古曽部と天神山遺跡
新屋神社(福井)あたりから高槻駅近くまで歩いた西国街道の続きを歩くことにした。
以前の高槻散歩で昼神車塚古墳と古曽部集落を歩きそこなっていたので、その2つを歩きつつ、西国街道も歩こうかな。
12月も半ばだというのに暖かい日だった。手袋はいらなくて、日よけ帽が欲しかったくらい。
西国街道は東に高槻駅まで歩いてはいたけれど、芥川宿あたりからの記憶がほとんどなかったので、芥川宿からスタートすることにした。
高槻駅(JR京都線)は北口から出て、すぐ左折。アル・プラザの前の道を西へ。「おやつやISU」なんてお店があった。車道はやや左にカーブしていくけれど、そのまままっすぐ、歯科の看板のある分岐の右側に進んだ。右手にはずっと古そうな建物も見えていた。
芥川にたどり着いて、土手に上がってみた。川がここでは2本あるみたいに見えていた。小さな支流かなにかかな。
すぐ北にある橋へ。ここが西国街道で、渡ると芥川宿の西の入り口だった水門跡。地蔵や灯籠などがいろいろあった。
前には人もいっぱいいたんだけれど、この時には閑散としていて、車が通るには狭い道の鄙びたところに思えた。
「公園とタルト」なんてお店には覚えがあった。高槻界隈って、さりげなくおしゃれなお店が多いところだな。
ここから、西国街道を東に向かっていった。前方にビルを見ながら、旧家とマンションのミックスする道を歩いた。高槻駅から水門跡に向かう間、右手に見えていた通りは、もっと旧家が並んでいた気がしたのだけれど、西国街道自体にはそう古い建物はなくて、一本南側の道に古い建物が残っているのかもしれない。
道が左にカーブを描き、一里塚跡が現れた。「芥川仇討の碑」があった。父の仇を討つために追ってきた若者(14歳?)が、見事芥川宿にてうちとったのだって。
郵便局を過ぎて、右折。東に向かっていった。
途中の信号を左折すれば「霊松寺」と案内があった。前に寄った霊松寺は、田舎にある寺のイメージだったけれど、こんな都会の中心から行けば、また別のイメージなのだろうな。
そして上宮天満宮の鳥居。ここから昼神車塚古墳と古曽部集落に寄り道するつもりだった。
まずは昼神車塚古墳に行って、上宮天満宮の西側から天神山遺跡~伊勢寺~日吉神社~能因法師墳墓~古曽部窯跡~花の井と回って、西国街道に戻ろう。
鳥居から天神町一丁目交差点まで北上。この先の急な坂の上に上宮天満宮や野身神社があって、ここで昼神車塚古墳の存在を知ったのだった。
交差点には「昼神車塚古墳」の案内が出ていて、見ると、交差点すぐの右手のトンネルの上に上がれるようになっていた。まさかこれじゃあないよね、こんな近距離にあって気がつかなかったの?と行ってみれば、まさにそれが昼神車塚古墳。
小さな埴輪も少しだけ飾られていて、可愛かった。下の道路を車が走って行くけれど、ここには他に誰もいなかった。
この東から南にかけての平野の王だっただろうってことだった。つまりは安満から南、芥川と淀川(または檜尾川)の間の一帯の、かな。
6世紀前半か半ば頃かに、弥生時代の墓の上に4.5mの盛り土をして造られているらしい。ここは天神山の南麓にあたり、天神山には上宮天満宮や古墳があるほか、弥生時代の集落跡なども見つかっているのだって。
安閑天皇の頃の墓とあって、三嶋飯粒の墓か?ともいわれているみたい。
けれど一帯は野見郷といい、土師氏の族長が葬られたところだという話だったからなあ。それに三嶋さんはもっと西よりの、芥川と女瀬川の間あたりの人だったイメージがある。
車塚というのは、前方後円墳の俗称だと説明されていた。それで他でも聞いたことがあるんだな。
ここから西に向かうつもりが、東に行けば能因法師の墳墓と、案内が出ていた。「伊勢寺・能因塚コース」なるウォーキングコースになっているらしかった。予定変更して東へ。能因法師ってどなた~?と思いながら。
案内に従って歩いていったけれど、面白くない幹線道路(府道67号西京高槻線)をひたすら歩き、前に歩いた高槻街道の終点、別所交差点まで行くことになった。特に見所のない67号線を進むこの距離は少々つらかった。
「別所」交差点で左折して北上。
高槻は北が山になっている。その山に向かっていく道だった。けれど周りはマンションだらけで、今も大規模工事を行っている最中だった。ここも大きなマンションになるらしかった。
その手前に左に「能因塚」の案内が現れたけれど、「花の井」が直進していった先に案内されていて、とりあえず「花の井」へ。
次の信号のある交差点には、また「左に行けば能因塚」の案内があった。この反対側には道が2つあり、左側の細道を進めば「花の井」はすぐだった。新しく建った家々の間の隙間に残されていた。すぐ横は人んちの玄関で、残されているのが奇跡みたい。
「花の井」は、能因法師が生活水を得ていた井戸だそうだ。
そしてそこで詠んだ歌が「あしびきの 山下水に 影みれば 眉しろたへに 我老いにけり」だって。
裏手には竹林の高台が残されていて、かつては全部がこんな感じで、そこに清水がわいていたのだろうな。もう想像するしかない別世界だった。
