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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
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吹田街道と服部天神

雨が少し降り始めた。

右手が古そうで、行ってみると、法泉寺や江坂町公民館などがあり、大きい家がいっぱいだった。大きな旧家やマンションが共存していた。旧家一軒つぶせば、その広い敷地に十分マンションが建つから、旧家とマンションが同じサイズ感で並んでいた。前にもこんなところを歩いたことがあったな。

「榎坂東道標」、「榎坂西道標」が続いてあった。なんだか古そうな一帯だったけれど、雨が大粒になってきて、急ぎ足で進んだ。

土手らしきところの手前で道は左に曲がり、145号線と一緒になって西に向かった。

それから土手に上がって川を越えていくのかと思いきや、そのままの高さをまっすぐ進み、なにかの下をくぐった。なにをくぐったんだ?

右手に土手の上に上がっていけるところがあったので、上っていってみた。すると、そこにはやっぱり川が流れていた。

川の下をくぐったの・・・かな? 一瞬、理解できなかった。そこには高川なる川が流れていて、川は大きな樋みたいなものに流され、その下を通る道が造られているようだった。その道を、今、歩いたみたいだ。

初めて、びっくりした。

高川の東が吹田市、旧榎坂村だったところで、西が豊中市であるらしかった。江坂は元は榎坂と書いたのね。

高川の西の堤道を南に歩いて行った。雨はあがって、雲がたなびいていた。そしてそこを飛行機が飛んでいった。堤から見ると、同じくらいの高さを飛んでいるみたいに見えた。


堤から右手に降りていけるところがあって、ここを下り、また西に向かった。

地名は小曾根おぞねで、昭和の時代の住宅が密集している感じのところだった。つきあたりに地蔵堂。ここを左折。住宅密集地だったけれど、右手には旧家も見えた。

曽根、赤曽根、中曽根、長曾根、曽根のつくところって古いところって感じがする。

ここからしばし南に向かった。右手には西福寺、養照寺、常光寺と、順番に細い道の向こうに見えていた。

もう時間もおしていたので、ここは深入りせずにスルーしたのだけれど、西福寺は江戸時代の画家、伊藤若冲なる人の襖絵他があって国の重要文化財になっているとかで、古いところらしかった。

常光寺参道を過ぎて、大きな榎原さんの旧家を過ぎたら右折。ここからまた西に向かっていった。

第十二中学(高い塀の工事が始まるみたい)を過ぎて、右に進むと今西家住宅だった。寄り道して行ってみると、「南郷春日神社」「春日大社南郷目代今西氏屋敷」と石碑があった。

このあたりは藤原氏の荘園だらけだったそうだ。高槻、茨木と同じく。

源平が戦っていたころ、「垂水西牧」が藤原氏の氏神である奈良の春日大社に寄進されて、管理者(南郷目代)として今西さんがやって来たんだって。その時と同じ場所に今も屋敷はあるそうだ。今は無人のようだったけれど。

「垂水西牧」というくらいだから、垂水の西にある、馬の放牧場だったのかな。「藤原氏の荘園」というけれど、「藤原氏の氏神の春日大社に寄進された」という形式が多かったのかな?


元の道に戻って西に向かっていった。

駐車場があって、犬の散歩をさせたら1万円だって。前に3万円のところを見たから驚かないけど。

松林寺が現れ、その向こうは堤になっていて、その向こうには天竺川。お寺と川が多いところだな。

堤に上ると、「経塚」の碑があった。川の氾濫をおこさないよう、経典をおさめたところだそうだ。今までも「経塚」って見てきたけれど、そういうところだったのか。

右手の松林寺橋で天竺川を渡った。堤を北に向かうと、左手に堤を下りる階段があって、その向こうに神社が見えていた。階段を下りていくと、服部住吉神社。

南の鳥居がここにあったけれど、更に南に参道がずっと続いていた。松林の中にある大きな神社だったのだろうな。

天竺川沿いをそのまま行くと服部緑地のようだった。

住吉神社は今でも大きな神社だったけれど、忘れられているような印象だった。京阪沿線の神社たちは地元の人たちに愛されている印象で、生活圏の一部のようだったけれど、このあたりでは生活とは異なる空間って感じだ。それだけ新興住宅が多くて、地元民が少ないってことなのかな。

