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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
35/42

安満宮山古墳

JRをくぐって北上を続けていった。

北上を続けたところにある安満宮山古墳に行くつもりだった。磐手杜神社なる神社経由で。

旧家が多くなり、少し進むと右折して、旧道の感じの道へ。

左手に古そうな寺が見えた。浄誓寺だったみたい。南朝の武士だった楠木某さんが創建したのだって。敵に追われ、天野山金剛寺(堺と河内長野の市境あたり)で出家。東大阪とかにもお寺を開きつつ逃亡。三島郡のここ安満にもやって来て、隠れ住んでいたのだって。

逃亡、隠れ住みつつ寺を開くなんて、えらい人が身を隠すために出家してお坊さんになると、隠れ住んだところが「寺」になり、「創建した」ってことになるのかな?

今は家々に取り囲まれていたけれど、なんだか雰囲気のあるお寺だった。

安満公民館があり、いりくんだ道で迷子になりかけたけれど、磐手杜神社への矢印が現れた。矢印の指し示す方向へ、急な上りの道を進んでいくと、川が流れていた。これが檜尾ひお川。

橋を渡るとすぐ磐手杜神社だった。鳥居の向こうには石舞台があって、その向こうに拝殿(かな?)があるという、変わった神社だった。

666年、天智天皇のとき、藤原鎌足が勧請したと伝わるのだって。元は安満神社と呼ばれたそうだ。

どうして磐手いわてと言うのか気になったけれど、よく分からなかった。鎮守の森は「磐手杜」と呼ばれて、歌枕として名高いのだって。

かつては川を越えて、すこしだけ山道に入ったところにある神社だったのだろうな。今もこの辺りは田舎の風情で、いい感じだった。

鳥居の前、右手に目立たない細道の入り口があった。ここを進んでいくと、北にある名神高速を越えて、その向こうにある安満宮山古墳に行けるようだった。

前には、名神高速の向こうにある闘鶏野神社に高速のすぐ上を歩道橋で渡っていって仰天したんだけれど、今回はどんなパターンで名神高速を越えるのかな?

期待して行くと、今回も橋だった。高速の上を渡る歩道橋。けれどちゃんとした頑丈な橋だし、高速からは離れた上の方を通っていたし、闘鶏野神社への参道橋を渡った後では普通に思えた。

渡った先も車道(府道79号伏見柳谷高槻線)だったけれど、あまり車が通らないので、危険もなく向こう側の歩道に渡っていけた。歩道はここだけだった。その向こうは落石防止された山の斜面で、あとは車道ばかりの世界だった。歩いている人なんて他には誰もいなかった。

高槻のウォーキング「安満コース」では、左折して、79号線を進んでいくコースが紹介されていた。反対の右に進むと、檜尾山春日神社があるらしくて、気になっていた。けれど、全く姿も見えないし、もう寄り道はやめてスルーしようかな。

考えつつ右手を見ていると、すぐ近くに上りの階段があって、気になったので行ってみた。「散策道」とあった。「弥生の丘」と「宮山古墳」へ行けるのだって。宮山古墳って安満宮山古墳のことに違いなかった。

山中への道で、とりあえず少しだけ進んでみることにした。


すぐに分岐があって、左に上ると150mで弥生の丘だって。

150mならばと行ってみたんだけれど、ずっと上りなのはいいとして、もうしばらく放置されているのか、荒れていて、木が倒れて通れなくなっているところなんかもあった。

他のところから進んでいった。かろうじて黒い段が残っているから道が分かったけれど、そのうち分からなくなるんじゃないかな。元は階段が作られていたらしいのだけれど、土が流れて、その黒い芯材だけが一部残っていて、道を教えてくれていた。

弥生の丘にたどりつくと、そこは見晴らしのいい場所だった。ずーっと遠くの山々まで見えた。ちょっとした運動遊具やベンチ、スピーカー、日時計なんかもあった。

ベンチに座って休憩。ジュエボワットのパンをいただいた。おいしかった。おかあさんのチョイスもよかった。ホットドッグと、他に甘いパン。

空腹に、自家製トマトソースがかかっているというホットドッグは最高だった!

見晴らしのいい、ぽかぽかお日さまの当たる場所で、ほかにだ~れもいないからノーリードでパンをいただくのって、最高のぜいたくだな。おまけに初のソーセージまで食っちまった。ちょっと燻製っぽい香りがして、それがトマトソースでちょっとウェットになったパンと相まって、美味しかった。


そして、さあ行こうかとベンチを離れて、初めて気がついた。

皮のはがれたどんぐりが落ちていて、まるでイノシシが噛んだかのようだなって地面を見たら、あたり一面、穴ぼこだらけ。

こんな穴ぼこが一面にできる理由ってなんだろう。もし誰かがゴルフの練習をしたのだったらあまりにも下手すぎるし、あと思いつくのって言ったらイノシシかな・・・。

イノシシのいる山にも何度か行ったことがある。こんな穴ぼこを指さして、ハイキング姿のおばさまたちが「イノシシがえさを探したのよ」って教えてくれたことがあった。そのときの匂いに似ている。