歌人らしき能因法師は平安時代の人で、出家して古曽部に住んでいたのだって。元は橘さん。橘諸兄の子孫だそうだ。
百人一首にも一句載っていて有名らしい。
「あらし吹く 三室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり」
能因法師より100年くらい前の歌人に伊勢姫って人がいたそうだ。こちらは藤原氏。宇多天皇の子や、宇多天皇の息子の子を産んだこともあるらしい。後には古曽部で隠遁生活を送っていたみたい。
この人も百人一首に一句。
「難波潟 みじかき葦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや」
わたしにはまるで分からないけれど、いい句なのかな。能因法師は伊勢姫を慕っていて、伊勢姫が隠棲していたという古曽部に移り住んだんだそうだ。それで古曽部には法師の墳墓ほか、能因法師にまつわるものがいろいろ残っているらしかった。
社部が住んでいて古曽部になったというところで、社部ってその名の通り社に携わる人たちだったなら、野身神社の社部とかだったのかな。
北上してきた広い道に戻り、さらに北上していった。次の目的地は「古曽部窯跡」。
上り道を行き、見えていた竹林を過ぎると、古曽部台なる新興住宅地だった。
一番の高台にあるバス停の手前、左手に下っていく道があって、ここを進めばおうちの壁に「古曽部窯跡」の説明があった。窯跡というのはそれだけだった。
江戸時代から大正にかけて、古曽部焼が焼かれていたおうちだそうだ。ここに登り窯があり、そこで焼かれていたのだって。土は前に近くまで行った慈願寺の裏山で採っていたそうだ。
新しいマンション群や新興住宅地に囲まれたこのあたりは古い集落の感じがあった。北に山のある麓の集落だったのだろうな。坂道からはかなり下った低地の集落で、実をいっぱいつけた柿が似合っていた。お地蔵さんなんかもいて、見ると、ここでもうっすらと顔が描かれていた。
そのまま進んでいくと、能因塚の案内がところどころで現れた。道はぐねぐね、あちこちに向かい、もうどこをどう歩いているのかさっぱり分からない迷路のような集落の道を進んでいった。
途中、案内の見つからない四辻なんかもあって迷いつつ、なんとか能因塚へ。
塚は家と家の間の細い道を下って行った先にあった。
慶安時代(17C)に高槻藩主の永井某さんがたてたという碑があり、その碑文は林羅山によるものだって。下部ははがれてしまっていた。
林羅山って、江戸時代の学者(朱子学の)で、家康から4代にわたって政治を助けた人だそうだ。
ここだけぽっかりと空間になっていて、素敵なところだったけれど、工事の音がずっとしていた。
さらに進むとまた素敵に高低差のある四辻があって、まっすぐ行くと「不老水」、左の細い道を行くと日吉神社だった。
「不老水」は少し奥まったところにあった。この湧き水は飲まないで下さいとあったけれど、水なんか湧いていなかった。ただじめじめとして、土はどろどろだった。
周囲の囲いは壊れて、そのまま放置されていた。ここも能因法師が水を使っていたところらしい。
「文塚」も近くにあった。
死期を迎えた能因法師が自分の和歌の原稿を埋めたところだって。
今では田んぼの中にあった。石塔が2つあったけれど、1つは崩れてそのまま放置されていた。
それから日吉神社へ。
日吉神社は階段を上った高台にあった。見晴らしがよかった!
建物が完全に1つ崩壊していて、「キケン」の黄色いテープがはられていた。
前方にはビルが、左手には山々が見えていた。右手と後ろは山だった。
ここのところ散歩していて、寺社が焼け落ちたのによく関係している荒木村重だけれど、ここはその荒木村重が建てた神社だそうだ。
織田信長に摂津を任され、ここに日吉大社から勧請したのだって。織田信長に反旗を翻し、激しく戦うことになる前の話ね。
日吉神社の鳥居の前の道を西に進んでいくと、広めの公道に出た。この道を進んでいくと、伊勢寺(犬NG)にたどり着いた。
ここが伊勢姫が隠棲していたところと伝わるのだって。跡地に寺が建てられ、戦火を受けて焼失。また再興されたのかな?
伊勢寺の一番西側の出入り口の坂から南下していくと、左手に上っていくところがあった。上って行ってみると、途中、天神山遺跡の説明があって、その上は小さな公園(天神町公園)になっていた。
ぐるぐる歩いて全く分からなくなっていたのだけれど、ここは上宮天満宮の北側の高台だった。
天神山遺跡は、弥生時代の集落跡だけれど、中央の丘陵部には集落の跡はなくて、代わりに銅鐸が見つかっているそうだ。そこで祭祀が行われていたのかもしれないと説明されていた。
道を下って行くと、左手には上宮天満宮がずっと続いていた。
天神山(元は日神山)はアメノホヒの息子のタケヒラトリが天下ったというところ。
タケヒラトリやその子孫たちが弥生時代、ここに住み暮らし、銅鐸で祭祀を行っていたのかな??
神社と公道との間には柵が設けられ、「防犯システムを改良した」みたいな張り紙もはられていた。
上宮天満宮の鳥居まで南下して、左折。
ここが西国街道で、ここから西国街道を東方面へ進んでいった。




