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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
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唐国の物部氏

左手に小さな公園が現れて道が2つに分かれると、左手に進んでいった。このあたりに東山公園があるはずで、ちょっと寄ってみるつもりだった。

池や東山公園の駐車場には行きついたけれど、東山公園が見つからなかった。公園らしいところが見えても入り口がなかった。気づくと住宅街の中、そこだけ山のまま取り残されたようなところを歩いていた。人っ子ひとりいない山の上であきらめて、坂を下っていくことにした。

途中、狛犬や灯篭が不用品のように置かれているところがあった。ニュータウン造成にあたり、廃止された神社があったとかかなあ?

道を下っていくと府道40号岸和田牛滝山貝塚線にたどり着き、この道を南下していった。広い道沿いには大きな店舗が並んで、ここは都会の様相だった。あらゆる外食チェーン店があった。

フタツ池交差点で左折。東の和泉中央駅に向かっていった。

また上りの道だった。

道は2つに分かれたけれど、どちらも駅に向かうようで、左側の道(府道223号三林岡山線)を歩いて行った。

広めの道だったけれど、40号線とは違い、歩道の脇は荒れていた。草ぼうぼうで、前に奈良街道を歩いていて道を間違えていった矢田丘陵あたりを思い出した。広い公園はあるけれど、思うように開発が進まなかったのか、道が荒れて草ぼうぼうになっていたあたり。

ここも開発が思うように進んでいないのかな? それともこれから開発されていくのかな。

車はいっぱい通るけれど、歩道には人の姿は全くなかった。歩道の横は竹林になっていた。上りの道が終わると、今度は下りになった。竹林の峠だったところなのかな。

途中、岸和田市から和泉市に入ったようだった。地名は唐国町。住宅展示場が現れた。

旧家が散見されるようになって、府道226号父鬼和気線と交差した。交差点には「唐国町拾伍人組」とある大きな献灯台がたてられていた。

226号線を北上すれば箕形町で、ここを北上して摩湯山古墳に向かっても面白そうだったな、と思った。南下すれば前に行った久保惣記念美術館。更に行くと父鬼だって。

高いところを走っている高速(阪和自動車道)に近づき、そばで見ると、それはすごい大規模な構造物だった。

松尾川は唐国大橋で渡った。ここらは平地になっていて、旧家もいっぱい見えた。

北には箕形町、南には内田町。どちらも古そうな集落だったところ。川のそばの谷間に古い集落があり、その間の丘陵にニュータウンが造られた、というのがよく分かった。広い223号線、阪和自動車道、いっぱいの車、そこに蛇行して流れる川と旧家の、不思議な光景だった。

それから唐国中交差点があって、そこには「唐国町青年団」の大きな献灯台がたてられていた。

献灯台はだんじりに先立って立てられ、「青年団」は青年で結成された、だんじりを曳く人たちのことらしい。

「十五人組」とかの「○○組」は、地区によって呼び名も変わる、青年団を卒業した男たちの組。だんじりの舵をとる人たちなのだって。

ここ唐国町は6世紀頃(25代武烈天皇の頃)、物部系氏族の唐国さんが住んでいたとされているそうだ。唐国に外遊に行っていたか、生活をしていたかして、その後、帰って来たから唐国さんだそうだ。

藤井寺の辛国からくに神社にもそんな話があった。21代雄略天皇の頃(5世紀頃)、餌香えが長野邑(藤井寺市)に物部さんが領地をもらったそうだ。後に物部系氏族の辛国(唐国)さんが住み、神社を祭るようになって、そのことから辛国神社と称されるようになったのでは、とされている。

唐国って、加羅(伽耶)のことだとされているみたい。声を大きくしては言えないみたいだけれど、加羅は朝鮮半島の南部にあった小国で、当時はほぼ日本の領土だった、という説もあるみたい。記紀によれば神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)の三韓征伐(朝鮮半島の多くの部分を支配下においたこと)もあったそうだし、そういう時代。


5世紀や6世紀になって、和泉にも物部系の人々が住み始めたのかな?

