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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
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枝切街道を鳥飼まで

島1丁目交差点から広い15号線を南下していった。なんだか急に体が小さくなった気がするくらい、道が広い。そこを大きなトラックがどんどん行き交っていた。地名は宮島だった。

どうして宮島?と思ったら、「島」と「野々宮」が一緒になって「宮島」になっていた時期があるらしく、それがまた分かれて「島」と「野々宮」と「宮島」になったみたい。

ばかでかい倉庫なんかが並ぶ中に泉北でもないのに「泉北高速」の名が見えた。貨物線の高架下を通り、安威川を渡った。ここから摂津市みたい。

左手には寺と古い家々、右手には墓地が見えていた。

それから右手に新幹線関係のだろう施設が現れ、「テロ対策実施中」の文言が目立ち、上を新幹線が走るのが見えた。新幹線の高架下を歩くとき、上を新幹線がちょうど走りすぎていった。新幹線ってすごく速いはずだけれど、その下はけっこう静かだった。

鳥飼基地南交差点の西に現れる鳥飼中央緑道で南下を続けた。緑道とは名ばかりの、ちょっと木があるだけの道だったけれど。

鳥飼という名は、鳥飼(鳥養とりかい鳥甘とりかい)部からきているそうだ。鳥を飼っていた職能部民ね。


10代天皇のとき、溝杭神社が創建されたということだった。

10代天皇は崇神天皇で、この天皇の頃、実際に近畿を掌握したらしき大王の国、または連合国が実在していたと思われるそうだ。3世紀終わり頃のことで、古墳時代が始まるころ。

その大王もしくは連合国の1国の王が崇神天皇だったのかな。

11代天皇には息子の垂仁天皇がなった。その最初の皇后はサホヒメだった。

けれど兄のサホヒコの反逆に手を貸し、失敗して兄と共に焼死してしまった。その火中で皇子ホムツワケを出産。救い出されたホムツワケは大きくなっても言葉を発することがなかった。

ところがある時、白鳥を見て言葉をしゃべり、心配していた天皇は喜んで、天湯川田ナなる人に白鳥を捕まえに行かせた。そして天湯川田ナさんが捕らえて戻ると、捕鳥ととり(鳥取)の名を与えた。そして、鳥取部および鳥飼部を置いたのだって。

鳥取部は鳥を捕らえる部民で、鳥飼部は捕らえた鳥を育てる部民だったのかな?


天湯川田ナは和泉あたりの王だったらしき角凝命ツヌコリの子孫だけれど、柏原に土地を与えられたのか、高井田(柏原市)に天湯川田神社が鎮座している。大県郡鳥取郷だったところで、天湯川田ナの子孫の鳥取氏が住んでいたらしきところ。

ここから東に淀川あたりまで鳥飼の地名で、淀川の向こうは点野しめの(寝屋川市)だった。点野は禁野と同じで、天皇の狩猟場として一般人の立ち入りを禁じた野原のことだそうだから、このあたりでは鳥飼部の人たちが天皇の鷹狩りの鷹を育てていたとかなのかな?

と、思ったのだけれど、点野が天皇の狩猟場となったのは平安時代で、既に一帯は鳥飼と呼ばれていたそうだ。鷹狩りを始めたのは16代仁徳天皇で、それ以降に禁野とは関係なくここで鷹が飼われていたのかな?

とも思ったのだけれど、どうやら古代、愛玩用に水鳥を捕まえ、飼っていたのではないかと思われるそうだ。

愛玩用の水鳥・・・本当かなあ? 鶏肉も卵も日本人は食べないから愛玩用だったのだろうということみたいだけれど、本当かな。動物だってチャンスがあれば鳥の巣の卵を食べちゃうのに、古代の日本人は違うって根拠は何だろう。

猪甘部いかいべという部民もいて、彼らの仕事は食用だったのだろう豚を育てることだった。豚を食べていたなら鳥も食べていたんじゃないの?と思うけれど・・・。

なんでもあまり信じない方がいいのだ。分かっていないことがいっぱいだし、常識が覆されることもいっぱいみたいだし。なんでも昔には、日本には旧石器時代なんてなかったと思われていたそうだ。こんな島国にそんなに古くから人が住んでいたわけがないというのが常識だったみたい。

