能勢街道と原田神社
能勢街道はらくちんだ。そばを阪急が走っていて、気軽に行ける。というわけで、前回、中津から服部天神まで歩いた能勢街道の続きを歩くことにした。
服部天神駅からスタート。服部天神はもう3回目。神社の西側の道が能勢街道で、ここを北上していった。つきあたったら右手の道を北上。このあたりはすっかり住宅地だった。
途中、水路沿いの道になり、通り過ぎる人たちが服部遺跡の話をしていた。遺跡に興味がある人たちがいたぞ、とうれしかった。
服部遺跡は弥生時代後期に始まる集落の跡で、古墳時代の前方後円墳や、弥生時代後期の、前方後円墳につながるとみられる「突出部を持つ円形周溝墓」も見つかっているのだって。
この頃、古墳もいろいろ見たものだからちょっとだけ勉強してみたところ、弥生時代の「突出部をもつ古墳」(突出部で儀式を行ったのかな?)がやがて前方後円墳にと発展したんじゃないかという学説があって、その突出部を持つ古墳として注目されるのが岡山の楯築古墳らしかった。
弥生時代最大のもので、2世紀後半から3世紀前半あたりの古墳であるらしい。2世紀とか、岡山とか、どんどん未知の世界に引きずりこまれていくなあ。
バス通りに出ると、道の向こうには城山会館と、「藤井寺参道」の文字が見えた。参道は東に続いていて、ちょっと寄り道して行ってみた。
藤井寺は高台に上っていったところにあった。かつては見晴らしもよかったのだろうけれど、今は家だらけだし、たいして何も見えなかった。
江戸時代の創建だそうだ。三重塔(平成の建立)や、隣には西法寺もあった。
バス通り(国道176号線)に戻って北上してすぐ、右手に分岐していく、いかにも旧道って感じの上り道へ。
石仏が並んでいたり、墓地があったりした。けれどほぼほぼ住宅密集地だなあ。下には国道176号線の走る西の方面が見えていたけれど、そちらにも古そうなところが一部だけあった。
上りきったあたりに、古い味のある建物があった。横書きの文字を右から読むと、「左官建築材料商井口弥杏」。コンクリづくりの建物に、浮彫の文字で書かれてあった。今も現役みたいで、「煙突そうじ器」ってプレートもあって、すごくかわいかった。
左手の176号線に長興寺南交差点が見える角に道標があって、「左池田道 右みのを」とあった。長興寺公園とハイツ豊島。このあたりは豊島と呼ばれていたあたりなのかな。
これから向かうのは豊中だし、中津駅近くには豊崎もあったし、小曽根の東には豊津もある。「豊」の多いところだな。
次は176号線に曽根交差点が見えて、また道は上りになった。
曽根って、今まで散歩してきた印象から言うと、物部氏の関係かなと思われるんだけれど、ここはどうなのかな。
それから176号線にロイヤルホスト。能勢街道は普通の住宅地で何も無くて、左手の176号線を眺めつつ歩く感じだった。
176号線に次の南桜塚交差点が見える角で右折。
能勢街道は南桜塚交差点から左に分岐していく道を北上していくようだったけれど、この東に神社やら古墳やらがあるようなので、とりあえず寄り道。
このあたりも、見どころのない新しい町だった。道も家もきちんきちんと作られすぎていて、かえって見通しも悪かった。
そんな中に古墳が現れた。
周りを削られているけれど、かろうじて残された古墳。このあたりでは桜塚古墳群が見つかっていて、この古墳はその中では最後の5世紀後半のものらしい。南天平塚古墳というのだって。
昭和10年代、区画整理事業が行われて、3/4の部分が壊されたそうだ。それでも残っただけまだましだな。全部で44の古墳が確認されていたけれど、そのうち一部でも残るのは、ここを含め5つだけなのだそうだ。
さらに東に向かっていった。長興寺北1丁目交差点でバス通り(府道43号曽根箕面線)に出ると、前方の2つの道のうち、右手の上りの道を東へ。
北之防さんの旧家や、一番の高台あたりでは佐々木さんの旧家を複数見た。
後で行った原田神社のあたりでは「市政に北之坊」とあるポスターを見たけれど、北之防が北之坊に変化したとかかな。
道が下りになって、その先が公園と神社だった。神社は長興寺住吉神社。北には皿池があるらしかった。
神社は600年ほど前の創設と思われ、天正6年、荒木村重の兵火で焼失。住吉神社にしては高台にあるなと思ったら、焼失した後、ここに越してきたのだって。
元は長興寺ってお寺があったところらしい。長興寺の地名は、ここにあったお寺からきているんだな。
住吉神社は元は履正社高校前交差点の少し北にあったらしく、そこはもっと東、天竺川のそばだった。天竺川を越えると服部緑地という地点。
南天平塚古墳まで戻って、今度は古墳から北上していった。
すぐ左手に小さめの(前に見た今城塚古墳のに比べたら随分小さい)円筒埴輪が並べられた様子が再現された、きれいな小山が現れた。これが御獅子塚古墳。残った5つの古墳のうちの1つ。
5世紀の半ば少し前くらいの古墳だって。入れないように柵で囲われていた。
そして道をへだてて北隣が大塚公園だった。そこには大きな古墳があって、その名も大塚古墳。5世紀前半のものだって。
古墳の上が散策路になっていた。上に上ると遠くまで見えた。ここまで坂を上ってきたから、小高い場所にあり、しかも高く造られているから、藤井寺(城山町で上ってみたお寺)とかよりよほど遠くまで見渡せた。
7.1mもあるくりぬきの木棺の跡が2つ見つかったそうだ。朱塗りのものだったそうだ。
7.1mって! 他、農耕具、武器などが出土。
公園には、鉄の鎧のレプリカが飾られていた。御獅子塚古墳で見つかったもののレプリカなのかな。
小さな三角形の鉄板を革ひもでつなぎ合わせた鎧らしかった。小さな三角を多用することで、上手に立体的に作りあげられていた。首の後ろを守る襟なんかもついていたらしくて、技術の高さに驚かされた。5世紀の人って!
