今城塚古代歴史館
本当の継体天皇陵だろうと判明してきた今城塚古墳にやって来るのは2度目だった。
横にある古代歴史館は初めてだった。入館無料で、ちょっとだけのつもりで入った。それが長居して、まだまだいろいろ回るつもりが、帰る時間になってしまっていたくらいだった。
今城塚古代歴史館の常設展は、今城塚古墳にまつわるあれこれだった。真の継体天皇陵だと言われるようになったのは、天皇でしかありえないような富や権力の集中がみられる古墳だからのようだった。その富と権力の集中ぶりを、ここではとくと見せてくれた。
天皇陵って、発掘するのは今現在ではタブー。
かつては盗掘され、壊され、ほぼ忘れられ、どこにあったかも分からなくなっていたそうだ。けれど江戸時代、水戸黄門とかが国について語り始めた頃からかな、天皇、そして天皇陵が見直され、どこが誰の陵か定められ、よく分からないものについては、工事して天皇陵らしいものを造って「〇〇天皇陵」ってことにしさえした。
その後もお濠で釣りなんかはできていたみたい。でも今では、宮内庁の名でガードされている。
発掘調査もほぼ認められていなくて、ほとんど解明されていない天皇陵のあれこれを、天皇陵とされていないために発掘を行える今城塚古墳では、見れてしまう。
明治時代、よく分からないままに近くにある太田茶臼山古墳が継体天皇陵ということにされたから、今更、こっちが本当の天皇陵でしたとはできないんだそうだ。
伝仁徳天皇陵も最近になって少しだけ発掘作業が行われ、すごいことのように言われていた。けれど、ここではもっと大胆にすごいことが行われている。墳丘を歩けてしまう(犬はNGだけど)し、中から取り出したあれこれを展示してしまえる。
まだ一部しか発掘していないようだけれど、それでも数々のものが見つかったみたいだ。それを、間近に見られるなんてなあ。
しかもすごく空いていた。わたしたちが行ったとき、他にいたのは2,3人。
常設展は、わたしには衝撃だった。衝撃的過ぎた。衝撃で、時間も忘れてしまった。
これだけの富と権力が集まっているから天皇陵、そう言い切ってしまうのはどうなんだろうとわたし的には思った。継体天皇の時代、天皇だけに富と権力がそんなに集まっていたとも言い切れないんじゃないかと、ただの想像でだけれど思う。
それにしても、ここに眠る人はただものではなかった。
衝撃だったものの1つは、おすもうさんだった。見つかった象形埴輪の1つ。今のお相撲さんと同じようにまわしをした、おすもうさんと一目で分かる埴輪だった。
前に来た時も、古墳周りにある「はにわ祭祀場」にレプリカが置かれているのを見た。けれどそんなものが出土したとは信じがたくて、現代人が埴輪っぽく作ったものを置いているだけじゃないかとか思っていた。
それが正真正銘出土したもの、古墳時代に造られたものであったらしい。
こんなことがあっていいの?
すもうって、いったい何なんだ・・・。古墳時代からすでに今と変わらずあったらしき、神事。
その後で、テレビで貴花田(元)が言っているのを聞いた。相撲って、元はヘブライ語の「シュモウ」からきているとも言われているんだって。ヘブライ・・・。
一般的には、それは奇説とされているみたい。けれど、古墳時代のお相撲さんの、その完成されきった、今に続く姿を見てしまうと、ない話でもなく思えた。
日本で興ったというより、よそから伝わって、そのままのスタイルが継続されたというほうがしっくりくる感じがした。「はっけよい、のこった」もヘブライ語からきているという説もあるんだとか。
伊勢神宮にはヘブライを思わせるなぞのマークが刻まれていたと聞いたこともある。「ダビデの星(日本では六芒星)」と呼ばれるマークだそうだ。それがどうして伊勢神宮に刻まれなければならなかったんだろう・・・。
野見宿禰も、いったい何者だったんだろうと思った。
埴輪を考案し、自らも相撲をとったのかもしれない人。
その祖は、アマテラスの子、ニニギの叔父。出雲に行って、オオクニヌシに心服し、出雲に暮らした人。
もしかしたら、アマテラスやその子どもたちは、伊勢神宮に刻まれたマークから乱暴に言ってしまえば、ヘブライの人々であったもおかしくはない、というわけ・・・?
ほかにも衝撃だったことには、古墳の周りには、円筒埴輪が6千本ぐるりと並べられていたんだって。
その超ミニチュアが展示されていて、6千本の円筒埴輪には気が遠くなるようだった。これほどの数の円筒埴輪が、土を集め、土をこね、形作り、焼かれて運ばれたのか。泉北の須恵器製造・配送センターからも。
だから「天皇でしかありえない」といわれているんだな。
常設展では、その円筒埴輪の、出土した実物が、補修されてはいるものの、そのままに展示されていた。
全然すすけていたりせず、まだちゃんとした質感で存在していた。それも衝撃だった。古墳時代なんてすぐそこなんだな。
そしてその円筒埴輪の実物の一部には、同じ位置、円筒埴輪の頭くらいの部分に、同じマークが入れられていた。
細い線で描かれたそのマークは、舟の形をしていた。これはもしかしたら王家の紋章?と思って、それも衝撃的だった。
それとも、王に円筒埴輪を捧げる側のマークだったのかな? 円筒埴輪は王に仕える人々が贈ったもので、海の部族が自分たちのマークを入れて贈ったんだろうか。
王の近くには海の民がいたのは確かだった。そのことを語る紋章だった。それがもしかしたら津之江や阿久戸に港をもつ三島の王だったのかも?
三島には式内社の新屋座天照御魂神社もあった。祭神はアメノホアカリといわれている。地元の住吉大社の社家、津守氏の祖神でもある人。住吉大社に祀られる住吉三神は、水運や海の神様だった。
神功皇后(応神天皇の母)が創建したと言われていて、そこは港だったんだとか。
新屋座天照御魂神社は10代崇神天皇のときの創建で、神功皇后が1社だったのを3社に増やしたと言われている。芥川より西の茨木川とか安威川とかの流域だった。太田茶臼山古墳の近く。
そして芥川の近くには今城塚古墳。
港、神功皇后、三島の王、アメノホアカリ、そのあたりがキーワードなのだろうなあ。
他にも古墳が雨などで壊れないように、石を積む過程で水を通す穴を造っていたりとか、そういうことにもびっくりだった。「高度な土木技術」により巨大古墳が造られた、って、こういうことをいったのね。
古墳なんて土を盛っただけ、そこに石を葺いていたみたい、それくらいの感覚でいたので、巨大古墳が水を通す樋なんかも設置しつつ造られたことを知って驚いた。
そしてその作業のさまが等身大の人形で展示されたブースがあって、それもびっくりだった。これだけのものを無料で見せてくれる、高槻市の心意気。
思いがけず今城塚古代歴史館で時間をとられ(でも、もっといたいくらいだった)、サニーサイドでカレーパンを買って、古墳の横で食べて、急いで帰路に着いた。
空の広い古墳の横を西に向かい、車道(115号線)に出ると、ここを南下していった。
見知った宮田春日神社を越え、犬の幼稚園なんてところを通り、摂津富田駅にたどり着いて、家に。計画していた半分も歩いていなかったように思うけれど、面白い一日だった。




