耳原・太田
しばらく東に向かってから左折。
寄り道して、北にある麒麟山真竜寺に行ってみようと、川沿いを北に進んでいった。
山の裾の細い小道だった。田舎で、虫と小川とカラスの世界だった。右手に墓地が現れて、そのまま進むとすぐに正面に麒麟山真竜寺。
前に山に近づいて行ったところにあるお寺が、思いかけず素敵だったことがあったから、もしやここも・・・?と行ってみたのだけれど、ここはまあ普通。地元の人から愛されている感じのお寺だった。
ところが後で知ったことには、行基の創建とされていて、有名なお寺だったみたい。役行者ゆかりの土地に、聖武天皇の勅願で748年(行基の亡くなる前の年)に創建されたのだって。
元の道に戻り、また東へ。少し進んでいくと、細い道が左手に現れた。
ここから東にある将軍塚大織冠神社にも寄り道するつもりだった。この一帯は住宅密集地で、地図で下調べして、遠回りして行くしかないのかな?と思っていた。けれどこの細い道はまっすぐ神社の方向に向かっているようで、もしかしたらこの道で近くまで行けるかも?と、進んでいってみることにした。
進んでいくと、道は一度地下にもぐって道路の下をくぐり、住宅の裏などを通って、公道に出た。そしてそこには鳥居があった。神社に続く抜け道が意図して残されているみたいだった。
鳥居の向こうにはちょっとした階段があって、上ってみると、いきなり目の前に小さな山があった。これが将軍塚であるらしい。
横穴の石室になっているようだったけれど、下のほうにある開口部には柵がされていて、のぞいても何も見えなかった。
そしてかなり荒れていた。小山(古墳)の周りをくるっと一周(すごく小さな一周だけど)できるようになっているのだけれど、大きな枝がいっぱい落ちていたりで、歩きにくかった。
白い大きなキノコがはえていた。白い蛾が飛んでいて、大きな蜘蛛の巣もはってあった。しばらく誰も歩いていないのか、思いきりおかあさんが巣にからみとられていた。ちょっとした異界みたい。白い生き物の住む場所。
参道から古墳を見て左手、下の方に何かが見えていた。でも、進んではいけなかった。この塚と、その周りの狭い周遊部、それ以外の場所には網がはられていたりで入っていけないようになっていた。ただこの狭い窮屈な場所を一周して終わり。将軍塚大織冠神社というけれど神社とかはなくて、塚だけがあった。塚の中に祀られているとかかな?
かつてここは中臣鎌足の墓じゃないかとか言われていたそうだ。それで大織冠神社なんて名がついている。大織冠って、大化の改新で定められた冠位13階のうちの最高位で、歴代で大織冠の位を授けられたのは中臣鎌足ただ一人(きちんと記録に残るのは)。
中臣鎌足の死の直前、ともに大化の改新を行ってきた天智天皇が藤原の姓を贈り、同時に大織冠の位を与えたのだって。
墓は奈良の談山神社にあるそうだけれど、最初は摂津国の安威にあったとも言われていて、それがここだとされていたみたい。東の安威川と西の茨木川(佐保川)にはさまれたこのあたりの地名が安威だった。けれど古墳は6世紀のものと思われ、7世紀半ばに亡くなった中臣鎌足のものではないことが今では分かっている。
ここではなく、安威にある阿武山古墳が今は候補地みたい。
阿武山古墳にはまだ行ったことがないけれど、そこからは60歳前後の男性の遺骨が見つかったそうだ。中臣鎌足は落馬による怪我がもとで亡くなったらしいけれど、阿武山古墳に埋葬されていた遺体を検死にかけた(?)ところ、骨折して寝たきりになった後に死亡したという結果だったそうだ。
そして「大織冠」に使用されていたと思われる金糸が死体の頭部あたりにいっぱい散らばって残っていたのだって。
