにと、こころがけるようになったのは。

 そのかたたちに、払える礼を、せめて払いたいと思ったからだ。


 助けや厚意をかけてくれるかたたちの気持ちを、粗末にするためではない。


 嘘くさい、綺麗事ときこえるだろう。


 私も、他人が同じことを言えば、そう思うだろう。


 でも、おそらく、私には、こんなやりかたしかできない。


 ほかにもやりようはあるはずだし、みんなやっているのだとも、思う。


 でも、私にはできない。


 無力だからか。


 怠慢か。


 おそらく、両方だ。



 私は、がらくただ。


 悔しさと、恥ずかしさを。無力と怠慢のせいにして。


「他者」を「他人」と同義化して、尽くせぬ礼を、いくらかは払ったふりをする。


 これが、私の大人としての、ふるまいかたなのか。



 あの少女に、また会うことがあれば、言ってやりたい。

 もう、高校生ではなくなり。大人へと、かわりはじめているであろう彼女に。


 私が更新した大人の定義を——ではない。

 私がかけたいのは、きっと、こんなことばだ。



「きみは、大人になりきれなくてもいいから。

 こんな、がらくたにはならないで」


って。



 まさに、よけいなお世話だろうが。

 終わりです。


追記

 最後の台詞、ちゃんと伝えられました(笑)

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― 新着の感想 ―
[一言] 自身の背景はさらっと読めるのに、他者との距離感の図りがおかしいのはちゃんと理由があったのですね。 読みやすさも含めて評価に入るので、前編で切られても仕方ないのはマイナスポイントですが、それ…
2022/10/29 13:42 退会済み
管理
[一言] 親に恩は返さなくても良いのだと思う。親もそれはあんまり期待していないだろうし。だから、返せなかった恩は子供に与える。 親子でなくても。してもらった事は往々にして当人に返せないから、次の人にし…
[一言] 身近なひとの死というのは、非常に大きなインパクトがあると思っています。 私にとって初めてのそれは、同居していた父方の祖父でした。 祖父が亡くなった時、私はものを書きました。書いたものを親戚の…
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