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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
36/42

吹田街道と垂水神社

その日は雨が降ると予報されていた。けれど朝には快晴で、おかあさんは「秋の空」についてのあれこれを忘れてしまっていた。でかけようと駅に向かう途中、さっそく雨にあった。

「やっぱり帰ろうか」

でも、わたしもすっかり出かける気分ができあがっていたから、足を踏んばってキョヒ。

「う~ん・・・しかたないなあ」

というわけで強行。前に散歩中に雨にあった教訓から、折りたたみ傘はもっていたし。


今回歩くことにしたのは吹田街道。

高槻に通ううち、吹田のほうが近いのに、まだほとんど歩いていないなあと思って。歩く予定にしていたのはそう長い距離でもなかったから、少々の雨ならなんとかなるかも。

阪急電車には3本の本線があって、京都線、宝塚線、神戸線だって。梅田、中津、十三と進んで、十三でそれぞれ分かれていくみたい。

京都本線で相川駅へと向かった。知っている駅名が並んでいた。南方、崇禅寺(前に行ったな)、淡路、上新庄、相川。十三で「トミータウン しょんべん通り」って商店街が見えて、気になった。

相川駅は近くに大学があるようで、1つしかない階段に人がいっぱいになって、待ち時間がでるくらいだった。

みんな東口に向かっていったけれど、わたしたちは西口へ。すぐそばに川が流れていた。新京阪橋で渡った川は神崎川。

もう雨はやんでいた。それどころか、やけに晴れ間が多くて、日向は暑いくらいだった。12月に入ったこの日、なんと夏日を記録したのだって。

新京阪橋を渡るとすぐ左手に神社が見えていて、高浜神社の旅所だった。横にある「かすが遊園」の前の道はベージュっぽくカラー舗装されていて、ここを進んでいった。

どこかでたくさんみたことのある「上の会」と書かれたひょうたんのステッカーをここでも見た。何だろうな。

つきあたりで右に進んだけれど、その前に左手に見えている川(神崎川)の方にも行ってみた。

上高浜橋と「吹田の渡し」の説明板があり、前に亀岡街道歩きでやって来たところだった。その時は、ここからそう遠くない高浜神社あたりから浜街道を歩いてやって来た。吹田駅が最寄り駅だと思っていたら、相川駅なんて駅がすぐ近くにあったんだな。

ここから見える浜街道は、古いものと新しいものとがごっちゃになっていた。前に歩いた時には、もっと「浜街道」の名にふさわしい、古い通りに思ったのだけれど。塀は古いのに、その中の家が新しくなっていたりした。

来た道を引き返して、そのまま進んでいくと「南町道標」(「左 池田」とか書かれてある)があって、ここが亀岡街道と吹田街道との分岐点。ここで左折。北進する亀岡街道から分かれて、西の吹田に向かう道へ。


すぐのところで左手になにかひかれて行ってみたら、浜屋敷だった。「吹田歴史文化まちづくりセンター」として使われている、大きな旧家。

吹田では、見どころの近くには「遊園」がよくある。ここにもそばには遊園があって、遊園を目印に歩くといいくらいかもしれないなあ。

そのまま進むと、久しぶりの高浜神社。

高浜神社沿いに車道を進んでいくと、車道はお寺の前の信号を通って北に向かう。ここで一本左手の道(府道151号相川停車場線)に進んでいくのが正解だった。吹田街道は西の吹田に向かうから。

けれど間違えて、この北に向かう広い車道を進んでいってしまった。

車道の両脇の歩道が旭通商店街になっていて、お店が並んでいた。なかなかににぎわっていて、しかもおいしそうなお店が多かった。やきとりとりしん、肉のいろは、蕎麦屋。そしてスーパーは、高槻でも見たサタケ。

交差する道も商店街になっていたりして、裏通りも新旭町商店街になっていたりして、相当においしそうなところだった。

そしてJR吹田駅に出た。道を間違えたことにやっと気がついて、せっかくだから、今度は新旭町商店街を通ってひきかえした。こちらのほうが寂れかけているのだけれど、そこに新規で入ってきている、若い人たちのやっているお店もちらほら見えて、気になるところだった。