神社への抜け道は、まだ東にと続いていた。行ってみたい気もすごくしたけれど、時間もおしてきていたし、他にも耳原公園などにも寄りたくて、南の参道へ。
参道の向こうは少し古い時代の新興住宅地のようだった。
新興住宅地ですぐ右折して、つきあたりを左に行けば住宅地を出て、信号のある交差点にたどり着いた。信号を南下すると、すぐ耳原公園が現れた。
なんだか独特な感じのするところだった。低湿地だったところなのかな。なんだか分かるようになってきたような気がした。空気が水気をふくんでいるというか、なんというか、そんな感じ。
「白井河原の合戦の地」とあった。亀岡街道と西国街道との辻に説明されていた戦いね。
白井河原というくらいだからやっぱり低湿地だったのだろう。このすぐ西で、南下する茨木川に西からの勝尾寺川が合流してきていて、その少し西が亀岡街道と西国街道の辻だった。
こんな川の合流地点という要所だった感じのところに「みの」のつく地名があるのは、気になるところだった。
耳原公園には大きな池があった。広い気持ちのいい公園だった。夜中に叫ばないようにという注意書きがやけに目に付いたけれど、昼間は静かだった。
・・・けれど、ベンチで休憩していたら、叫び声が聞こえてきた。池の向こう、男の人が空に向かって言葉にならないことをわめいていた。さっき、児童遊具に乗って、なにも見ずに座っていた、少し様子のおかしかった若い男の人だ、きっと・・・。
薬かな。ストレスかな。こわくなってきて、去っていくことにした。
途中、公園内に上りの坂があって、先に何があるか気になったのだけれど、大きな木が倒れて道をふさぎ、カラスもいっぱいいて、スルー。
幣久良神社がかつてあった(今は阿為神社に合祀)という幣久良山(手鞍山)がここだったのかもしれない。
幣久良神社は式内社で、耳原公園の大きな池(耳原大池)は御手洗池と呼ばれていたんだとか。御手洗川と呼ばれるのはたいてい神社のそば、神社に参るために手を清める川のようだから、その池バージョンだったのかな。それとも御手洗川が流れていて、そのそばにあって御手洗池と名付けられたのかな。
公園の南東の出入り口から出て、ここまで南下してきた道の続きを歩いた。
すぐに左手に鼻摺古墳の案内が現れて、行ってみた。
すぐに住宅地の中に鼻摺古墳が現れた。田んぼだったところが最近、新興住宅地になりましたという感じのところにあり、6~7世紀の古墳だって。
百舌鳥や古市だけじゃなく、この一帯も古墳が多いところみたい。元々は上町台地にもいっぱい古墳があったというし、あちこちに古墳群があったんだな。
このあたりは古くは毛受野と言ったそうだ。
仁徳天皇陵は「百舌鳥耳原にある」というので、堺の百舌鳥にあるとされているけれど、かつてはこちらのモズ野の耳原にある、という説もあったみたい。
鼻摺古墳は反正天皇稜、耳原古墳は履中天皇陵とされていたこともあったそうだ。仁徳天皇陵はその2つの古墳の間にあったものの、すっかり消滅した耳原西古墳ではないかと考えられていたらしい。
ただ、それにはちょっと年代が合わないそうだ。もう少し後の時代の古墳だったのだって。それで今は百舌鳥古墳群にあるというのが定説になっている。
勝手にいろいろ想像した。
ミノさんの元々の出身地は和泉鳥取。一族には鳥取(捕鳥)さんや倭文さんがいる。和泉には百舌鳥とか鳳とか白鳥とか黒鳥とか、鳥の名の付く地名が多いのも気になるし、もしかしたら和泉出身の大物、ミノさんは、鳥を神格化していた人々だったんじゃないか?
そして和泉の百舌鳥耳原(仁徳天皇陵のある地)から、ここにやって来た人々が、ここを毛受野の耳原と名付けたのかも??
