茨木の溝杭神社
まだ暑かった9月半ば、茨木に向かった。予想最高気温は30度近く。けれど夏が始まる前、30度越えでも散歩に行ったしな、なんて朝は涼しくて、行けるような気がしてくる。それでいそいそと準備した。
夏になる前、茨木は枝切街道を途中まで歩いていた。
それで茨木の面白さを知った。すごい古さを残す面白いところって、中河内は柏原市あたり、南は和泉市あたりだな、と思っていたのだけれど、北はどうやら茨木みたい。
弥生時代、銅鐸を大量生産して流通させていたらしきところ。古くから水稲農耕が行われ、神武天皇の妻のおじいちゃんらしき三島溝杭が住んでいたらしきところ。
ただ、いろんなことが分からなくなっている。もう古すぎる話なのかもしれないけれど、それに加えて北の方って、古さを跡形もなく消して発展していっている感がある。
茨木や高槻はかつて三島と呼ばれていて、茨木には溝咋神社もあるらしかった。枝切街道を歩いた後、気になったところをいくつか回った。東奈良遺跡とか佐和良義神社とか牟礼神社とか。それから次には溝杭神社などに行こうと準備していた。けれどその日の朝、地震が起きた。
電車はあちこちで止まっていたし、茨木は特に被害が大きかった。それから夏が来て、散歩自体に行けなくなった。あの続きを歩かないことにはな、と思っていた。
JR総持寺駅から歩くことにした。
総持寺駅なんて、知らないで暮らしているはずだった。けれど4年ほど前、近場を散歩していて熊野街道や紀州街道が案内されているのに気づき、散歩ついでに歩いてみて、案外古い大阪の歴史を知った。街道をもう少し先まで歩いて行ってみようと距離を伸ばしているうちに電車に乗って続きを歩くようになり、他にもいっぱい街道があることを知って、あちこち散歩することになって、総持寺だ。
東海道本線(京都線)で、総持寺駅は案外大阪駅から近い。平安時代、藤原某さんがおそらく山の中だったところにだろう、創建した総持寺が近くにあって総持寺駅。前に行った総持寺は、今では開発されてすっかり住宅街になった中にあったけれど、周辺には古い時代の感じを残してもいた。
大阪駅、新大阪駅、東淀川駅、このあたりは駅ができるまでは田舎の低湿地だったところ。
それから吹田駅は船便で栄えたあたり。岸辺駅は古くは吉志部のいたところと思われ、千里丘駅は須恵器の焼かれていたあたり。で、茨木駅は銅鐸の生産地だったあたり(東奈良遺跡)。それからJR総持寺駅。
さらっとだけれど、どこも歩いたことのあるあたりだった。
途中通った岸辺駅では、西側には大きなコンテナがいっぱい積まれ、東側には前に散歩した時、工事していた「医療都市・健都」がほぼ完成していた。大きなビルの群れになっていて、商業施設も11月オープンと大きく書かれていた。
そして千里丘駅あたりからは下町感が漂い、茨木駅あたりでは屋根にブルーシートが目立っていた。地震の被害が多すぎて、改修が追いついていないとニュースで言っていた。
JR総持寺駅で降り、阪急総持寺駅までの道を進んでいったら、左手に総持寺が見えていた。平地の向こう、ビルや家々に囲まれて一部だけ姿を見せていた。高台にある感じではあるけれど、思った以上に建物がいっぱいで、よく見えなかった。
総持寺駅スタートで散歩して、かつて山にあったのだろう総持寺(寺)周辺の高低差を遠目に見てみようと思っていたのだけれど、建物の陰になって、高低差なんてほぼつかめなかった。
気をとりなおし、次は溝咋神社を目指して行った。
阪急電車の高架をくぐって、総持寺本通商店街方面へ。上りの道を進むと常稱寺があり、感じのいいここは前回も歩いたあたり。
つき当たりを右折して、下りの道を南下していった。総持寺本通商店街もこちらに続いていた。ここでも、ところどころでブルーシートを見た。
商店街の筋には時々は古そうな建物もあった。けれど、もう新しい町に溶け込んで、現代になじんでいて、古さをあまり感じさせなかった。つきあたりまで南下していったとき、目の前に現れた大きな旧家は違った。存在感がすごかった。蔵もいくつかあり、すっごく古そうな別棟も見えた。今は水がないけれど、家の周りには濠があったようだった。
右手になにか気になる空間があって、行ってみた。
すぐに新屋神社遥拝所があった。かつては周りは空も広く、遥拝できたのだろうな。今は周りを建物で囲まれて、窮屈そうに小さく存在していた。
新屋神社は正式には新屋坐天照御魂神社。式内社(平安時代に編纂された神社名鑑みたいなのに記載された神社)で、茨木の3か所に分かれてあり、そのうちの2つ(西河原と西福井)には以前に行った。
すぐ西は安威川で、向こう岸に、茂る木々の見えているところがあった。前に行った牟禮神社だった。
前回の散歩では牟禮神社まで行って、安威川沿いに溝咋神社にも行くつもりが、時間オーバーで引き返したのだ。
ここから川沿いに南下して溝杭神社に向かってもよかったのだけれど、大きな旧家まで戻って、旧家の東側の道を南下していった。地名は「橋の内」で、なんだか複雑なことになっている辻を通った。この感じは、ここを川が流れていた名残かな、と思った。
旧家の北側を東に行けば鮎川の須賀神社があったようだった。散歩では、近くに神社があることが分かっていれば、なるべく立ち寄るようにしている。由緒、土地の古い話などが説明されていることが多くて、古い時代のことを知る手がかりになるから。