商店街全体でパン屋も3つほど見つけた。ひかれつつもおかあさんはスルー。この先行く服部天神駅近くのパン屋に行くからってことだったけれど、これが大失敗だったんだ・・・。


高浜神社からやり直した。本当の吹田街道は、商店街はない代わり、交差する道も面白そうな、古そうなところだった。

吹田第一小学校近くでは、面白くてうろうろした。金子さんという地元の名士らしきお宅が多くあった。光徳寺の西側の道から吹田街道(151号線)に戻ったのだけれど、ここの牛乳箱が初めて見るものだった。「特別生牛乳 厚生省大臣認可 太田牧場」とあるレトロでかわいい牛乳受け。

太田牧場は東淀川区にあった牧場で、100頭くらいの牛が飼われていたのだって。その後、「大阪市内で牧場」は厳しくなって、枚方に移転していったようだけれど、それが昭和42年だって。そんな時代までは大阪市にも牧場があったんだな。東淀川区はこのすぐ南側だった。

浜の堂駐車場とかがあり、堂前さんなんて旧家もあった。それから常光円満寺。案内がさっきから出ていた割には現代的な建物だった。「足利将軍の菩提寺」とあった。ささっと通り過ぎてしまったけれど、中に入れば、古いお寺だったみたい。

ここも行基開祖と伝わる古刹なのだって。浜辺にあって「浜の堂」と呼ばれていたらしい。

一時はすごい広さで、足利義満がここを祈願所としていたそうだ。それ以降「足利将軍の菩提寺」に。けれど応仁の乱で焼けて退廃。小さく再建されたのだって。


それから右手に天照皇大神宮(小さい祠みたいなところ)があって、JRの古そうな高架が現れた。

くぐって信号(右手にアサヒの工場が見えている)を越えていくと、泉殿宮の灯篭があって、道が2つに分かれていた。吹田街道は右手を行くみたい。

左手にはまっすぐ先に神社が見えていた。あれが泉殿宮だろうな。ちょっと寄り道して、泉殿宮いずどのぐうに向かって、左の道を進んでいった。地名は西の庄。泉殿宮のすぐ右手には浄光寺があった。

なんだか人が多くて、わたしたちはちょっとだけ入って、すぐ失礼した。神社はその日、ざわざわしていた。後で知ったことにはすぐ横が阪急吹田駅のようだったから、立地のよさでいつもざわざわしているのかもしれなかった。

祭神はスサノオ他。平安時代、干ばつの時、姫路からスサノオを京に勧請したことがあったのだって。

その途中、ここに立ち寄ったらしい。すると泉が沸き上がり、この地の干ばつも解消されたんだって。そのときからスサノオをここに合祀。

その泉の水は、アサヒが日本にもビール工場をつくろうとしていたとき、本場ドイツに送られたそうだ。ビールづくりに適しているかどうか見てもらうために。

結果は上々で、この地にアサヒのビール工場がつくられた。昭和42年まで大阪市に牧場があったくらいだものな。明治22年、ここが泉の沸く風光明媚な田園だったのでも不思議ではない。

