摩湯山古墳
それから和泉に行った。溝杭神社に行かねばな、と夏の間、思っていたけれど、和泉の摩湯山古墳も気になっていた。
4世紀後半の和泉黄金塚古墳、角凝命(ツヌコリ)を祀る波太神社、全国の池田さんの発祥地だという池田や、ワタツミの子孫の住む八木もある、そんな和泉地方で最大の大きさなのが摩湯山古墳らしかった。和泉地方では早い時期につくられた前方後円墳であるらしい。
夜から降り始めた雨がまだ降っていた。けれど日中は雨が上がって、曇りになる予報だった。予想最高気温は24℃。雨が上がって気温が24℃までなら最高だった。
まだ小雨の降りしきる中、天気予報を信じて電車に乗った。中百舌鳥駅を過ぎてもまだ外の人たちは傘をさしていた。
そして和泉中央駅(泉北高速)に降り立つと、雨は上がっていた。今まで、曇予報でも雨に降られたりすることもあったので、こんなにうまく事が運ぶと、びっくりした。
イズミヤ方面に出てしまったけれど、進むのは反対方向のようだった。いぶき野大橋東交差点(駅の南東側)からいぶき野大橋西交差点(駅の北西側)に行くべく、いぶき野大橋を渡った。下には川が流れているのではなく、泉北高速や車道が走っていた。
車道は阪和自動車道で、前に伏屋を歩いていたときも橋の下のほうに見た高速道だった。眼下に高速と線路を見ながら、泉北ニュータウンを造るにあたって、どれだけの大規模工事が行われたんだと改めてびっくりした。
いぶき野大橋の続きの道をずっと進んでいった。
ここは「いぶき野」なる町で、和泉トリヴェール(大阪府が開発した泉北ニュータウンの西隣にURが開発したニュータウン)の一部だった。ニュータウンは大規模にきれいに造られすぎていて面白みはなかったから、和泉中央駅の西の松尾川沿いを北上して行ってもよかったな、と後で思った。
でもそのときは勝手が分からなくて、とりあえず「いたちはら公園」という気になる名前の公園を目指してニュータウンを進んで行った。
周りにはマンションがきれいに建ち並んでいた。広々と敷地がとられ、緑も多い。
人工的すぎない近代都市ぶりがなんだかよかった。野の花が咲き、枯れた草は雨に濡れて、虫が鳴いていた。車も多い、すごい工事でつくられたのだろう都会なのだけれど、自然が残されている。
「10月6日 祭礼につき迂回をお願いします」とところどころに書かれているのが、そぐわなかった。
これまで散歩していて学んだことには、泉北ニュータウンは、決して新しい土地なんかではない。相当に古い歴史があって、ただ川沿いの谷に古い集落はあり、丘陵部は山のままだったから、そこを切り拓いてニュータウンが造られた。
和泉トリヴェールも同じで、丘陵部はニュータウンになったけれど、谷あいには古くからの集落があって、そこで祭礼があるのかな。
調べてみると、トリヴェール和泉は、池田と松尾の丘陵部(和泉中央丘陵)につくられているそうだ。西に松尾川(大津川の支流の牛滝川の支流)が流れる松尾があり、東に槙尾川(大津川の支流)の流れる池田がある。
左手にいしたちはら公園が現れた。公園には小山があり、池があった。
公園の西側は一段低くなっていて、そこにも池があった。その西側はさらに低く、谷になっているようだった(松尾谷だな)。低地の田畑を潤していた池だったのかな?
北松尾の「いしたちはら」という地名だったところがニュータウンの一部になり、元々あった池(地獄池)周辺をそのまま公園にしたのかな?