大阪最古の能舞台があるということだったけれど、見るには有料らしかった。どこかから譲ってもらったものらしかった。

元は住吉大社の別院として建てられたそうだ。詳細は不詳だけれど、平安時代の終わり頃になって再建したとの記録があるそうだ。

織田さんが荒木村重を討たんとしたときにも焼け落ち、再建。昭和の時代にも燃えてしまい、豊国神社の社殿をもらい受けて(豊国神社が中之島から大阪城へ引っ越した時)、また再建。

荒木村重って最近、よく目にするな。

摂津池田家の家臣だったけれど、三好さんチームに入って下克上。織田さんにも気に入られて、一時は茨木城主、伊丹城主となっていた人なのだって。

摂津一円を任され、高山右近や中山清秀もこの人の下にいたそうだ。けれど織田に反逆。

側近の高山右近、中山清秀は織田側についたから、敗色濃くなって逃亡。織田さんは許さず、徹底的に潰そうとしたから、そのせいで殺された人も方々にいたみたい。その時、寺社もいろいろ焼けたのだろうな。

そして荒木村重が他国(毛利さんのところ)に隠れている間に、本能寺の変が勃発。

荒木さんは堺に姿を現し、茶人として復活。けれどまだ反逆心は失っていなかったのだろうな。いろいろもめ事を起こしたみたいだ。


神社の北の道を西へ向かっていった。

服部本町交差点に至り、その向こうは服部元町商店街になっていた。「足の神様・服部天神参道」とあった。服部天神って足の神様だったんだな。

商店街に入るとすぐ左手に服部天神はあった。広いきれいな神社だった。総社の感じで、いろんな神様が同居していた。

どうして天神(菅原道真を祀る神社)で足の神様なのか、簡単に物語風に説明が書かれてあった。興味深い話だった。


昔むかし、朝鮮半島経由で秦からやって来た人々は、はた織りに堪能で、はた氏となった。

彼らは服部にも住み暮らした。

19代允恭天皇のとき、服部を服部連の本拠地としたんだって。彼らは崇敬していた少彦名を服部に祀った。

数百年がたち、太宰府に向かう道真が付近で脚気で身動きできなくなってしまった。

少彦名は医薬の神様でもあったので、道真はここに参った。そこには100年前、自分と同じように太宰府に左遷されていった藤原魚名の墓があり、感慨を覚えた。

道真の足は平癒し、無事に九州へと旅立っていった。


それで古くからの少彦名と、新たに菅原道真が祀られているのだって。

藤原魚名は藤原不比等(中臣鎌足の息子)の孫で、前に近つ飛鳥あたりにお墓のあった藤原永手の異母兄弟。藤原北家としてめきめきと頭角をあらわしていったけれど、左大臣の時、突然罷免になり、大宰府に左遷(原因は不明)。その翌年に亡くなったというのも菅原道真と一緒だな・・・。

允恭天皇は仁徳天皇の息子で、5世紀前半の天皇だそうだ。秦氏の祖は仁徳天皇の父、応神天皇の時代に渡来してきたと言われているから、話のつじつまはよく合っている・・・かな。

けれど少彦名が秦氏の崇敬する外来神の扱いなのは、納得しがたいなあと思った。地元の住吉大社の横には少彦名を祀る生根神社がある。神功皇后(応神天皇の母)が住吉大社を創建したとき、神に祀るお酒をこの神社でつくったとされていて、住吉大社より古くからあったとも言われている。少彦名は医薬の神様であり、酒造りの神様でもある。