黒い糞も落ちていた。

こんなところでホットドッグのおいしそうなにおいを振りまいて、背後はノーマークで山なんか見てたのか。糞は小さめで、若い小さなイノシシかなと思われたけれど。

分岐まで戻り、平たんに見える「宮山古墳」方面への「散策道」を、この際だから行ってみることにした。

しかし「散策」ではなかった。イノシシのいると思われる、他に人の気配は全くない山中に長居はしたくなかったから、駆けて行った。

長いようでもあり、短いようでもあった山道の最後は公園墓地の中だった。

墓地は何段かの階段状になった平地に造られているらしく、その平地から平地への階段をひたすらまっすぐいくつか上っていったら「安満宮山古墳」そばにたどり着いていた。

街を見下ろす墓地公園の隅っこ。


安満あま宮山古墳は地面が一部ガラス張りになっていて、その中の穴が見えるようになっていた。石棺が置かれていた部分かな。復元して、ガラス張りにしたものらしかった。

そしてそこに立つと、周りが全部見はらせた。他に望むものなんか何もないな、って感じがした。

地平線まで全部見はらせる場所に立つ、そこに眠る、ってことは、すごい安心感と満足感をもたらすものなんだなあ。

上宮天満宮の古墳(野見一族の長の墓)よりも、福井の新屋座天照御魂神社(ここにも古墳があった)よりも、明らかに見晴らしがいい。もっと絶対的な安心感があった。ここに眠る人は、もっと絶対的な存在だったのかな。

ここで、青龍三年(西暦235年)の銘をもつ銅鏡が見つかっているそうだ。卑弥呼が魏の皇帝から鏡をもらったのが景初2年(238年か239年)だからもう少し早い。

けれど青龍3年の銘をもつ鏡は全国各地でいっぱい見つかっていて、そこまで重要視されていないみたい。青龍時代に作った物を景初時代にもらって(卑弥呼が、かな?)持ち帰ったものか?とか言われているみたい。

ここの説明では、ここには有力な豪族がいて、卑弥呼に協力して、銅鏡をもらった、という話になっていた。

今城塚古代歴史館に行ったから、あながちない話ではないように思える。ここに大きな力を持つ海の民がいたのだろうな。そして彼らが、卑弥呼の船出に協力したのかも。

安満宮山古墳は3世紀後半の古墳だそうだ。銅鏡5枚のほか、青いガラスの玉が首飾りかなにかだったのだろうな、1600個あまり出土しているのだって。

三島で最も早く水稲栽培が行われたのが安満だということは、縄文時代の終わりころにか、四国からやって来て、水稲栽培を始めた人々がいたのかな。

彼らの中には海の民もいて、三島江から海に出ていたのかな。それか海の民と水稲栽培する人々とがともに過ごすようになったのかな。やがて王が現れ、卑弥呼にも協力。やがてその末裔が三島県主となったのかな。

同じ頃に水稲栽培を始めたのだろう牟礼遺跡は、ここから南西に5kmくらいかな。


宮山古墳から、更に200m上っていけば「悠久の丘」らしかった。公園墓地の一番の高台なのだろうと思われた。

けれど古墳時代の一番の高台の墓地で十分だな、と、下っていくことにした。

散策路でやってきたから、今度は高槻ウォーキング「安満コース」で紹介されていた公道で戻ろうかな。広い公園墓地にある公道を下っていくと、途中、安満山古墳があった。

説明によると、安満山古墳は約50、安満山に見つかっているそうだ。6~7世紀のものが多いけれど、4世紀のものもあるのだって。

道を間違えたのか、散策路ではけっこうすぐだったのに、墓地公園の車道ではけっこう歩いたと思っても、まだ宮山古墳のすぐそばだった。

車用の道だから、急な勾配をじぐざぐ進ませて、その分距離が長いんだな・・・。これだと時間をくうばっかりだと、やっぱり散策路で戻っていくことにして、走って下りたらすぐ名神高速にたどり着いた。

79号線に出て右折。道は下り、檜尾川を越え、名神高速の下をくぐれるようになっていた。「安満御所の町」交差点で高速の下を通過。渡った橋は御所之橋だった。

地名も安満御所の町で、御所でもあったのかな? 「右そうじ寺」とか彫られた道標があった。

川は名神高速沿いに左に流れていって、風情があった。高速がなければ、山に近い川で、いいところだっただろうなあ。

川とは反対に右に進んで、79号線を南下していった。

右手(西)はすっかり住宅地になっていた。左には池が見え、その周遊路が素敵で、今度はその周遊道を南下していった。池の向こうにはお寺が見えた。これが浄誓寺だったみたい。行きも通ったところ。

遊歩道が終わり、左折すると道祖神神社があった。小さな神社というか、祠のようだった。このあたりは、なんだか雰囲気が現代社会とは違っていたな。

道祖神神社に祀られるのは、ニニギの天孫降臨で道案内した神とされていた。


西の79号線に戻って南下していった。現代社会に戻って、次の信号で右折。

このあたりはウォーキングのルートになっているようだった。「花の井」「文塚」「不老水」「能因法師塚」「古曽部窯跡」とか、いろんな案内が現れた。日吉神社の鳥居も見えた。

左手にはビルが、前方には緑が見えていた。どうやらビルは高槻市駅あたりで、緑が上宮天満宮のようだった。

駅に近いようだったけれど、とてもそんな雰囲気じゃない。石が転がっていて、カラスが鳴いて、そんなのが似合うところだった。道も複雑にいりくんでいた。どうやら古曽部地域に入っていたみたい。もっとちゃんと歩いてみたい感じで、今回、時間は思いきり押していたからいったん退散。また次回、やって来ることにした。

古曽部は、前に見た古曽部焼きの生産地だったところ。社戸こそべ(許曽部)氏がかつて住んでいて、こそべと呼ばれるようになったのだって。安倍氏と同族なんだそうだ。

あとは昼神車塚古墳にも行くつもりだったのだけれど、それも次回ということにして、駅に向かった。上宮天満宮以外のなにでもないだろう緑がいい目印だった。

上宮天満宮を南に行けばすぐJR高槻駅だったから、そちらに向かって丘を下っていった。

高槻って、最初やって来た時は、けっこう都会で、キタのほうの大きな地方都市ってイメージだった。比較的新しい町。とんでもない誤解だったな。古墳、海の民、早くからの稲作、卑弥呼の知人。

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