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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
30/42

西国街道を芥川宿まで

阿武山古墳は藤原鎌足の墓ではないかと言われている古墳だった。

絹と漆を重ねて固めた「乾漆」という中国伝来の技法で棺は作られていて、中の遺骨も状態がよかったから検死(?)にかけると、藤原鎌足その人であってもおかしくないという結果がでたという。中国伝来というけれど、伝わったのは飛鳥時代だったのかな? 聖徳太子の棺かも?と話題になったという、柏原市玉手町の安福寺にあった棺も乾漆棺だった。

遺骨の周りに散らばっていた金糸も、鎌足が授けられたっていう冠位十二階最高位の冠の糸なんじゃないかと噂になったみたい。

今城塚古墳から阿武山古墳はけっこう離れていて、ついでに途中にあるらしい闘鶏野神社やハニワ工場公園にも行くつもりだった。

岡本町名神下交差点まで、広い車道(115号線)を北上していった。交差点の上には名神高速が走っていて、闘鶏野神社は名神高速を過ぎてすぐを左(西)に行ったところにあるらしかった。

けれど、115号線からはこの先、しばらく西に向かう道は現れないようだった。大きな池などがあって、そこをぐるりと大回りして行くことになるみたい。

そんなに無駄には歩きたくないな、と引き返し、高速の手前(南側)で西に向かってみた。

歩道のない狭い道をなんとか西に進んでいったけれど、高速下をくぐって北に出るトンネルは封鎖されていた。代わりに、もう少し先に、名神高速の上を渡る歩道橋らしきものが見えた。


歩道への上がり口を探してさまよった。そうすると、高速から離れていったあたりに旧家がかたまっているところがあって、「観音寺跡」があり、「参道」があった。

その参道を進んでいくと、高速の上に向かう階段が始まった。そしてその先には、名神高速のけっこうすぐ上を渡る細い歩道橋が続いていた。

高速の上を歩いていると思うとこわかった。なんというか、高い位置にある神様の場所に生贄として進んでいっているみたいな。

前は奈良春日神社が高速の向こうに引っ越していて、参道が長くなっているパターンにちょっと驚いたのだけれど、これはこれですごい。高速の上の渡る参道・・・。

高速の上を過ぎると、そこは山の中腹部で、すぐが闘鶏野神社だった。なんというか、周辺は新興住宅地になってしまい、参道を高速が横切るようになり、囲われてしまった感じのする神社だった。高速ができる前は山の中にある、素敵な神社だったろうになあ。参道も普通に山の中にあっただろう。


闘鶏野つげのは、仁徳天皇の頃、額田大中彦皇子(仁徳天皇の異母兄)の猟場だったところだそうだ。

闘鶏つげで猟をしているとき、氷室を見つけて、「あれは何だ?」と問うと、「氷室という、夏でも氷を保存できるところでございます」「それはいいなあ」というわけで、皇子は仁徳天皇に氷を差し上げたのだって。

その闘鶏や氷室は奈良の天理あたりらしい。どうしてここにも闘鶏野神社や氷室町があって、ここで額田大中彦皇子の話が語られているのかは説明されていなかったけれど、闘鶏野はこの地にあったという伝承があったとかかな?

神社の東には池があるはずだったけれど見えず、車の騒音が聞こえた。

ここは高槻散策モデルコースの「古墳群コース」になっているようで、次には八幡神社が案内されていた。

そちらの方向(西)には下りの道があって、家々が見えていた。

わたしたちが行くつもりだったのもそちらの方向だった。けれど、雨が降りだした。どうしよう・・・しばし考えたのだけれど、雨足が強まり、今回は阿武山古墳は見送ることにした。ここからまだ道のりは長いらしく、雨の中、あまり駅から遠く離れたくなかった。

もう一度高速の上の参道を渡って、引き返した。

観音寺跡にある木陰のベンチで休憩して、パンもいただいた。

幸い雨足が弱まってきて、西国街道(今城塚古墳)まで戻ることにした。

観音寺跡の説明が、高速と住宅街との間の狭い空地にたっていた。観音寺は一時は大きな寺院だったそうだ。創建の時期などは不明だけれど、高槻城主だった永井さんが大檀家だったらしい。けれど明治になって高槻城は廃城になったし、檀家を失って観音寺も退廃。唯一残っていた護摩堂も平成の時代に解体されたそうだ。


今城塚古墳、それから西国街道に戻っていった。

続きを東に向かうと、水はないけれど水路沿いの道だった。

旧家が多くて、街道の感じがそれなりにあったけれど、目の前にはビル群だった。これから高槻駅に近づいていくみたい。

そして西松屋の見えるバス通り(府道6号枚方亀岡線)に出る前に左折した。雨も気にならない程度だし、また寄り道して、北の素盞嗚尊神社に行くつもり。

途中、芥川廃寺についての説明があった。このあたりで7世紀に建てられた寺跡が見つかり、塔の心礎はこれから向かう素盞嗚尊神社の手水鉢に使われているのだって。7世紀って飛鳥時代、お寺がブームになって次々建てられたという白鳳文化の頃かな。

このあたりは、こんなになるべきところじゃなかった、ととても思った。なにもかも無かったみたいに「跡」の説明板だけがたてられた、水も緑も乏しい住宅街なんかに。昔のままに残しておくべきところだった。どんなにかいいところだっただろう。