西側には弥生2号緑地があるようで、ここにも行ってみた。
ニュータウンらしく住宅が整理されてずらりと並んだ勾配の途中に緑地はあった。けれどわたしたちの行った東側からは入れないようになっていて、中は草ぼうぼうだった。そこにも池があるようだった。宅地が販売される時には、感じよく整備されていた緑地だったのじゃないかな。
散歩していて学んだけれど、分譲するときって感じよく公園や遊歩道が整備される。けれど人の手に渡ったら、あとは荒れ放題ということも多い。ここも元からあった池の周辺に感じよく整備された公園だったのだろうな。
西の谷に向かって道を下って行くと、箕形町北交差点だった。
交差点の向こうは駐車場で、その先は崖になっていて、下には川が流れていた。
少し北(右)に行くと、川の方に降りていける道があった。北に向かう途中に、いい感じのパン屋さんがあった。けれど、定休日。この日、見つけためぼしいお店はここだけだったというのに、閉まっていたからおやつなしだった。残念無念。
川に向かって坂を下っていくと、すぐ横のたんぼでは、いい感じに稲が実ってきていた。
松尾川で右折して、川沿いを北上していくつもりだった。北上と言うか、このあたりでは川はほぼ西に向かって流れていたから、西進かな。
けれど目の前の集落が古くて面白そうで、つい箕形橋で川を渡り、直進していった。
集落は箕形町で、古そうなところだった。立派な旧家あり、ノコギリ屋根の古い建物あり。一帯は高橋さんばかりだった。府道226号父鬼和気線が走っていた。
川に戻って西進していくと、儀与門橋なんて面白い名前の話があった。いわれについては分からなかった。
箕形の地名の由来は、地図上で箕の形に似ている町だからなんだとか。
南北朝時代の南朝側の砦(箕形城)があったと伝わるそうだ。北朝方だった日根野さんにやられて廃城となったのだって。
松尾川が府道226号線と交差するところに八阪神社があった。テントなどがはられて、祭礼の準備中のようだった。
祭礼はだんじり祭り。「松尾連合だんじり祭り」があって、北松尾地区から内田(前に行った)、唐国(この後に行った)、箕形、南松尾地区から久井、春木、他が登場するらしかった。
八阪神社は明治時代、神社を減らしてしまおうという政策があって、春木に合祀されたそうだ。けれど昭和になって、箕形に帰ってきた。
公園や小さな公民館と一緒の敷地にあり、公民館とは隣り合って並んでいた。割拝殿というやつだった。
松尾川の向こうには、消防器具庫と地車庫が見えていた。
もう少し川沿いを行くと高橋という名の橋があって、その向こうに立派な旧家がたっていた。
途中、川が右手に蛇行していく前、ナントカ産業の前で左折して、坂を上っていった。
細い地道なんかも通りながら行くと小さな池に出て、ここで道は2つに分かれていた。右手も左手も古い感じだった。ここは左手の道へ進んでいった。
ちょっとした丘だったところのようだった。和泉市箕形町から岸和田市摩湯町に入っていた。
旧家が多くて、姓などが書かれた半紙(かな?)がはられた台(かな?)が道に立てられていた。神社関係、そして多分、だんじり関係のものなのだろうな。よく分からないけれど、だんじりに際して奉納を行った人の名を貼りだしていく「花台」ってものかな?
左手の坂の上に、玉垣が見えた。こんなところに神社が?と、行ってみた。その全体を覆う苔むした感じ、存在感が、ただものじゃない雰囲気だった。道を進んでいくと、すごく古い建物なども見えた。
淡路神社(犬NG)だった。
淡路神社にはやってくるつもりでいた。一応下調べして散歩に来たから、摩湯山古墳に行って、それからその近くにある淡路神社にも、と思っていた。
けれど引力が強かったか、先に淡路神社にたどり着いた。ここは裏参道のようで、摩湯町公民館が玉垣の中にあり、「摩湯」と書かれた地車庫も見えた。
いったん道を引き返し、元の道の続きを歩いた。
左手にすごい存在感のかなり古い建物があって、これは淡路神社の裏参道方面からも見えていたもの。散歩しているとたまに出会う古い古い集落で、面白かった。
少し右手には正願寺なる寺があった。
前に行った久米田池の東側の岡山に岡山御坊があったそうだ。ここからは西に1kmくらいのところ。
「御坊」って、浄土真宗のお寺かな。その土地で一大勢力となっていた本願寺の拠点。蓮如の息子、実如の創建だったらしい。けれど岡山御坊は、織田信長の軍によって焼かれてしまったそうだ。
そのとき守り抜かれた本尊(聖徳太子作の阿弥陀仏と伝わる)などを、その後も周囲の8つの村で守ってきたらしい。それが額原、尾生、大、箕土路、三田、田治米、岡山、そして摩湯で、ここ摩湯では正願寺がその担い手であったそうだ。
少しだけ上りになった道を進んでいった。すると、目の前に現れた。道路の向こうの池、その向こうに横たわる緑。
摩湯山古墳だ! なんだろう、すぐに分かった。
道路沿いに、花台のすごく大きなものが立てられていた。
摩湯山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)、和泉ではもっとも早い時期の、大型の前方後円墳らしい。
