清滝街道を清滝峠まで
前回はやる気のでなかったおかあさんだけれど、今度はさあ行くぞと張りきっていた。
朝早めに出て、峠越えする心意気。11月も半ばに入った頃で、季節もよかった。清滝街道を歩いて、県境の峠を越える予定。
どうやら白庭台駅から帰ることになるらしく、前に古堤街道を歩いて龍間越えをした時、白庭台あたりで迷った記憶があったので、今回は早めに家を出て、迷子対策もした。
朝、まだ通勤時間帯と言っていい時間だったので、人の群れに突入していった。人の多さに改めてびっくりした。そして電車からは、家の多さにも改めてびっくり。
京阪電車は、低地を走っていた。そこにずうっと続く建物。
「温暖化で海面が上昇」ってニュースで言っている。ガスのせいだとか話していた。
でも、縄文時代、今より海面がずっと高い時代が何百年だか何千年だか続いた。その海面上昇する温暖な周期に入っていっているだけかもしれないと思う。
それならそのうち、再びほぼ海の中だ。
何百年だか何千年だか後の人は、海の底に沈んだ夥しい数の建物の跡を見て、仰天するんじゃないかな。
いったいどれだけの人が生きていたんだ~!?って。
そんな世界に今、生きているんだな。
清滝街道は大念寺まで前回、歩いていた。守口から大念寺までは守口街道とも呼ばれていて、清滝街道は更に東に向かい、清滝峠で山を越えて奈良に入る。生駒山を越えて奈良に入る街道の中で、一番北に位置するのだって。
守口街道や清滝街道は行基がひらいた道とも言われていて、別名、行基道というそうだ。前に行った佐井寺にしろ、どこにでも足跡を残している人だなあ。
微妙な位置にある大念寺からスタートするために京阪萱島駅に向かった。前回、根本しか見ていない萱島駅のクスノキも見ようと思って。
そのクスノキは、着いたホームからも見えていた。違うホームだったので、いったん下に降りて、エスカレーターでクスノキのつき出るホームに上っていった。エスカレーターからも、ガラス越しに横に見えていた。根元にある神社も、参拝者も見えた。
プラットホームでその枝ぶりも見て、満足して、駅を出ていった。
清滝街道のルートを見た感じ、おそらくこの先にパン屋はないだろう(なにせ山越えだ)と思えたので、調べていたパン屋に寄った。進むのとは逆の西口にあるベーカリーマサ。一見、いまどきのおしゃれな感じのパン屋さんだったけれど、値段と味は安定していた。
東口に戻ると、駅のそばを流れる水路が素敵だった。友呂岐水路というのだって。友呂岐は、前に友呂岐神社に行ったから知っていた。寝屋川市の一部が昔からそう呼ばれていて、トモは天皇の強さを、ロギは神を表すとかいう説明だった。怪しい気がしたけれど。
ちなみに「神籬」はひ(神・霊)もろ(天下る・守る)き(木)からきていて、「沢良宜」はさわら(金属)・き(村)からきているんだとか。説明がばらばらだ。
水路が萱島駅下をくぐるところにあるのが萱島神社だった。萱島駅の構内までつきぬけている大きなクスノキの根元にある神社ね。
友呂岐水路の少し東側を流れているのが寝屋川で、寝屋川沿いをしばらく南下(南東方向へ)して行くと、前方に高速道路が見えてきた。左手には「からくる親水公園」(草ぼうぼう)。
高速(第二京阪)の下を過ぎると、水路が左手にも続いていた。そちらが第二京阪そばにあった南寝屋川公園方面だった。
寝屋川沿いを歩き続けると、地名は讃良西町に。すごく田舎だったのだろうけれど、今は緑と畑の中、工場などもあった。このあたりでは寝屋川の西側は門真市、東側は寝屋川市だった。
小さな橋を渡ると、左手に墓地があって、猪鼻橋交差点で国道163号線に交差した。ここで左折して163号線を東へ。
水路を越えると地名は堀溝になり、しばらく行くと(猪鼻交差点から2つ目の信号手前)、本覚寺が右手にあって、そこを少し入れば大念寺。けれど、途中、猪鼻交差点の次の信号で、つい右折していった。大きなクスノキが見えていて、前歩いたこの辺りは古くて面白かったし、引き寄せられて。