スサノオといっても、明治になってスサノオとされただけで、元は牛頭天王だったみたい。姫路の神社というのは広峯神社。牛頭天王の総本社だそうだ。

そして牛頭天王を合祀する前には、ここは吹田の豪族、次田連の祖神を祀る神社だったのだって。祖神は天香山命。

尾張氏や津守氏などの祖であるアメノホアカリの何代か後かが天香山だった。

三島にもいたのだろう一族(式内社の新屋神社の祭神が言われているようにアメノホアカリなら)が、ここ吹田にもいたのね。

社家は宮脇氏で、大塩平八郎の乱が起きた時代に宮司だった宮脇さんは大塩さんの叔父さんだったんだって。大塩さんの一族は次々処刑されて行って、宮司は自殺したそうだ。


「泉殿宮」の灯篭のあるところまで戻って、吹田街道の続きへ。

清水さんのお宅が多かったのは、泉の沸くところだったからなのだろうな。

すぐ内環に出て、右は上り、左は下りになっていた。そして左手すぐには、泉殿宮の鳥居が見えていた。泉殿宮を通り抜けても内環に出られたみたい。

内環を左に少しだけいったところにある、今来た道の続き(府道145号豊中吹田線)を行けば、それが吹田街道のようだった。けれど、右手の高台が気になった。内環を右に進んでいくと、左の坂の上に玉垣が見えて、ここに進んでいってみた。帝釈天参道とあって、上っていけるところがあった。

上ってみると、玉林寺の墓地だった。その向こうには片山公園らしきところ。

かつて、今の朝日が丘町(元は片山村かな)に帝釈寺があって、そこに帝釈天がいたんだって。朝日が丘というくらいだから、今や新興住宅地で、寺もなくなったのだろうな。今は帝釈天は玉林寺にいるんだそうだ。

片山公園はすぐ横だったけれど、ここからは公園に入れないようになっていて、上りの細道を上っていってみると、やっと公園へ。小高い丘だったのをそのまま公園にしたようなところだった。

丘にある図書館方面に行けば、吹田街道(145号線)に戻れるようだった。

下っていくと、児童公園の近くの紅葉が、一部、最高にきれいだった。

近くには片山神社もあるようだったけれど、公園は広くて、また次回とした。片山神社の祭神もスサノオ。

ここでもかつて須恵器が焼かれていて、窯跡も見つかっているのだって。片山神社は、須恵器を焼いていた人々が祀っていたのではないかということだった。


図書館からも道を下っていったら教会(レデンプトール会修道院)があって、145号線に出た。ここを右折。

145号線はバス通りで、ここは阪急千里線の吹田駅にも近く、拓かれた感じのところだった。山の中腹部の道らしくて、右手は高台(片山公園)で左手は低地だった。

阪急電車(千里線)が左手の低くなった部分を走っていて、住宅密集地の中、一部にはかなり古そうな家も残っていた。右手の高台には大きな新しいマンションなどが建ち並んでいた。

145号線をはさんでなんだか全然違う。古くからの町と新興住宅地なんだろうな。

踏切に近づいて小さな川(糸田川)を渡り、阪急電車の踏切で電車通過を待った。すぐ右手には豊津駅。遮断機が下りている間に、踏切は人でけっこういっぱいになった。

踏切を渡ると、上ノ川橋でまた小さな川(上の川)を渡った。南に流れていって、糸田川に合流して、神崎川に注ぐみたい。合流地点が豊津。片山のそば、津(港)だったところなのかな。

上ノ川橋の向こうは豊津商店会になっていた。

すぐのところにケーキ屋があって、シュークリームとか気になったけれど、スルー。暑かったし、持って歩くのもな、と思ったんだけれど、後で悔やまれた。

豊津商店街にはおいしそうなお店がいっぱいだった。古い家々もあった。

左手に味のある古い公共施設だったっぽい建物があって、見に行ってみた。垂井公民館だった建物らしかった。散歩をしているうち、こういうのを見逃さなくなってきたなあ。

目立つように看板で「でんわ(赤電話の絵のマーク)でんぽう」とあるのも、昔のまんまみたいだった。

他にも、商店街に並んだ店舗の奥の建物はすごく古かったりした。

垂水医院も味のある古い洋館風の建物だった。ここは垂水町で、だから垂水医院なのじゃなく、ここの方が垂水さんのようだった。ときどきいる地名と同じ苗字の人。その土地の名士一族なのだろうな。


タルミ米穀店と福助温泉の前の辻を右折。

本当は吹田街道はこのままもう少し直進して西に進めばいいようだったけれど、この右手に「雉子畷きじなわての碑」があるらしくて、それを見てみようかと思って。

ここは雉子鳴き道というそうだ。

長柄の渡し(淀川だな)に橋をかけることになった時、父親(岩氏)が人柱に選ばれてしまった娘がいたのだって。人柱にはこういう人がいいでしょうと父親が物申し、その通りの人が父親しかいなかったらしくて。娘は口は禍の元だと、話すことをしなくなった。

