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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
8/42

亀岡街道を茨木から

雨の翌日、9月だったけれど予想最高気温は25℃だった日、JR茨木駅に向かった。

駅を降りると、西駅前東交差点から西駅前交差点へ。この道はエキスポロードというのだって。ずっとそのまま西に行くと、エキスポ(国際博覧会)の会場だった万博記念公園があるようだった。

ブルーシートが目立っていて、工事中のところも多かった。

西駅前交差点の次の信号で交差するのが亀岡街道。大阪の高麗橋から亀岡のほうまで続く道で、この道を通って丹波の炭や農産物などが大阪市内に運ばれたのだって。

前の年の夏前に高麗橋から北に何度かに分けて、ここまで歩いてきていた。道中には吹田、岸辺、宇野辺うのべなど、興味深いところが多々あった。その続きを歩くべく右折。

しばらく北上していくと、古そうな道標が現れて、その左手は古そうな集落だった。

もっと北上してから、中穂積春日神社に寄り道すべく西に向かうつもりだったのだけれど、ここからジグザグに北西方向に歩いて行った。

旧家や水路の多い集落だった。大和棟かと思われる建物もあちこちにあった。これは江戸期のものでは・・・って感じの建物も。

それから上りの道を西に進んでいった。赤のヒガンバナと白のヒガンバナが咲いていた。濡れた稲のにおいがした。虫の音がすぐそばでしていた。

上り道の向こうには高速道路が見えていた。高い位置を近代的な壁で囲まれて走る名神高速。散歩していると、こんな近代的な高速がつくられているところって、たいてい最近まで田舎だったところだった。ここもこんな坂の上にある田舎だったから、高速が走ることになったのだろうな。

名神高速の手前、右手に石の階段が現れた。

虫と鳥の鳴き声のする石の階段を上って行ったところに中穂積春日神社はあった。けっこう高い位置にある境内には誰もいなかった。木が倒れ、立入禁止の黄色いロープがはられていた。神燈台かなってものも倒れていたりした。北大阪地震も、台風21号もあったからなあ。復旧が思い切り後回しになっている感じだった。蚊がやたらと多かった。

中穂積春日神社について詳細は不詳だそうだ。


神武天皇より前から近畿にいたニギハヤヒの息子がウマシマジで、その子孫に10代崇神天皇の伯父のイカガシコオがいて、その子孫が物部氏。物部氏はニギハヤヒの子孫の中で本流(本家筋ってことかな)ではないらしく、本流は穂積さんだったそうだ。

地名が穂積というからには穂積さんに関わる土地だったのかな? すごく早い、紀元前何百年って頃から水稲栽培が行われていた茨木は、穂積って名の人々の住処にふさわしい感じがする。

けれど春日神社は中臣氏や藤原氏の氏神だった。

和泉の春木と同じで、春日大社の荘園だったとかで、穂積だろうとも春日神社を祀るようになったのかな??


ここは見付山なる山の上らしく、神社の境内には「穂積城跡」とあった。

見晴らしがよくて、現代でも遠くまで見渡せた。人のいない、黄色いロープのはられた、うそみたいに素敵なところだった。

穂積城についても詳細は不明。吹田に山田城があったらしく、戦国時代にはその支城が13あったそうだ。穂積城はその一つだったと伝わるのだって。

前に伊射奈岐いざなぎ神社に行こうとして山田あたりを歩き、迷子になりそうで断念したことがあった。あのあたりにかつて山田城があったんだな。万博公園の南のあたりだった。

元の道に戻るのに、階段の他にコンクリの坂道もあったから、坂道から降りてみた。途中、さびれた公園(中穂積公園)とさびれたトイレがあった。

ここをもう少し北に進めば、上穂積春日神社だったのかな。上穂積春日神社にも寄ってみるつもりだったから、このまま北上すればよかったのかも。

けれど亀岡街道に戻り、亀岡街道を北上して行った。途中、見付山公園があった。ダイエーや病院もあり、便利な下町の感じがした。

左手に上穂積公園が現れて、再び西の高台にある春日神社(上穂積)に寄り道しに左折。

上穂積公園はまだ低地の部分にあって、奥に広い公園だった。けっこう人が寛ぎに来ていた。

ここには「穂積寺跡」とあった。寺についての説明板も設置されていた。古代、官道に郡衙(郡の役所)や寺院が置かれていた頃、ここに寺院が建っていたと思われるのだって。寺院には大領(郡の長官)が関わっていたというから、官の性質が強かったのかな。ここの大領は穂積さんだったのかな?