勝尾寺川の支流にはもっと西に箕川もある(そういえば勝尾川が流れてくるのは箕面だし)。
元の道に戻って南下し、すぐの信号を左折。ここが西国街道だった。ここからはしばらく西国街道を進んでいった。
耳原小学校があって、道の横がすぐプールだった。塀があったと思われるのだけれど、撤去されていた。大阪北部地震があって、ある小学校のプールの塀が倒れて生徒一人が犠牲になってしまった。それであちこちの危ない学校の塀が撤去されたのだって。
安養寺などがあり、なんだか落ち着く道だった。
古い家や地蔵があった。耳原古墳の案内があり、少し北に古墳が現れた。6世紀後半の円墳だって。関西ではもう前方後円墳があまり作られなくなっていた時代かな。
今の茨木市や高槻市、三島郡の大部分は古代には三島(三嶋)と呼ばれていたところで、その三島で一番大きな石を持つ横穴式石室があるのだって。そこに2つ置かれた棺は、屋根を持つ形状の「家形石棺」で、朱が塗られていたそうだ。
ゆるい上り坂で、一番の高台あたりには虎谷さん一族の家々があった。耳原の歴史の研究家に虎谷さんがいたようで、ここの方なのかな?
法華寺があり、阿為神社の旅所があった。阿為神社はここから北に2キロほど行ったところ(安威)にあるらしかった。中臣鎌足勧請の神社とも伝わるのだって。
鎌足と祖を同じくする中臣系の藍氏がいたらしく、実のところは鎌足ではなく、この中臣藍氏が祖神を祭ったのが始まりではと言われているみたい。
昔、このあたりはアイと呼ばれていて、川もアイ(安威)川と呼ばれ、定住した中臣さんもアイ(藍)を名乗ったのだろうな。
中臣鎌足の墓は最初安威にあったといわれているくらいで、中臣鎌足は三島に住んでいたこともあり、縁の強い土地らしい。本当に中臣鎌足の勧請だったのかもしれない。それで、神社の祭祀をつとめたのが藍さんだったのかも。
散歩していてできてきたイメージでは、昔、開拓したい土地があると、そこに神社をつくり、その社家(神社を祀る人々)として開拓民たちを移住させていた感じがする。鎌足と中大兄皇子らの先導で行われた大化の改新で制度が変えられたのかもしれないけれど、実情はそうは変わらなかったみたい。
安威を鎌足さんが開拓しようと安威神社を祀り、社家として同族の人々を移住させた、とかかもしれない。全く未開の地だったわけではなく、既に集落はあっただろうけれど、同族の者たちをその合間に参入させたのかも。
耳原交番北交差点の信号を渡って、さらに東に進んでいった。名神高速の下を通り、すぐに安威川を渡った。橋の名前は太田橋。小さな公園があって、その左手の道を行くのが西国街道。
西国街道の説明があり、鳥居があった。
太田東芝町交差点に向かって進んでいっていると、右手方向(南)が古そうだった。
南に行くと磯良神社と案内があった。1キロほどで、前に行った磯良神社や新屋神社(西河原)だったみたい。
太田東芝町交差点で広いバス通りに交差して、このあたりはリニューアルされた感があった。西国街道も「雲見坂」として、ここだけ道が広く、新しくなっていた。
右手では広い敷地の大規模工事中だった。工事に先駆けて、まず道路をリニューアルさせたのかな。
東芝町というだけにここに東芝があったのかな?
左手に太田神社の案内が現れた。地名は茨木市太田だった。
神社の案内に従って北に進んだ。参道の左側は緑地のようになっているのだけれど、草ぼうぼうで、マムシに注意とか書かれていて、歩く気になれなかった。
すぐそばは新興住宅地で、売り出される頃にはきれいに整備されて、子どもを遊ばせられるような素敵なところだったのかもしれない。けれどその後、放置されて、マムシも目撃されるようになったのかな。
境内の中まで「犬の糞はきちんと持ち帰って」みたいな札がかけられていて、みんなに開放されている感じの神社だった。他には誰もいなくて、静かだった。
式内社だけれど、詳しいことは分からなくなっているらしい。で、この時は気づかなかったけれど、神社のすぐ横(東)が太田茶臼山古墳だった。
神社で行き止まりになっていて、元の道に戻って、雲見坂を進んで行った。
ゆるい上りの道で、雲見坂というのもよく分かった。上っている間、坂の向こうに雲だけが見えていた。
右手の大規模工事現場(東芝跡地?)を過ぎたところを南に行けば、太田廃寺跡のようだった。
工事現場を右手の低地に見下ろしながら、少し南に歩いて行ってみた。見晴らしのいい場所だったことだろう。空が広くて、遠くまで広がる平野を見渡せた。
このあたりは太田連がいたところだとされているそうだ。飛鳥時代の終わり頃、氏寺だったのだろう太田廃寺を建てたのは太田連だったのかな?