大塚古墳と御獅子塚古墳の間の道は「はにわロード」というのだって。この道を西に向かった。西にある能勢街道に戻って続きを歩くべく。
マンホールの絵がワニとバラだった。マチカネワニの化石が見つかった「マチカネ」(地名)って、豊中市なのだって。チバニアンとかいう時代(40万年くらい前)、日本にもいたワニの骨。
最初に北部を散歩した時、なんだか古さが残っていなくて、面白くないなあって感じたのを覚えている。リニューアルされすぎていて、古い面白さを失っているなあ、と。
けれど茨木で面白さを知って、高槻で古さを知った。そして豊中。もう古いどころの話じゃないな。
国道176号線に出て(中桜塚3丁目交差点)、もう少し西へ進んでいった。車止めされた歩行者専用の通路を通ってつきあたると、右折して北上。ここが能勢街道の続き。本当は南桜塚交差点から、左手に分岐していく道を北上してくるのだったけれど、ショートカット。
この先が面白いところだったなあ。町全体が展示会場みたいな、ユニークなところだった。
能勢街道は道なりに北に進んでいくのだけれど、あちこちに立ち寄った。
まずは右手に見えているきれいな大きな旧家に行ってみた。奥野家住宅だって。江戸時代には庄屋さん宅だったそうで、きれいなたたずまいだった。
反対の左手にも木々が見えていて、行ってみるとそこは、いきなり低地になっていて、崖下のようなところにボロボロの旧家があった。ボロボロの旧家がいくつか固まってあった。
それからまた右手に気になる道(福祉会館の案内のある道)があり、ゆるい上りのこの道を行ってみると、ここにも旧家や桜塚会館、ショッピングロードの入り口、瑞輪寺があった。
瑞輪寺は元は善光寺と言い、平安時代に建てられた、原田神社の神宮寺だったのだって。その寺域は広大で、曽根あたりまでもあったのだって。詳細は不明ながら、戦国時代の頃に焼け落ちたそうだ。
善光寺、長興寺、このあたりは、戦国時代には大きな勢力の1つだったお寺が多くあったところじゃないかなという感じがした。この道の不思議な感じ、高低差は、ここに城のようにあったお寺の跡なのだろうな。
藤井寺のあった城山もそうだったのかも。
北之坊は、長興寺の「北の坊」が「北の防」でもあったことからきているのかも。
知らずにスルーしたけれど、この南西の方、南の曽根駅を西に行ったあたりに原田しろあと館(土日しか開いていないみたい)があって、そのあたりにはかつて原田城があったそうだ。
鎌倉時代、原田氏が築城したと思われるものの、詳細は不明。戦国時代の終わり頃には、南の城に原田氏が、北の城には織田信長の家臣たちが入っていたと思われるのだって。
それで荒木村重(織田信長に反旗を翻した人)の兵火で焼失ってところが多いんだな。
荒木村重は織田信長に気に入られ、摂津を任されていたけれど、突如反旗を翻した人。中川清秀さんや高山右近もこの人の臣下だったそうだ。けれどその二人も織田側につき、最後には荒木村重は妻子なども見捨てて逃亡し、姿を消した。
そして本能寺の変が起き、荒木村重は堺で茶人として再び姿を現した。
織田さんと戦っていた頃には、原田城の周辺のあちこちのお寺も舞台になっていたのだろうな・・・。
瑞輪寺すぐに桜塚商店街のアーケードがあって、正面に神社が見えていた。
商店街にはパン屋があって、パンをゲット。お客さんが多いなあと思ったら、300円以上買ったらコーヒー無料、2階で飲食できて、2階にはトースターも置かれているのだって。(今は閉店)
正面の神社は原田神社だった。
立派な神社で、狛犬が可愛かった。
桜塚商店街のテーマソングが商店街にかかっていて、境内までそれが聞こえてくる、ほほえましい神社。
周囲には路地などいっぱいで、旧家もいっぱい残り、素敵な感じだった。
このすぐ西側が阪急岡町駅(宝塚線)だったみたい。帰りに電車で通ったのだけれど、神社の緑が一帯に蓋をしているみたいな感じだった。自然のまま残されていて、住んでいるところに木があるというより、木のある下に人がいるっていう感じがした。
ここ、原田神社も荒木村重の兵火で燃え落ちたそうだ。詳細は不詳だけれど、4世紀から5世紀の頃の創建と伝わるそうだ。桜塚古墳群は原田神社の周辺にも点在していたらしくて、その頃の創建ということかな。天武天皇の頃にあったのは確からしい。
東奈良(茨木市)でつくられた銅鐸も見つかっているのだって。
なんというか、このあたりは古代、大きな都会だったのだろうな。
茨木、高槻、そして豊中・・・。
旧石器時代のキャンプ跡が見つかっているという津之江(高槻市)、近畿でいち早く水稲栽培を始めた牟礼(茨木市)や安満(高槻市)、銅鐸を大量生産するようになった東奈良(茨木市)、前方後円墳に発展していくともいわれる「突出部を持つ円形周溝墓」の造られた服部(豊中市)、卑弥呼の知人の墓かもしれない安満宮山古墳(高槻市)・・・。古墳時代は古墳時代で、大塚公園の鉄の鎧なんか見ると、時代の最先端をいっていたのじゃあないかって感じがする。
そんな人たちが創建したのかもしれない神社。




