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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
31/42

野身神社と阿久戸神社

涼しくて心地よい季節はあっという間に終わり、ちょっと寒いくらいだった11月後半、また高槻に行った。

行くつもりだったのに時間が足りなかった「しろあと歴史館」(無料)に行きたいと思った。前に茨木で行った「文化財資料館」みたいに面白そうだった。

あと、三島の古代の王の子孫と目される三島県主の氏神、阿久刀神社や筑紫津神社、アジャリの森も気になった。

JR高槻駅から北すぐにあるらしい上宮天満宮にもついでに行って、それから阿久刀神社へ、せっかくだから今城塚古墳の古代歴史館にも行って、近くのサニーサイドのパンを買って、筑紫津神社とアジャリの森に行って、城跡公園、しろあと歴史館と巡って、高槻駅から帰ろう。時間があれば安満にも行ってみたいな。

今回もまた全然時間が足りなかったのだけど・・・。


高槻駅は都会なのだ。何度かやって来て、分かっていたけれど、やっぱり人も多かった。梅田なんかに比べれば駅はコンパクトだけれど、女子トイレには都会にありがちな行列。

高槻駅は北口から出ていった。そこに歴史街道の地図があって、興味深かった。

とりあえず上宮天満宮を目指して、左に見える西武百貨店の方へ。

西武百貨店の西側の道に降りていくと、目の前に大きな鳥居があった。鳥居が面している東西の道が西国街道。途中まで(亀岡街道との交点から高槻駅そばまで)歩いた西国街道だけれど、ここはまだ歩いていなかった。

鳥居の向こうにも普通に道が続いていて、先へ進むと天神町一丁目交差点。ここから急な上りの坂道が始まっていた。この上が上宮天満宮のようで、坂の下には参拝所があった。参拝所があるのも分かる、急な長い坂道だった。

ここも「ツールド大阪 高槻ウォーキングコース」になっていた。

坂を上って行くと、今にも倒れそうな灯籠がいっぱいで、みんな近寄れないように柵をほどこされていた。かつてはお寺とも一緒になっていて、ここに南大門などあったのじゃないかと思われる向こうに広い境内があった。

すぐに、今まで進んできた下の世界をバックに建っているのが野身神社だった。「野見宿祢古墳」とあった。野見宿禰の墓と伝わるそうだ。

ここ天神山には古墳が4つあって、上宮天満宮の境内には2つあり、1つがここで、もう1つは道路で分断された昼神車塚古墳であるらしい。

一帯は野見(濃味)郷(島上郡)だったところで、土師氏の族長が葬られたところなんだそうだ。

野見宿禰って、自分より強いものはないと慢心していた蹴速と勝負させるため、出雲から呼ばれた人だ。当麻蹴速と野見宿禰の勝負は、人間同士が行った最初の相撲とされている。

野見宿禰は当麻で蹴速の背骨を折って勝利し、その褒美として蹴速の領地をもらいうけた。そして垂仁天皇に殉死をやめて埴輪に替えたらとどうでしょうと進言して、採用された。子孫が土師ノ里に住んだ土師氏、菅原氏など。有名なのは菅原道真。

出雲、当麻、土師ノ里。野見宿禰に関わる土地って、そういうところだと思っていた。ところが、こここそが本貫地だって感じに説明されていた。

そしてここは高台にあって、まさに「野見」って感じだ。

高槻駅の南には高槻城にあったっていう野見神社があり、式内社の野見神社を名乗っていた。けれどここ野身神社の方が可能性が高いのかな。

弥生時代の銅鐸も出土していて、古くから人のいたあたりなんだそうだ。

天神山は元は日神ひるがみ山といったらしく、昼神車塚古墳の昼神もそこからきているのだろうな。日の神、武日照命が降臨したところとされているらしい。そしてその武日照命の直系の子孫たちが、土師氏の族長「祈みのみの直」なんだって。


野見宿禰の祖先はアメノホヒだった。アマテラスの子なのだけれど、出雲に心服して、オオクニヌシの元で生きるようになった人。

その息子が建比良鳥たけひらとり命、またの名を武日照たけひなてる(たけひなでり・たけひなどり)命というのだって。

その人が、ここに天下ったとされている。武日照の代にここにやって来たのかな。

野見宿禰が祀られているのは、三河、尾張、因幡とここだけなんだって(神社の説明では)。「ここ」って、河内のことかな。ここは摂津国だったけれど、元々は河内国だったのが摂津や和泉に分かれていった。河内国では他にも野見宿禰が祀られていた。交野の片埜神社は垂仁天皇に河内に土地をもらった野見宿禰が祀った神社で、堺の石津神社は野見宿禰が初代神主となった神社とされていて、野見宿禰を祀っていた。