西に坂を上って行き、名神高速の下を通り抜けると、そのすぐ向こうが上穂積春日神社だった。

ここも地震やらで大きな被害を受けたのか、重機が入って工事をしているところだった。高速の横にあるし、重機が目立っているし、ここは中穂積春日神社のような古さは感じられなかったのだけれど、中に入ればまた別だったのかもしれない。けれど立入禁止。

ここも詳細は不詳なのかな。

こんなに詳細不詳なのは、戦乱があったからかな。穂積城があったくらいだから戦場となり、荒れ果ててしまったのかもしれない。

再び亀岡街道に戻るべく東に道を下っていった。振り返ると、高速の向こうに大きな塔がつきでていて、目立っていた。これは上穂積春日神社の近くの冥応寺なるお寺(昭和の新興宗教みたい)のものだったみたい。

田舎町だったのだろうなあって感じのところだった。今も少々田舎かな。はり紙に「9月10日ころ、狩るブドウを差し上げますと約束した方、遠慮なく来てください」みたいなことが書かれていた。


亀岡街道の続きを北上していくと、右手も古そうな感じがした。倍賀へが春日神社があるようだった。

茨木には春日神社が9つあるのだって。中穂積春日大社、上穂積春日大社、倍賀春日大社(地名も春日)のほか、下穂積もあって、あとは庄、清水、銭原、天王、豊川だって。

生駒山の西麓あたりもそうだった。春日神社でいっぱいだった。いつの時代にか、中臣氏もしくは藤原氏が力をもっていたところなのだろうな。

もう少し行くと道が2つに分かれ、左手に向かっていった。次の分かれ道は右に。どちらに行っても結局は名神高速の西、郡ってところにたどり着く。

ゆるい上りの道を進み、名神高速の下を通って、そばの信号を渡って、前方の道へ進んでいった。

少々田舎の様相だけれど、家はずっと建ち並んでいた。旧家も多くて、地蔵が景色にとけこんでいた。

旧家の前で、井戸だったのじゃないかなってところにかぶせるように地蔵がまつられていた。井戸って、特別なもので、使わなくなってもそこに地蔵をまつっているんだな。今まであちこちで見てきた地蔵、大きな旧家の中にある地蔵なんかは特に、元は井戸だったところなのかもしれないなと、初めて思い至った。

左手に郡公民館が現れて、「妙見山献燈」とある石の台が残されていた。能勢の妙見山のことかな?

もう少し行くと郡神社の案内が出ていた。


寄り道すべく、亀岡街道から離れて、郡神社の方向に左折していった。

鳥居が現れたけれど、あたりはすっかり新興住宅地だった。そこに鳥居があることを考慮に入れて、新興住宅地がデザインされた感じだった。

大きな鳥居をくぐってもその向こうには新興住宅地が続いていた。旧家もぽつぽつ見えた。

そして神社が現れた。小さめだけれど雰囲気のある古い神社だった。「日露役記念」の大きな碑などがあった。ここも地震の被害を受けたようで、社務所への階段が崩壊していた。

そして蚊がいっぱいいた。こんなに蚊に悩まされるのも今季最後かなあと思いつつ歩いた(そうでもなかった)。

ここは摂津国島下郡の郡衙があったところで、それが「郡」という地名にも残っているのだそうだ。三島郡が島上郡と島下郡とに分かれていたのだって。

郡神社はその地名からとられたもので、ここも詳細不明らしい。式内社ではない。

穂積寺跡だという上穂積公園はこの南の方だった。亀岡街道のあたりか、もう少し西寄りに古代の官道が通っていて、その道沿いに北に郡衙が、南に寺院があった感じかな。

更に西に歩いていくと、上り道になっていて、さくら公園なる公園があった。周辺は新しそうな新興住宅地だった。公園は高台にあって遠くまで見晴らせたけれど、見えるのは一面、住宅ばかり。

見晴らしのよさで、かつては守りの要所だったのじゃないかなという感じがした。このあたりを通っていた官道を往来する人の姿も、遠くまで見渡せたのじゃないかな。もっと昔には、地元の玉手島みたいに守りの要所の島だったりしたかもしれないと感じた。