百舌鳥古墳群や古市古墳群よりも早い時代のもの。古市古墳群で一番古い津堂城山古墳とは同じ頃。信太山の丸笠山古墳(4世紀末)や、和泉黄金塚古墳(4世紀末)、大阪市では住吉の帝塚山古墳や酒君塚古墳、生野の御勝山古墳とも同じ頃かな。
丘の上の見晴らしのいい場所に大勢の手でつくられた前方後円墳だったのだろうな。サイズは津堂城山古墳より少し小さいくらい。
今はバス通り(府道223号三林岡山線)の横に存在していた。バス通りに面して池があって、その向こうに小山のように墳丘があった。その小山に向かって一本の道が続いていた。摩湯山古墳に入っていける道のようだったけれど、草が茂り、柵があって、立ち入り禁止になっていた。
その柵の前にバス停(摩湯バス停留所)と、古墳の説明板が並んでいた。説明板によると、西北流する牛滝川と松尾川の間、南からのびる丘陵の西北端に位置しているのだって。
バス通りをもう少し東に進んでいくと、お堂があった。太子堂かな? 南さんが寄進した土地に建てられたと書かれていた。淡路神社の裏参道の付近で見た、ただものじゃない感じの旧家も南さんだった。
もう少し東に行けば、淡路神社の表参道だった。
表参道から淡路神社へ(わたしはバッグで荷物と化して)。バス通りからの表参道は、坂を上って行った先に見えていた裏参道のような古さは感じなかった。
淡路神社も詳細は不明。795年に不破内親王が淡路の伊弉諾神宮から分祀したという説があるそうだ。伊弉諾神宮と伊勢神宮とを結んだ線上にあるらしい。
内親王って、天皇の娘のことだって。不破内親王は聖武天皇の娘。
聖武天皇の妻は、藤原不比等と県犬養美千代の娘の光明子(皇后)が有名だけれど、他にもいて、その一人が県犬養一族の県犬養広刀自。広刀自さんが生んだ子が不破内親王だって。
内親王が分祀した・・・といっても、平和な話ではないみたい。
息子が謀反を起こそうとしたとかで、娘らとともに淡路島に流され、その後、14年ほど経って和泉に移されたんだそうだ。神社創建といわれる795年は和泉に移された年なのだって。
そして内親王のその後の消息は不明。県犬養さんは和泉(箕土路)の出か?とされているから、自分の一族のいる地に移されて、余生を平穏に過ごしたのだったらいいな。
摩湯山古墳に眠る人は角凝命(ツノコリ)の子孫だったのかもしれないな、と思った。
ツヌコリはここをずっと南西に行った和泉鳥取の波太神社に祀られる人で、県犬養さんもまたツヌコリの子孫だそうだ。
ツヌコリの子孫は東大阪から八尾にまたがる広い範囲(三野郷)にもいたらしい。
ツノコリ一族の土地はミノと呼ばれることが多い気がする。隣町の箕形は地図上で形が箕に似ているから箕形になったという説があるようだけれど、かつてはこのあたりもツヌコリの子孫が住んで「ミノ」、昔には潟だったところでミノガタ、そこから箕形になったのかも??
近くの八木氏も無関係ではないのかも。ツヌコリの子孫とワタツミの子孫(八木氏など)が姻戚になったのかな。それで八木郷に久米田池を行基が造成するのに、橘諸兄が尽力したのかも。
橘諸兄は県犬養美千代が藤原不比等と再婚する前に産んだ息子。県犬養美千代の最初の夫は皇族の美努王(三野王)で、橘諸兄の父親はこのミヌ王だった。
式内社淡路神社は、もしかすると不破親王の時代よりずっと前からあったのかもしれなかった。淡路神社のある地には摩湯山古墳の陪塚的な古墳があった形跡があるそうだし。
ツヌコリの子孫で捕鳥氏、鳥取氏の祖となった天湯川田ナさんは製鉄に長けていたイメージだった。和泉出身の天湯川田ナさんが11代垂仁天皇に重用されたころ、和泉に宮をもっていた皇子、イニシキイリヒコ(12代景行天皇の同母兄)は和泉で剣を1000も造っている。
近くでは当時、製鉄を行っていた形跡のある遺跡も見つかっていて、対岸の淡路島ではもっと早い弥生時代の大型の鍛冶工房の跡がいくつも見つかっているらしく、もしかしたらツヌコリの子孫がなんらかの関係のある淡路の神をここに祀ったのかもしれない。
摩湯山古墳の周辺は摩湯山公園になっているみたいで、楽しみにしていた。
淡路神社から、古墳の東側を通る上りの道を南下していった。公園というからにはどこかから入っていけるのだろうな、と思っていた。バス通りから中に入っていけそうな小道は封鎖されていたけれど、古墳に道が面しているらしい東側から入っていけるのじゃないかな、と。
けれど、古墳との間には金網がずっとあった。中は一般的に思う公園ではなさそうだった。草木が茂るばかりだし。
金網の向こうにはツユクサ。そしてたくさんのアロエ。近隣の民家の人が植えたら増えたとかかな?
箕形から淡路神社までの道は、摩湯山古墳と淡路神社を中心にした、古き集落の感じがした。けれどこのあたりは、南に広がる少し古い時代のニュータウンの端っこのようだった。同じようなサイズの家々がきちんと建ち並んでいた。
古墳の周りの池を過ぎると、道は左に曲がり、古墳から離れていった。公園という名ではあるけれど、入ってはいけないらしい。
すぐ右折して、南下していった。