ちょっと寄っただけのつもりが、いきなりすごいところにやって来たなあ。野見宿禰の墓とか古墳とか伝わるところは、各地にあるそうなのだけれど。

昼神山には後に菅原道真も祀られるようになり、今はその上宮天満宮が一番大きかった。割拝殿で、拝殿の奥に入っていけるようになっていた。そこには受験生たちの絵馬がいっぱいかかっていた。

ここは2番目に古い天満宮なんだって。でも「2番目」を名乗る天満宮も各地にあるみたい。

最古は太宰府天満宮のようで、ここは菅原道真の霊を鎮めるために、菅原道真にゆかりのある土地に霊を祀ったものらしい。

神社の境内はけっこうな高台にあって、周りは崖みたいになっていた。どんぐりがこつんこつん、音をたててしきりに落ちていた。

保護猫も大事に育てられている神社のようで、天満宮の裏手には、保護猫の関係の小さな神社も祀られていた。

上って来た坂を下って、下界に戻っていった。途中、参道にある説明によると、参道の「天神馬場」に秀吉が本陣を置き、天王山の戦いで勝利したって歴史もあるそうだ。


坂の下の天神町一丁目交差点を右折。左(東)に行くとすぐ昼神車塚古墳だったのだけれど、分かっていなかった。

府道67号西京高槻線を西に進んでいくと、少し高いところに広智寺があった。

次の信号で、笠松地蔵がいる道に入っていった。高槻市のウォーキングコースの1つ「西国街道コース」にあたる道らしくて、コースの次の目的地の霊松寺の案内が出ていた。

霊松寺も坂の上にあった。坂は行きは「ねがひ坂」、帰りは「かなへ坂」だって。山門の前までだけ行ってみた。見晴らしがよくて、どんなにいいところだったろうと思われた。

霊松寺は行基が開いたと伝わるそうだ。古くは「牛飼山地蔵院」といったんだって。牛飼の人々が住んでいたところだったのかな。

しばらく「西国街道コース」の案内に沿って進んでいった。すっかり住宅地になっているけれど、山だった感じの残るところで、次には慈願寺の案内が現れた。建物などに阻まれて姿は見えなかった。犬NGと姿が見えないうちから書かれてあったし、よく分からないままスルーしたのだけれど、西の山々もよく見える、素敵な高台にあるかと思われた。

今や住宅密集地だけれど、のどかで素敵なところだっただろうな。ここは聖徳太子が開いたと伝わり、古墳もいっぱいあったところだったのだって。

「西国街道コース」はさらにやや北寄りの地蔵院(ここも行基が開いた牛飼山地蔵院に始まるのかな?)に向かうらしかったけれど、南方面に進んでいった。

後で知ったことには、「西国街道コース」は地蔵院から笠森神社、真如寺と向かうらしくて、わたしたちが向かったのも笠森神社(→真如寺→阿久戸神社)だったから、どうせなら地蔵院経由で歩けばよかったな。


少しだけ田園風景が残っているところがあって、素敵だった。月見町あたりだったのかな。

山を背後に田んぼ、水路、灯籠、大きな旧家、真っ赤なケイトウの花。 けれど振り返れば、大きなビルたちが見える。

水路沿いを西に歩いていくと、真上まかみ郵便局近くの信号に出た。複雑な交差点になっていたけれど、交差するバス通りの向こうに「西国街道コース」の笠森神社の案内が見えて、そのまま水路沿いに西に進めば笠森神社のようだった。

府道6号枚方亀岡線を過ぎて、すぐ越えた水路が素敵だった。このあたり一帯は地名に「真上まかみ」がついていて、真上郷だったあたりのようだった。真上氏(西国御家人?)もいて由緒正しいところのようだったけれど、詳細はよく分からなかった。

時々旧家も現れた。けれどほぼほぼ住宅街だった。水路沿いのはずの笠森神社は水路からは行けないようで、「西国街道コース」の案内に従って水路から離れて住宅街の中をじぐざぐ進んでいった。現れた笠森神社は、一見すると神社とは分からなかった。普通の大きな旧家に見える門の向こうが神社のようだったけれど、門は閉ざされていた。