この界隈には郡山城があったみたい。これも詳細は不明。

お墓の方に階段を下っていくと乗雲寺に出た。

複雑な地形と道で、もうどこを歩いているのかも分からなくなっていたけれど、そばには郡神社の鳥居が見えていた。まずは鳥居に戻り、そこから亀岡街道に戻った。気がつかなかったけれど、神社の裏は浪速少年院だったみたい。

大阪府には交野(女子用)、阪南とここに少年院があるのだって。堺にもなかったかな?と思ったらあれは少年鑑別所で、また別ものみたい。鑑別所と刑務所は大阪府に堺だけにあるらしい。拘置所も大阪府に一か所だけで、都島にあるのだって。


亀岡街道の続きを北上していった。

郡さんなんて旧家もあった。そして近くでは、かなり大きなマンションが建築中だった。

中河原交差点で国道171号線と交差して、久々に都会の様相になった。ここから道が広くなった。前方には山がだいぶ近づいて見えていた。

この北が中河原町のようだった。西の宿久庄あたりから勝尾寺川が流れてきて、中河原町の北側を通って、すぐ茨木川に合流。茨木川は北の福井あたりから流れてきて、勝尾寺川と合流すると、南東に向かっていき、すぐに西河原あたりで安威川と合流。

前に元茨木川緑道を歩いて知ったことには、元は茨木川と安威川は並行して流れ、もっと南のほうで合流していた。けれど水害対策で西河原あたりで合流するように工事で変えられた。

川の多いあたりで、大昔にはさくら公園あたりが島だったというのもそう的外れでもないかもしれないな、と思った。

右手の商業施設の外にパン屋を見つけたけれど、閉まっていた。

がっかりしたけれど、近くにパン屋があるという情報を入手。この頃、おかあさんがやっとスマホをゲットしていて、グーグルマップで調べたのだ。本当にすばらしい、スマホって。

アル・プラザなる商業施設を過ぎて交差点を右折すると、北茨木名店街という名の店が少しだけある短い通りがあって、ここでパンを買った。

300円以上買うとスタンプがもらえて、スタンプを集めると300円引き、または店長との記念撮影だって。

元の道に戻って北上を続けた。勝尾寺川の手前の信号のところで、右手になにやらあったので行ってみると、西国街道との辻だった。「中河原」とある道標や、西国街道についての説明もあった。

西国街道は、奈良時代には山陽道として、平安時代、江戸時代には軍用道路として活躍した街道らしい。ここはそんな西国街道と亀岡街道との辻で、古くは三嶋路、清阪越道も通っていたのだって。

清阪越道は亀岡街道と分かれ、清阪峠を越えて亀岡に向かう道かな。亀岡街道より東を北上して行く。

三嶋路は難波宮からほぼ北上し、長柄や吹田の渡しで淀川を渡って宇野辺へ、そこから亀岡街道でここまでやって来た後は山陽道(西国街道)へと進んでいくらしい。

三嶋路は8世紀にはあった道だそうだ。聖武天皇も通ったそうで、穂積寺の建つ官道というのはこれだったのかな?

いろいろ研究もされているみたいで、説もいろいろあるようだった。三嶋路は宇野辺から東進するルートもあり、高槻の三島江へと進めたとか、三嶋路の一部がのちに西国街道の一部になったとか。

和泉と近つ飛鳥を結んでいた茅渟道や丹比道なんかと同じように、三嶋に有力な人々がいて、彼らが拓いた道が古い古い時代からあったのかな。そしてそれがやがて官道になっていったのかな。


ここ、中河原は中川清秀さんの生まれたところでもあるらしかった。

中川清秀って、白井河原の戦いで勝利し、茨木城主になった人だって。この近くにある新屋神社にもゆかりがあるらしい。

つかえていた池田さんが反信長派だったので、荒木村重と協力して、信長派の和田って幕臣を倒した。それが白井河原の戦い。和田さんに味方していた茨木氏の茨木城も落城。中川清秀が代わって茨木城に入ったそうだ。

白井河原の戦いは、VS.信長というよりも、それまで力を蓄えてきた人たちの下克上の戦いだったみたい。この戦いの頃、和田さん、茨木さん、伊丹さん、池田さんら、それまでのエリートたちが力を失っていって、代わって中川さんたちが台頭。

信長(幕府)VS.三好さん(新興勢力)という大きな戦いがあって、その下に同じように和田さん(幕臣)VS.中川さんたち(新興勢力)という戦いがあったという感じかな。