公園があって、大きなクスノキの下には「鶯白龍大神」とあって、そこは神社の境内でもあり、工事中で本殿には通り抜けられないようになっていて、ここは鶯関神社。それから古いレンガの旧家に出て、前は気づかなかった妙見灯篭があって・・・うろうろしているうちに大念寺に到着。一帯には畑森さんが多いような気がした。
大念寺の前には「右守口街道」とある石の道標があって、ここを右(東)に。ここからが清滝街道で、ここからが四条畷市(ここまでは寝屋川市)。地名は蔀屋本町だった。
この道を、ただ道なりに進めば163号線(蔀屋西交差点)に出るのだったけれど、交差点の手前、右手に紅葉のきれいなところがあって、行ってみた。本泉寺なるお寺の紅葉だった。
お寺の向こうは堤で、水路があった。細い深い水路に見えたけれど、清滝川らしい。かつては素敵な土手道の素敵な川だったのかもしれないけれど、名残はなかった。清滝峠の方から流れてきて、この南の方で寝屋川に合流していくみたい。
水路を前に大きな旧家が建っていて、清滝街道についての説明板も近くにあった。堀溝は深野池の北端あたりだったそうだから、清滝峠から流れてきてこのあたりで深野池に注いでいたのかな。そしてその川沿いが清滝街道だったのかな。
堤道を163号線に向かって歩いて行った。最初、水路に水はなかったけれど、そのうち底の方に少しだけ水が見えた。
水路の向こう、堤の南側には、旧家がびっしりと建っていた。水路の向こうが古い集落で、こちら側はほぼ田んぼだったのかな。水路の向こうには山もきれいに見えていた。
蔀屋交差点で163号線へ。久しぶりのパナソニックがここにもあった。
163号線をしばし東に。水路もこちらに向かっていて、清滝川と名乗っていた。
このあたりで見た紅葉がきれいだった。山に向かって歩いたはずのこの日、一番きれいだった紅葉だったかも。それだけ他がしょぼかった。
次の蔀屋東交差点で、左手に分岐していく道にうつっていった。清滝川もこちらに向かっていた。
川の右手が遊歩道のようになっていて、ここを行くと、見覚えのあるところにでた。消防署があって、遊歩道がぐんとここだけ下がり、低い位置にあって、そこに清滝街道の説明などがある。河内街道歩きで170号線を南下していたときに、寄ったところだった。
「雁塔」と「西征戦死招魂碑」もあった。
雁塔は雁の夫婦愛をしのび、1749年に建てられたもの。猟師がまず雌の雁をしとめたのだけれど、不思議なことに首がない。また別の日、雄の雁をしとめて見てみれば、やせ細り、しかも雌の首を抱いていたのだって。猟師は悔いて仏門に。それを聞いた里人(行商人)が塔をたてたのだって。
西征戦死招魂碑は、「近代戦の最初」とされる西南戦争の碑と説明されていた。ただ真っ二つに折れて、上半分は下に倒れていた。
地名は中野本町で、このあたりは、なにか雰囲気があった。古くから集落の中心地だったところと思えた。
地車庫もあり、静かでせせらぎの音も聞こえたけれど、激しめの車のクラクション音も。
地蔵がいて、お寺も見えていた。正法寺だった。
元あった清滝の地から移転してきたらしく、聖武天皇の勅願で行基が創建したと伝わるみたい。
けれどその跡地からは、飛鳥時代に創建された大寺院の跡が見つかったそうだ。小野山正法寺といい、小野は宇努氏の「うの」からきているのかも、と言われているみたい。このあたりで養育されたというウノノサララ(持統天皇)の「ウノ」と同じ。このあたりには馬飼の渡来系豪族のウノさんがいて、その渡来系氏族にウノノサララは養育されたと考えられるということだった。
JRの踏切を越えた。忍ケ丘駅と四条畷駅の間あたり。少し南に行けば、東高野街道歩きで通った歴史民俗資料館のあったあたり(中野)だった。そこに貼られたポスターで「うののさららのひめみこ」こと持統天皇について少し知ったのだった。
左手に四条畷教会とJAがあって、ここにも見覚えがあった。このあたりは東高野街道歩きで通ったところ。
お地蔵さんや道標があって、ここが東高野街道との辻だった。
ずっと住宅街だけれど静かだった。山が近くなって、せせらぎも聞こえる。