禁野にお嫁に行ったけれど話さず、実家に戻されることになってしまった。そしてこのあたりにさしかかった時、キジが鳴いて、夫が撃ってキジは死んだ。

「父もきじも口をきかねば死なずにすんだものを」って歌を娘は詠んだんだって。

吹田街道にはまだ戻らず、雉子鳴き道をつきあたりまで北上して左折。西へ向かっていった。

垂水神社(犬NG)が右の山(円山かな)のふもとに現れた。

社務所が外にあった。仮の社務所で、新しい社務所建設に1億3千万円いるのだって。3千万は神社からのお金でまかなうので、残りは寄付でお願いします(1万円から)だって。寄付の金額によって名を彫られる玉垣のサイズが変わるのだって。

裏手は森になっていて、その森は2回売却されたことがあるらしかった。氏子の人々の反対運動で一度目は買い戻し、2度目は無償返却されたんだって。そんなところだから、1億の寄付も見込まれるのだろうな。


一帯は垂水氏の住むところであったらしい。

弥生時代の集落の跡もあり、その頃から垂水氏の祖が住んでいたのだろうみたいに説明されていた。

けれど詳しくはよく分かっていないみたい。

垂水氏は10代崇神天皇の息子、豊城入彦の子孫とされているそうだ。母は紀の人。

なんだか聞いたことがあるなあと思ったら、丹比たじひあたり(堺市)の散歩で知った人だったかな。丹比連や丹比宿禰はアメノホアカリの子孫で、丹比部は豊城入彦の子孫。

丹比氏は丹比で勢力を持っていた古代豪族で、5世紀半ばには黒姫山古墳を造ったと思われ、黒姫山古墳からは、比類のない鉄製品の数々が出土している。

18代反正天皇(仁徳天皇の息子)を養育したと言われる氏族でもある。

アメノホアカリの一族は、三島では海の民ってイメージをもったけれど、鉄の民でもあったのかな。日本では鉄は朝鮮半島でとれた鉄鉱石を原料にしていたというから、海の民は鉄とも深く関わっていたのかな。

そんなアメノホアカリの一族と関わっていたのだろう豊城入彦の子孫たち。

神社の西の端には垂水の滝(大小2つ)や、垂水不動があった。滝は金網で囲われていて、水はちょろちょろと流れているだけだった。

東の端には急な階段があって、裏参道だった。山の中の細い道で、どこにたどり着くんだろうと興味津々だったけれど、上ったところは新興住宅地でびっくりした。

散歩をしているとあるあるだったけれど、いちいちびっくりさせられる。

神社の森が2度も売却され、反対運動で戻ってきたってことだったけれど、その「森」がこの裏参道のあたりだったのかな。そのさらに上は売却され、新興住宅地となってしまったのかな。

「森」も売られたままだったら、すぐそばまで木々は切り倒され、住宅地にかわっていたのだろうな。

参道を南に向かい、つきあたりまで進んだら、そこが吹田街道だった。さっきまでの145号線の少し北側の道。西に向かうと、右手にはずっと森が見えていた。


左手に新しい法源寺なる寺が現れて、すぐつきあたるので、少し左手の道をひきつづき西へ。市民センター(元は村役場だったんだって)前を通って、すぐ広い道へ出た。

いきなり都会で、にぎわっていた。リトルマーメイド(パン屋)なんかもあった。なにかと思えば交差するのは新御堂筋で、この少し南に江坂駅があったようだった。

左手の江坂町交差点で新御堂を渡り、さっきの道の続きを西に向かった。そうするとまたいきなり都会じゃなくなった。

新御堂沿いだけが都会になっていて、一歩離れたらもう片田舎みたい。すぐ高速(名神高速)下をくぐり、左折。すぐに右折。ひきつづき西へ向かった。

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