同じように、こんな島国で稲作(畑作)をしていたのは朝鮮半島から伝えてもらったからに違いないと思われていたけれど、実は船で中国大陸まで自ら渡り、そこから稲をもらってきて稲作を始めたらしいこと、ウルシ塗なんて中国から教えてもらったに違いないと思われていたけれど、実は日本の方が中国よりずっと前から行っていたらしいことなんかも分かってきたみたい。


このあたりには黒丸城があったそうだ。水尾城と同じく詳細は分からないようだけれど、三好方の砦だったみたい。

前に行った河内飯盛山で三好長慶ながよしという人を知った。戦国時代、最初に天下をとった(政権を握った)のは織田信長と言われてるけれど、この頃ではその前にこの人の名があげられるようになってきているみたい。

歴史って、どんどん見直されているんだな。

前に堺を散歩していて、堺に幕府が開かれていたことを知って驚いたことがあったけれど、その一翼を担ったのが長慶の父。阿波の武士だったらしく、ごたごたあって阿波で暮らしていた将軍の兄弟や上司の細川さんと一緒に、京の将軍や管領(細川さん)を追い出し、代わりに阿波から船で近い堺に新しく幕府をたてたのだって。

同族同士でも戦い合っていた、下剋上もあった時代だったから、堺幕府は間もなく倒されたようだけれど。

息子の長慶は摂津守護代になり、阿波から出てきて摂津に基盤を置き、戦いに生きたみたい。

やがては摂津守護で管領の、代々仕えてきた細川さんや将軍をも凌ぐ力をつけ、畿内一円を手に入れた。将軍もをと言っても、もう将軍も時代に翻弄される傀儡くらいのものでしかなかったみたいだけれど。

河内守護だった畠山さんも倒し、飯盛山城をゲット。キリスト教も容認し、居城としていた飯盛山城でもバテレンの布教活動を許していたから、そこで説教を聞いた大名たちが多くキリシタン大名となっていったってことだった。

弟は実休。久米田の戦いで亡くなった人。前に行った久米田の貝吹山古墳は、実休がほら貝を吹き鳴らしたと言われているところだった。畿内一円が勢力地だっただけに、畿内一円が戦地でもあったんだな。摂津の舎利寺(生野区)、榎並(城東区)、江口(東淀川区)などの他、河内の教興寺(八尾市)、高屋(羽曳野市)など、和泉の久米田、京なども戦場となったそうだ。

けれど長慶さんは飯盛山城で病死。将来を有望視されていた息子もその前に若くして病死していて、その後に三好家の実権を握ったのが三好三人衆。

三人衆は松永久秀って人(長慶の重臣だった人)とともに将軍、足利義輝を暗殺。三人衆はその松永久秀とも結局は戦い、その時の戦いでも畿内いたるところが焼けてしまったそうだ。

戦国時代がなかったら、法隆寺と同じくらいに古いものが近畿にはごろごろあったのだろうなあ、と前に思ったことがあった。

将軍を暗殺した後、三好三人衆と松永久秀は足利義栄って人を将軍にしようとしてがんばったそうだ。その舞台が摂津富田とか総持寺とかだったみたい。

けれど義栄さんは結局は若くして亡くなって、織田信長が後押しした足利義昭が将軍になった。

そのときも三好さんと織田さんは畿内で戦ったらしく、このあたりはその舞台の1つだったのかな。それで三好方の城跡というのが散在しているのかな。


右手に大きな旧家が現れて、次に鳥飼小学校が現れた。その隣の建物は村役場跡だった。向かいにはJAと郵便局。このあたりの一族の人たちが、土地を寄進してそこで小学校や郵便局を始めたかなという感じがした。

実正さねまさ樋についての説明もあった。

ここはあざ実正だったところで、洪水の被害がひどく、長年をかけて、悪水(不要な水)を流す水路を作り、神崎川に流すようにしたらしく、その一部である「実正樋」があった、みたいなことが書かれていた。当時はいまいち意味がよく分からなかったのだけれど。