もう少し進んで、天井の低い高架の下をくぐった。上を走るのは府道20号枚方富田林泉佐野線。ここを過ぎると明らかに上りの道になり、田舎の感じになってきた。
分水橋を渡った。ここで清滝川が分かれて、北にも流れていっていた(清滝川分水路)。山口さんの旧家が多くあって、正圓寺があった。
正圓寺のある左手は古い感じで、右手の川向こうは新興住宅地だった。
ここを過ぎると、完全に田舎になった。忍ヶ丘駅からのウォーキング(ハイキングかも)コースになっているらしくて、ここは駅から約1km。御机神社と龍尾寺が案内(右折)されていた。この南は南野で、前に行った御机神社や龍尾寺までは1kmもなかった。
前方には鳥居が見えていて、國中神社だった。入ってすぐには出土したらしい石棺が置かれていて、その左側を上ると、見晴らしがよかった。見えていたのは、大阪平野あたりね。
だいぶ生駒山地のほうに進んできていた。
ここから清滝川が流れて、注ぐ深野池も眼下に見えていたのだろうな。5世紀頃にはもう少し大きな草香江だったというから、ここから広い草香江、その向こうの大阪湾まで見えたのかな。
草香江には、当時、内紛状態にあった大陸から多くの人々がやって来たそうだ。応神天皇の頃とかに、ここ四条畷にも多くの人々がやって来た。馬飼の人々も大陸からやってきて、牧が最初につくられたと言われているのも四条畷らしい。
國中神社は式内社らしいけれど、詳細は一切不明。
道の続きを進んでいった。
國中神社の前あたりは、清滝川がダムみたいになっていた。今は水がほとんどなかったけれど。
川の向こうは高台で、新興住宅地になっていた。こちら側は古くて、川を隔てて別世界のようだった。
急な坂道を上り、完全に山中のような雰囲気の道になった。それでも近くに家々は建ち並んでいたけれど。
そして広い道に合流。バス通りにもなっている広い道だった。
清滝バス停があり、これから峠越えに向かう雰囲気だった。ここでは清滝街道(行基道)は今や広い道で、横にはバイパス(かな?)が走っていた。
道は山の中に向かっていき、四条畷霊園前を通過。「好評発売中」とか書かれてあった。「四条畷大黒天 如在寺」の看板もあった。
この先はどうなっているんだろうと、ちょっとどきどきした。車はいっぱい走るけれど、家無し、人の姿なし。この先この道はどうなっているんだろう? 山にある広い道路は、歩行者目線ではつくられていなくて、歩いていると「げげっ」てことがままあるのだ。
今回はどんなところに連れていかれるんだろう?
けれど歩いていると、バス停(上清滝)が現れた。バス通りはこっちに続いていたのか。2軒ほどの旧家と、その隣に小さな清滝天満宮があるだけのところだった。それでバス停があるってすごい。
バス停を過ぎると、また人家のない山中の道が続いた。それから「エコクリーンセンター下」バス停が現れて、ここには「清滝トンネル管理所」(閉鎖中?)とかがあった。エコクリーンセンターに向かう車道もあって、素敵な山の中に向かう道に見えた。
バス通りはカーブしていき、急に空気がひんやりとした。寒いくらいだった。お地蔵さんがいて、途中、右手に車止めのある道が現れて、そちらに進んでいった。
ここは気持ちのいいハイキングコースのような道だった。整備されて、階段もつくられて、こんな辺鄙なところに思えるのに落ち葉もそうたまっていなくて、きれいだった。林の中の上り道で、振り向いても展望はきかず、竹林が見えるだけなのだけれど。
このあたりだけ旧街道が残っているのかな。
民家が現れ、干し柿なんかも見えてきて、それからまた車道に出た。その手前、右手に「逢阪(大坂)五輪塔」があった。きれいに見えたけれど、1336年のものなんだって。南北朝時代ね。
今まで知らなかったけれど、五輪塔は、上から空・風・火・水・地を表しているのだって。
四条畷では、あちこちの名所で俳句が添えられていたけれど、ここには「のぼりつめ 清滝峠の 茶屋の跡」。
ここが旧道の清滝峠だったところなのだって。峠の茶屋も並んでいたそうだ。