太田連もまた中臣系らしかった。
そして雲見坂に戻ってそのまま北に進むと、太田茶臼山古墳が見えた。ここは継体天皇陵とされてきたところ。
けれど5世紀半ばの古墳で、継体天皇より古い時代のものだった。三島の藍野にあったという継体天皇陵は、本当はもう少し(1キロ弱)東にある今城塚古墳(6世紀前半)じゃないかとされているそうだ。
天皇陵は長い年月の間に所在不明になっていって、そこまで重要視もされていなかったみたい。江戸時代になってやっと天皇陵の場所をはっきりさせようということになったけれどもうよく分からなくなっていて、けっこう適当に決めちゃったみたい。〇〇天皇陵ということになってはいるけれどおそらく違うだろうってところがかなりあるそうだ。
藍は広い地域を指し、少なくとも安威から今城塚古墳あたりまでは藍野だったらしい。
前に南茨木駅近くで雨宿りがてら行った文化財資料館で知ったことには、三島には5世紀になって大きな前方後円墳が急に造られ始めたそうだ。それが太田茶臼山古墳などで、その少し前の古市古墳群との共通点が見られるのだって。
継体天皇陵が三島につくられるより前から、三島に大きな前方後円墳がつくられ始めていたのね。継体天皇は26代天皇。初代天皇になった神武天皇から26代目。孫には推古天皇らがいるから、飛鳥時代ももう近い。
15代応神天皇陵が古市古墳群で一番大きな古墳で、16代仁徳天皇陵(ここも本当は仁徳天皇陵ではないみたいだけれど)が百舌鳥古墳群で一番大きな古墳。その仁徳天皇の孫に21代雄略天皇がいて、この人は物部氏らを重用し、武力で独裁者となって、邪魔者たちを次々消していったらしい。
次期天皇の候補者らも次々消していったから、22代天皇になった息子が妻も持たずに亡くなった後、天皇のなりてがなくて困ってしまった。
雄略天皇の毒牙から逃れていた、雄略天皇の甥っ子たちが見つけ出されたりで23、24、25代天皇はどうにかなったけれど、ついになり手がなくなった。
そこで応神天皇の5世孫(ひ孫の孫)のヲホドって人が物部氏や大伴氏の勧誘を受けて天皇に。近畿圏には住んでいなかった人で、前に行った四条畷で知ったことには、勧誘を受けて、四条畷界隈に住む知人の河内馬飼さんに相談したりしていたみたい。
そして樟葉で即位した。
そんな人の墓が藍野にあるということは、太田茶臼山古墳の被葬者ともつながりがあったってことなのかな。
古墳を見てから西国街道に戻っていると、古墳への参道みたいなところが長く続いているのが見えた。参拝人もぽつぽつといた。気になったけれど、疲れてきていてスルー。
西国街道の続きを進むと右手に八坂神社があった。このあたりから高槻市に入ったみたい。
素敵な水路と交差して、左手にパン屋を見つけたけれど、定休日。狭いバス通り(府道115号萩谷西五百住線)に出ると、右折して西国街道を離れて南下していった。
左手に春日神社があって、どんどん行くと摂津富田駅(JR東海道線)に到着。
この日、初めて歩いた西国街道は、そんなには面白くない道だった。旧家もあるけれど情緒に乏しくて、せっかくすごい古墳もあるのに、住宅街の中に埋没しかけていた。
ひなたは暑いくらいの一日で、疲れている中、歩いたのもあったかな。