むかしむかし、初代神武天皇は九州から上京(東征)してきて、大和入りした。大和に入るまでには近畿のボスたちとの戦いがあって、ラスボスがナガスネヒコ(トミヒコ)。最初の戦いではこてんぱんにやられたけれど、ナガスネヒコの義理の弟(妹の夫)、ニギハヤヒとその息子のウマシマジが神武天皇側について、神武天皇は勝利。

そのニギハヤヒやウマシマジの子孫にイカガシコメがいて、9代天皇の皇后になり、10代崇神天皇を産んでいる。イカガシコメの兄はイカガシコオ。交野かたのや枚方を本拠地にしていて肩野かたの物部を名乗り、その子孫が物部氏。有名なのは物部守屋かな。

そして物部氏から分かれた氏族が「物部系」ね。弓削さん、唐国さんなどなどがいる。

和泉地方を歩いていると、中臣系氏族が住んでいたというところがいっぱいだった。中臣系大鳥おおとりさんのいたおおとり、中臣系殿木とのきさんのいた富木とのき、中臣系民直みたみのあたいのいた美木多(美多彌みたみ神社がある)、中臣系蜂田さんのいた蜂田。

神武天皇に九州からついてきた重臣に天種子アメノタネコという人がいたらしく、この人の子孫が中臣氏。有名なのは中臣鎌足かな。藤原の姓をもらい、鎌足の息子が藤原不比等。県犬養美千代さんとの間に光明皇后がいる。

和泉の黒石あたりを歩いていると、どこもかしこも藤原さんだらけだった。

和泉には中臣系の人々もいつからか住み始めたんだな。

アメノタネコの更に先祖はアメノコヤネ。アマテラスって神がいて、その頃葦原中国を支配していたオオクニヌシに国譲りさせ、自分の孫のニニギを葦原中国に降臨させた。随行した者の一人がアメノコヤネ。

ニニギの子孫が神武天皇で、アメノコヤネの子孫がアメノタネコ。


このあたり一帯がかつては唐国だったところで、和泉市の春木町にある春日神社も、元は物部布留神社だったと思われるのだって。

布留ふるは物部氏に関わりが深い言葉のようだった。物部氏の氏神の石上いそのかみ神宮は崇神天皇の時、石上布留高庭に祀られたそうだ。祭神は布留御魂大神など。

春木町は松尾川を南に行ったところにあって、中世には春日大社(中臣氏の氏神)の荘園になっていたらしく、それで春日神社に変わってしまったみたい。

物部守屋が蘇我氏によって殺されてしまい、物部系氏族は力がなくなってしまったみたいだからなあ。それに比して中臣氏は、後には藤原氏になって栄華を極めた。

松尾川を過ぎると、また道は上りになっていった。

南は万町まんちょう。契沖が滞在していた伏屋があったというところ。

伏屋さんは古くからの庄屋で、知識人で蔵書も多く、契沖なる学僧が邸宅内に庵をつくってもらい、そこで蔵書を読んで研究に励んだそうだ。一族には有名な伏屋素狄がいるということだった。

左手に中央公園が現れて、ここで休憩した。このあたりの公園はどこもだけれど、丘陵部の一部や池なんかの、元の姿のまま公園になっていて、そこに散策路や遊具があしらわれている感じ。

ここも周りはマンションなどで囲われているけれど、ニュータウンに残された自然が公園になっていて、広くて、人もけっこういた。しばしのんびりと過ごし、一番奥の方まで進んで公園から出てみれば、和泉中央駅のすぐそばだった。

帰りの電車に乗っていると、空が暗くなってきた。

そしておうちの最寄り駅で降りたとたん、小雨が降り始めた。

散歩の間はずっと雨は降らず、しかも涼しくて最高だったなあと、喜んで少々濡れながら帰った。

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