けれど、この時は存在を知らなくてスルー。鮎川の地名は、安威川が変化したと考えられているみたい。
西慶寺があり、その横はすぐ安威川だった。土手に上がると永久橋がかかっていた。ここは渡らずに、土手を南下していった。車道とは別に歩行者専用道が設けられていて、歩きやすかった。
途中、左手(川とは反対)に堤を下りていく道が現れて、この道を下っていった(そのまま土手を進んでも、途中、階段で下っていける)。幼稚園を過ぎて左折。
このあたりに溝咋神社上宮跡などがあるはずだった。
同じ安威川そばの牟禮神社は野趣あふれていて、昔の記憶を残しているようなところだった。更に駅から遠ざかったところにある溝咋神社上宮跡なんてところは、更に野趣あふれるところじゃないかと想像していた。
けれどすっかり新しくなって、URなどの新しい大きな建物がきれいに並んでいて、かえって驚いた。きれいな道に小さくておしゃれな「上宮跡」の碑は見つけたけれど、ひっそりとただ碑が残されているだけで、周りには整ったきれいな建物が並んでいるばかり。
このあたりでは牟礼遺跡も見つかっているらしいのだけれどな・・・。そんな気配は全くなかった。
ここも岸辺駅の周辺みたいに、一気に工事されて様変わりしたのかな。工事のために土を掘っているときに遺跡が見つかったのかな。
大阪って、土を掘るとごろごろ遺跡が出てきてしまうところだそうだ。岸辺駅周辺でも健都の工事で遺跡が見つかったという話だった。
ここでは、縄文時代晩期の、今では弥生時代がもっと早くから始まっていたことが分かってきたので弥生時代早期かな、その頃の堰や水田の跡が見つかっているそうだ。
川とつながった平野の入口って感じのところだった。ここから広がる平野に向かって水を流すにふさわしい。建物で覆われていても、その上の空が当時の記憶を残している感じがした。最近まで田んぼばかりのところだったのじゃないかな。
稲作には畑作農耕(普通に耕した畑で栽培する。水は雨頼み)と水稲農耕(水田で栽培する。ある程度は雨が降らなくても大丈夫)とがあり、畑作農耕は縄文時代から行われていたそうだ。
古い時代から船で遠出していたらしき日本の人々は中国大陸に船で渡り、稲を持ち帰って育てていたのだって。
水稲栽培も思っていたより早くから行われていたことが分かってきていて、水稲栽培の始まりを弥生時代とするなら、縄文時代晩期と思われていた頃が弥生時代早期だった。
牟礼遺跡からは「突帯文土器」なるものも見つかっているそうだ。これは、九州で水稲農耕を始めた人々が、数世代かけて東へ移動する過程の中で使っていたとされるものみたい。紀元前何百年って時代のものだ。
水稲農耕は九州で始まり、少しずつ少しずつ東に伝播していって、何世代もかけて大阪にも伝わってきた。「突帯文土器」を使う人たちが、村が大きくなりすぎると少し東に新しい村と水田をつくるとかして、少しずつ東に伝播していったのかな。
香川産のサヌカイトの石器も携えていたらしく、大阪では四国からやって来た人々が水稲農耕を始めたと思われるそうだ。
土手沿いの道に戻って続きを行くと信号に出て、次の信号(東雲中学校北交差点)で交差するのは東西通だった。ここを右折して、東西通を西に向かった。東西通は前に茨木駅近くで歩いたことがあった。このままずっと行くと、JR茨木駅。
地名は東雲だった。東西通で安威川を渡った橋は五十鈴橋。
このあたりは地名が五十鈴町で、これは三嶋溝咋の孫で神武天皇の皇后になった、ヒメタタライスズヒメの五十鈴なのだろうな。遠くには山も見えて、いい感じのところだった。
橋は川を過ぎても五十鈴市民プール北交差点まで続き、交差点で左折。
南下して溝咋神社を目指した。
三島溝咋は古い時代の大物らしく、古くは三島と呼ばれて、溝杭神社の鎮座する茨木に関係ある人に違いない。溝杭神社の境内を見て回るのも楽しみにしていた。
ところが地震の影響でだろうな、狭く確保された拝殿への参道以外は歩けないように黄色いテープが張られていて、ほぼ全域立入禁止・・・。
黄色いテープ越しにちょっと見ただけだけれど、水路や池が見えて、日根野(泉佐野市)で行った日根神社に似た感じに思えた。樫井川の流れを調整していたと思われるらしい日根神社。同じように、ここは安威川の流れの調節を行っていた神社だったのかも?
創建は10代崇神天皇の時と伝わるそうだ。この時代、オオモノヌシなどがあちこちに祀られている。
かつては上宮と下宮に分かれていたそうだ。溝咋神社上宮跡あたりに上宮があり、ここは下宮だったところ。安威川の右岸と左岸に分かれていて、上流側が上宮、下流側が下宮ね。
祀られるのは三島溝杭一家。
三嶋溝咋の娘は玉櫛姫で、玉櫛姫はオオモノヌシとの間にヒメタタライスズヒメを産み、ヒメタタライスズヒメは神武天皇の皇后になった。
上宮にはヒメタタライスズヒメと三嶋溝咋、天日方奇日方命(ヒメタタライスズヒメの兄)が祀られていて、下宮には、玉櫛姫(他スサノオなども)が祀られているみたい。
このあたりは玉櫛姫神社があったことから一時期、玉櫛村となっていたらしく、下宮は玉櫛姫神社とも呼ばれていたのかな?
南の方に一の鳥居があって、そこまでずっと参道が続き、松林になっていた。気持ちのいいところだった。これも日根神社に似た感じ。