右手は広い空き地で、重機が入り、工事か何かが行われていた。このあたりは郡衙跡らしいから、史跡公園になるとかだといいのにな。

高槻市は高槻駅のすぐ近く、安満遺跡に大きな公園を造っているのだって。しろあと歴史館も今城塚古代歴史館も無料だし、そういうところに力を入れている高槻市だから、ここも郡衙跡公園とかになるのかもしれないな、と思った。

空き地の先、つきあたりが素盞嗚尊すさのお神社だった。東向きの神社だった。

木々がなくてふきっさらしの中にあるのが違和感のある神社だった。元は鎮守の森と一体になっていたのじゃないかな。その森のざわめきを、吹きっさらしの中で覚えているような神社だった。

かつて、今の高槻市や茨木市、三島郡のあたりは三嶋郡だった。それが島上郡と島下郡に分かれて、ここは島下郡。

そしてここに島下郡の郡衙(郡の役場)があって(地名も郡家新町)、郡衙にはお寺がつきものだったようで、そのお寺が芥川廃寺と呼ばれるお寺。

素盞嗚尊神社は芥川廃寺跡に建てられた神社らしいけれど、詳細は不詳。そしてここの手水鉢が芥川廃寺の塔の心礎だったもの。「塔」は三重塔とかのこと。そういった建物の柱は土中に直接立てるのじゃなく、土の上に置いた石の上に立てられた。その石が「礎石」で、一番大事な中心の柱(心柱)の下に置かれたのが「心礎」ね。石に開けた穴に心柱は立てられたので、心礎はよく手水鉢に再利用されている。

ここは「ツールド大阪 高槻ウォーキングコース」のコースでもあるらしかった。


参道を東に向かい、信号を左折して6号線を南下。西国街道に戻って行った。左手に、今度は郡衙跡の説明があった。

ここは島下郡郡衙のあったところで、芥川の西岸にあたる。東には芥川、南には山陽道(西国街道の前にあった道)、北には阿久戸神社、西には芥川廃寺があったと説明されていた。

島下郡の郡司をつとめたのは、三島の王の子孫とみられる三島県主一族だったそうだ。

前に高槻街道歩きで女瀬川のもっと下流のほうにある五百住ってところに行ったとき、三島県主飯粒って人のことを知った。安閑天皇(継体天皇の息子)の時、いい田畑を差し出すように天皇に言われ、郡司の大河内直❘味張アジハリとは違って喜んで差し出した人。

摂津の御野みの(三野)や三島の桑原を差し出したそうだ。

五百住から女瀬川をもっと下流に行くと津之江だった。そこで女瀬川は芥川に合流。なぜか筑紫津神社があった。

津之江には淀川の水運に関わる施設があったと見られ、島下郡衙や三島県主一族に関わりの深い港があったと思われるみたい。

そして島下の郡司の氏神は北の阿久戸神社で、墓地は岡本山にあったのだって。

岡本山も芥川と女瀬川の間、名神高速の北の南平台ってニュータウンになっているところみたい(奈佐原丘陵)。中でも一番古くて大きい岡本山古墳は3世紀後半の前方後円墳で、三島の王の墓と思われるそうだ。

三島の王は芥川と女瀬川の間を本拠地にし、3世紀後半には前方後円墳を築き、三嶋で県主になり、後には嶋下郡の郡司になった、というわけかな。


西国街道に戻る前、清福寺バス停があった。地名も清福寺。

江戸時代、各地に大工組がいたそうだ。ここには摂津十組大工組の1つ、清福寺大工組がいたのだって。

大工村だったというところを今までの散歩でも歩いたことがあったけれど、それも同じように大工組の村だったのね。清福寺大工組の人々が建てた太子堂が今も残っているそうだ。

それから西国街道に戻り、東に進んでいった。水路だった感じがあり、新しいものの中に古いものが取り残されたように存在していた。

芥川を芥川橋で渡った。地蔵堂があったり、遊歩道があったりして、人も多かった。北には「芥川桜堤と太子堂」と案内されていた。

シラサギがいて、紅葉もきれいで、川は素敵な風景だった。渡ったところにもお地蔵さん(橋詰地蔵尊)がいたり、金毘羅灯籠があったりで、まちかど遺産となっていた。

このあたりのお地蔵さんも化粧が施されていた。池田のくっきり眉と目が描かれたお地蔵さんよりはよほど穏やかな顔に描かれていたけれど。

なんだか変わった感じのところだった。人でにぎわっているのだけれど、空気感が古い。そうしたらここは、芥川にあった宿の西口だったところらしい。

西国街道は京から九州につながる街道で、途中に宿が50ほどあり、京から数えて1つ目が山崎、2つ目がここ芥川、3つ目が郡山・・・と続くらしかった。その芥川宿の西口がここで、水門があったのだって。

枚方にも京街道の宿があって、風情があった。枚方ほどではないけれど、少し似た感じ。


東口には一里塚が残っているそうだ。この先、歩いていて、一里塚を見た記憶はある。説明板の立てられた、狭そうに囲われたところだった。でも、あまり覚えていない。疲れてきていたんだろうな・・・。

その後、道は左折してしばらく北上した後、また東へ。

でも途中でルートを外れて、高槻駅から帰るべく駅を目指した。芥川商店街や、アクトモールの中を歩いたような記憶がある。どこもにぎわっていた。ゆうきパンとか、気になるパン屋もいくつかあった。

そして、高槻駅に到着。かなり都会だった。

しろあと歴史館とかにも行く予定が、全然時間が足りなかった。また次回、と帰途についた。

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