中川清秀は賤ケ岳の戦い(秀吉VS.柴田勝家)では秀吉側について戦い、戦死。享年42歳。

妹が古田織部の妻だそうだ。茨木の川端康成文学館の近くを散歩していた時、古田織部の屋敷跡があって、「妻が茨木城城主の妹であったので、ここに屋敷があった」ということだった。その茨木城城主が、中川清秀ね。高山右近とは従兄弟いとこだったらしい。

この先、亀岡街道はずっと北に続き、けれど、しばらくずっと駅がない。終点の亀岡にはあるようだけれど、かなり遠いようだし、終点まで歩くのはまた次回とするつもり。

西国街道で東に向かい、2キロ余り先の摂津富田駅から帰ろうかな、と思っていた。

その前に、もう少し亀岡街道を進むと新屋坐天照御魂神社(福井)なので、そこまでだけは亀岡街道を進んでみることにした。

新屋坐にいやにます天照御魂神社(新屋神社)は3つあって、西福井と宿久庄と西河原。それぞれ茨木川、勝尾寺川、安威川の近くに鎮座している感じだな。

前に西河原の新屋神社には行っていた。祭神の天照御魂は天照国照彦あまてるくにてるひこ火明ほあかり命ということだった。


勝尾寺川を中河原橋で越えた。いいところだった。前方には山、集落が見えていて、かつてののどかな姿を思い描けた。

すぐの信号で、ここまで歩いてきたバス通り(府道110号余野茨木線)を離れて、一本右側の道を北上していった。ここが亀岡街道。

古い集落だった。旧家が建ち並んでいるというのではなくて、田んぼだった感じのところ。しばらくは近くのバス通りの音がうるさかった。

下福井自治会館があり、そのうち水路と田んぼの中の小道の感じになって、虫の音が聞こえる静けさになった。古そうな道標が現れて、「妙見」の文字が見えた。江戸時代、妙見参りがはやって、道々妙見への道標がたてられたみたい。

川を新屋橋で渡った。小さな川だったけれど、茨木川。このあたりでは佐保川と呼ぶようだった。左手に遍照寺が現れて、ここから空気が変わった感じがした。

左手に古い碑なんかが現れて、その先には宮橋なる橋がかけられていた。宮橋を渡ると、目の前に鳥居。鳥居に至る前に、110号線を通った。バス停があって、JR茨木駅行きのバスがきていた。JR茨木駅からここまでバスで来られるんだな。かつてはバスなんてあっても本数は少ない村落だったのではないかと見受けられたけれど、今は便利になっているのかな。きれいなバス通りで、この通りが幹線道路として最近整備されて、便利になってきているのだろうな、という感じがした。

右(北)に行くと「キリシタン遺跡」と標識に書かれていた。ずっと行くと千提寺があるみたい。隠れキリシタンの里で、十字架の入った江戸時代の墓石も見つかっているそうだ。

バス通りの信号を渡ると鳥居があり、西に広い車道の上りの道が続いていた。そこに新屋古墳群についての説明が書かれていた。神社の裏山一帯、東の斜面に6世紀後半から7世紀にかけての古墳が30基ほど見つかっているのだって。

神社の境内から裏山に入っていけるみたいだった。


10代崇神天皇のとき、天照御魂大神が当地に降臨。イカガシコオがそれを祭ったそうだ。

崇神天皇の伯父で、物部氏の祖のイカガシコオは各地に神社を祀るなどする重職に就いていたみたいで、三輪山のオオモノヌシを祀らせるため、オオタタネコを探し出してきたのもイカガシコオだった。

のちに神功皇后の時、禊をして三韓征伐成功を祈り、天照御魂大神の荒魂と幸魂を川に沿って祭ったそうだ。そのうちの1つが前に行った西河原の新屋神社。そしてもう1つがここ。

神社はなかなかに広かった。ほぼ山の中って感じだった。

古墳は6,7世紀のものなら、神功皇后よりもだいぶ後の話だった。けれどここもいろいろとなにも分かっていない感じだった。神社付近には古墳の案内なども一切なかった。

亀岡街道はここまで。あとは最寄り駅の1つ、摂津富田駅から帰るべく、東に向かうつもり。

遍照寺まで戻って、寺から正面にまっすぐ伸びる道を東に向かっていった。

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