和泉鳥取の出身の天湯川タナの先祖を祀るとされる神社(柏原市)に祀られているのも少彦名だった。

天湯川タナは11代崇神天皇の頃の人。少彦名が渡来人秦氏の信じる神っていうのは違和感があるなあ。

天湯川タナの先祖はツヌコリで、ツヌコリを祀る和泉にある神社は波太神社だった。そしてツヌコリの子孫には倭文しとり氏・捕鳥ととり(鳥取)氏などもいる。

倭文氏は日本における織物の祖とされている人たち。

日本でも縄文時代から布は織られていたらしい。縄文式土器の底には、布を敷いて、その上で作ったと思われる布の目の跡が残っているのだって。器用で、好奇心旺盛な日本人がどんどんいい布づくりを目指していかなかったわけがない。おまけに倭文氏は海岸沿いなどに広がっていった形跡があるらしく、舟の民でもあったのだろうな、大陸に渡って技術を会得していたかもしれない。

ツヌコリ一族は、今までの散歩でたびたび出会ってきた印象で言うと、鉄にも造詣が深かった人たち、海運にも秀でていたか、海運をよくする人々と仲間だったかした人たち。

服部天神では、服部といえば秦氏みたいに説明されていた。けれど本当は、古すぎてよく分からないもっと古い時代の倭文氏、もっと古い時代に日本列島にやって来た(のだろう)ツヌコリ一族が関わっているんじゃあないかなあ?と思った。

はた織りをしたからはた氏、その機織りの「はた」は、もしかしたらそもそもは波多はたからきているのじゃないか、そして服部はっとりは、倭文しとり捕鳥ととりと同じ「とり」つながりで、ツヌコリの子孫だったりはしないのか。

たとえば、大昔に服部を名乗ったツヌコリの子孫がここに進出してきて「服部」の地名になり、機織りをする彼らの元に、大陸からやって来た機織りの職人たちが預けられて彼らも「ハタ」と呼ばれるようになった、なんてことはないのかな?

服部氏はヒノハヤヒなる人の子孫で、全国の倭文部など、服作りを行う人々のまとめ役だったそうだ。そして「機織り部」から「はっとり」となったと一般的には言われているそうだ。

服部氏の元で働く人々の中に渡来してきた秦氏がいて、機織りを古来から行ってきた倭文氏(ツヌコリや少彦名の一族)は忘れられ、機織りといえば秦氏、服部に祀られる少彦名も秦氏の神、ということになってしまったのじゃないかな。


服部天神あたりで吹田街道は能勢街道に合流して終わり。

一日で歩けた吹田街道だったけれど、なかなか面白かったな。あとはこの近くでパンをゲットして、どこかでいただいて、すぐの服部天神駅(阪急宝塚線)から帰ろうと思った。

ところが・・・スリールってパン屋は定休日で、しばらく周辺を歩き回ったけれど、他にはパン屋は見つけられなかった・・・。はやりだしていた食パン屋はあったけれど。途中、あんなにもおいしそうなものを横目で見ながら歩いてきたのに・・・。

何も食べずに帰ることになって、いっきにテンションだだ下がり。おいしいものを食べない散歩って、楽しさが半減するものなんだな、って身をもって知った。

そしてこの日は、日本の高齢化社会も身をもって知った日だった。

散歩していると、とある旧家の窓ガラスをたたき続ける女性がいた。「○○さ~ん、○○さ~ん」と連呼していた。「おかしいですよね。いつもは返事があるのに」ケアマネージャーさんと思われる人が何か言い残し、携帯電話でなにか話しながら速足で去っていった。

「○○さ~ん! ○○さ~ん!」女性は窓をたたき続けていた。

そして同じ町で、古い家の前、家のものを大量に並べている女性もいた。スーツの男性二人が、「こんなのもう見ないですよ。いい値がつくと思います」

一人暮らしだったおじいさんが亡くなって、遺品整理をしているのかなと思われた。こうして人が亡くなり、古い家は取り壊されていくんだな。

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