地震で危険な状態になっているから、閉鎖中だったみたい。そうでなくても、元々月に4回しか開門されない神社らしかった。

江戸時代には、笠森からのだじゃれ(?)で「瘡守神社」ってことで、皮膚病の神様として全国的に有名だったそうだ。疱瘡とか梅毒とかで人が死んでいった時代ね。


道を引き返し、さっきの水路沿いを西に向かうと、すぐ堤に向かって上り道になった。細い道から進んで視界が狭いので、堤の向こうの大きな旧家しか見えなくて、一瞬江戸時代のようだった。

けれど堤に上がってみれば、周りにはやっぱり住宅がぎっしり。

左折して川沿いを南下していった。静かな道だった。

川は真如寺川で、三本橋とか真如寺橋とかがかかっていて、真如寺橋を過ぎると左手に墓地と真如寺が現れた。真如寺の詳細は不詳。芥川の氾濫で記録もなくなったからだそうだ。それでこのあたりって「不詳」のところばかりなのかな。

けれど、なんていいところだったろう。カーブする川、土手道、お寺。お寺はけれど固く門を閉ざしていた。川向こうには神社が見えていて、あれが阿久戸神社じゃないかな。

川を渡る歩道橋があって、川を渡った。けれど更にもう一つ川を越さないといけなかった。ここで真如寺川が芥川に合流して大きな川になり、南東に流れていっていた。ここはそのちょうど手前で、真如寺川の次には芥川を渡らないといけなかった。

ところが芥川を越える橋はなかった。代わりに飛び石が見えた。石が川面から出るように並べられていて、ここを飛んで対岸に行くっていうやつ。

そちらに向かっていったけれど、他に人は誰もいなかった。石は対岸まで並んでいて、向こう岸には階段も見えたから、やっぱりここで渡れそうだというわけで、ぴょんぴょん飛んだ。

住吉公園にある心字池にもほんのちょっとした飛び石があって、それと同じだと自分に言い聞かせたけれど、ちょっと怖かった。ずっと石の数は多いし、川は流れているし、石は川面からそんなに出ていない。水深もけっこうあった。ぴょんぴょん飛んでも、なかなか向こう岸に着かなかった。

やっとたどり着いて、階段を上っていった。けれど、ぐるりを大きな土のうに囲まれていて、通せんぼされているの。

おかあさんは大股で土のうをまたぎ越した。わたしもがんばってジャンプした。

こんなところで冒険するとは思わなかったなあ。

そこから対岸を振り返ると、山々がパノラマで見えていた。すごい!

土手から神社に降りていけて、やっぱりそこは阿久戸神社だった。近くの高校の下校時刻になったと見えて、急に堤には学生だらけになった。


阿久戸神社には、総社みたいに、いろんな神社が集まっていた。

御神木(神籬・ひもろぎ)として祀られているのは樹齢800年のムクノキだった。「鋳物師あるところムクノキあり」のムクノキね。

他に十月桜が咲いてた。モミジは紅葉せずにちりちりになってきていた。全体的に、村の神社の感じがしていた。

そして、三島の王の子孫の氏神ときいて想像していたのとは違って、随分低い位置にあった。神社とか、高い位置にあると勝手に想像していた。けれど芥川の堤よりもだいぶ低い。

ここは港だったあたりなんじゃないかな、そこに祀られた神社だったのかな、という感じがした。

三島県主(三島の王の末裔?)が郡衙を任されていた頃、芥川と女瀬川との合流地点あたり(津之江)に港があったということだった。同じように氏神を祀ったというここ(芥川と真如寺川との合流地点)にも、港があったのじゃないかな。

そして芥川は「阿久戸」からきているのだろうな。

阿久戸神社の祭神は住吉三神ということになっているものの、よく分からないみたい。


ここから、南にある津之江へ向かうつもりだった。その前に、オプションとして、西の方にある今城塚古代歴史館へ行くことにした。真の継体天皇陵とされている今城塚古墳の横にある歴史館。せっかく近くまで来たから、行っておこう。

ちょっと寄って、その先まだまだ歩くつもりだった。それが、この今城塚古代歴史館が、面白すぎた。長居しちゃって、おなかがぺこぺこになって、サニーサイド(そばにあるパン屋)へ。

サニーサイドと言えばカレーパンみたい。前回はパスしたのだけれど、お腹がぺこぺこだったので、がつんときそうなカレーパン他をゲット。カレーパンは次々無くなり、すぐに揚げたてがまた並べられるみたい。最後の一個をゲットしたけれど、それでも熱々だった。

揚げたてのカレーパンはおいしかった。「うまいうまい」とおかあさんと今城塚古墳の横で食べた。

「今城塚古代歴史館で時間を忘れて、その後、すぐ横の今城塚古墳公園で揚げたてのカレーパン」ってコースをぜひお勧めしたいなあ。

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