このまま進んで行けば、淀川だった。

その前に藤森神社なる神社に寄り道することにして、次の信号を右折していった。このあたりはなかなかに古そうな集落だった。

御牧山安楽寺があり、鳥飼下3丁目南交差点を右折。少し行くと「御牧跡」の碑や常夜燈があった。ここで道が2つに分かれ、左手の道に進んでいった。

そこに藤森神社があった。ところが境内が保育園になっていて、神社には柵が設けられ、入れないようになっていた(当時)。中には小さな園舎があり、カラフルな帽子の小さな子どもたちや保育士さんがいた。こういう神社の生き残り方もあるんだな・・・。

お寺が保育園も経営しているってパターンはよくあるけれど、神社が保育園と一体になっていて入ってもいけないというのは初めてだった。ここは京都の藤森神社から勧請した神社らしい。

この年初めてのヒガンバナをここで見た。この後は地元でも散歩先でもあちこちで見たけれど。


御牧跡の碑を通り、鳥飼下3丁目南交差点まで戻っていった。

一帯は「近都牧」なる官営牧場の1つ「鳥養牧」があったところなのだって。飛鳥時代にはあったと思われ、各地の官営牧場(諸国牧)で育てられて5歳になった馬が集められていたそうだ。

飛鳥時代以前には鳥飼と呼ばれていて、飛鳥時代の頃には馬の牧場があったのね。

いい馬は偉い人に与えられ、他の子たちは駅に置かれるとかしたみたい。

飛鳥時代、官道が整備されていったけれど、そこには10kmごとくらいに駅(駅家うまや)が設置されていたそうだ。馬が配置されていて、当時はその馬が今のインターネットみたいなもの。駅から駅へ馬を走らせて情報を伝えたそうだ。他、駅は偉い人や客人の休憩所みたいにもなっていたみたい。

鳥飼下3南交差点から、もっと淀川に近づいていったところに鳥居があった。一の鳥居だろうな。どこからきた人がこんなところにある一の鳥居をくぐったんだろう? 昔は低湿地では堤が幹線道路だったみたいだから、堤をやってきた人や、渡しでやってきた人とかかな。

ここから大阪モノレールの南摂津駅がそう遠くないみたいだった。モノレールは淀川の向こうの大日駅とつながっていて、大日からは大阪メトロが走っている。

久しぶりの散歩で疲れてきていたし、もう帰りたいところだった。けれど悪い癖が出て、続きを行くことにした。もうちょっと先まで歩いてみたくなるんだよねえ。


土手に上がり、淀川沿いを鳥飼仁和寺大橋の方向に歩いて行った。古い集落だけに、瓦屋根にブルーシートが目立っていた。お寺も2つ見えた。

このあたりに鳥飼の渡しがあったそうだ。古くからあり、昭和初期には大阪府営(無料)になっていたそうだ。その後、橋もかかり、昭和50年に廃止に。

鳥飼の渡し、今は橋で対岸に渡ると、枝切街道は川向こうにも小阪街道として続いていく。前に歩いて古くて面白かった河内小阪(東大阪市)を通り、八尾まで。

鳥飼仁和寺大橋を渡るには車両は有料、歩行者は無料のようだった。長い橋を渡っていると少し揺れて、橋の上で、なにかが、めりっ、みしっと音がしていた。ちょっと怖かった。

渡り終えたところに、自転車は10円入れてくださいと書かれた小さな箱があった。

そしてここから小阪街道。門真南駅くらいまで歩いてみるつもりだった。けれど・・・いきなり道を間違えたようで迷子になった。疲れていたかな。

とりあえず南下して行ったら京阪電車の大和田駅だった。すごすごとここから帰ることにした。

予想最高気温は31度だったこの日、真夏に比べればずいぶんましだったけれど、やっぱり暑くて疲れた。500mlのお水をおかあさんと2本空にした。1本で充分、そんな気候がやっぱり散歩にはいい。

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