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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
25/42

守口街道と堤根神社

堤根神社は、人のやって来る神社だった。賑わっているというのじゃないけれど、ひっきりなしに人が参拝にやって来る。地元の人たちなんだろうな。

礼節をつくしつつも気軽な感じ。今でも生活の中に神社が根付いている感じだった。老夫婦も、お母さんっぽい人も、家族連れも、若い人もやって来る。

そんなに広くはない境内の左の奥に、「伝茨田堤」の碑があった。木の育った、堤だったのだろう高台があって、ちょっと空気も違う気がした。周囲は住宅密集地だけれど、ここだけ古い記憶をとどめている感じ。

河内湾とか河内湖とかいわれた一帯も、5世紀にはほぼ陸地になっていたのだって。5世紀って仁徳天皇の息子たちの時代あたりかな。だいぶ陸地になった大阪に、仁徳さんは都をおいていたんだな。

それでも、淀川、大和川、古川、草香江、他にも川や湖沼がいっぱいの低湿地。仁徳天皇は洪水対策にいろいろなことをやっている。大阪湾に水を流す「難波の堀江」を造ったり、茨田堤を築いたり。

淀川の一番南の支流が今の古川で、太間(三島鴨神社の南)から淀川の左岸を南下して古川へと堤を築いたのだって。茨田まむたと呼ばれる土地だったので、茨田堤と呼ばれた。後には茨田屯倉もつくられたのだって。

そこまでしてどうして?と思った。そこまでの大事業をしてまで、この土地を使おうとした理由は。大阪湾がそれだけ大事で、都を大阪に置きたかったってことなのかな。大和川や淀川にもつながる大阪湾をおさえることは、他の豪族からの圧倒的優位をとることでもあったのかな。

大和川、淀川、その他の河川、大陸への海路もおさえた上で、大阪湾に港をおき、そばに都も置いたのだろうな。そして外交を行い、国内の流通網もおさえて、力を蓄えていったのかな。

茨田堤を築いたとき、主導したのは茨田氏だったそうだ。茨田氏が総監督で、秦氏などの渡来系技術者が現場監督って感じだったのかな?

茨田氏は彦八井耳命の子孫。彦八井耳って神武天皇の長男だそうだ。

神武天皇の長男は神八井耳だと思っていた。聞いた話では、神武天皇には皇后のヒメタタライスズヒメとの間に息子が二人いて、2代目の天皇になったのは、次男。長男(神八井耳)は神祇官となって、各地のおお氏の祖となったんだとか。

更に上にもう一人いたともいわれ(書物によって違うみたい)、それが彦八井耳なのだって。

勝手な想像だけれど、最初の息子は母親の実家に渡す習わしだったとかかな、と思った。それで最初の息子が書物によって記載されていたりいなかったりするのかな。

母親ヒメタタライスズヒメは三島溝杭の孫娘だから、実家は三島だったのかも。

堤根神社は、茨田堤が完成したとき、茨田氏が祖を祀ったのが始まりと伝わるそうだ。


神社を出ると南に向かい、京阪電車を越え、バス通り(158号線)へ。バス通りを東に向かっていった。

左手に大きな工場が現れて、またパナソニックかと思ったけれど、異臭がしていて、AKS(天辻鋼球製作所)だって。神社の玉垣でも見た名前だった。

山が近づいてきていた。バスは四条畷行きだったりした。

しばらくして左手に神社が現れて、上馬伏かみまぶし産土神社だった。

周りには旧家もあるけれどアパートが多かった。そして神社はウェルカム感がまったくなくて、手水所にも柵があって、錠までかけられていた。参拝者以外は入らないでみたいなことも書かれていて、なにか被害にでもあったことがあるのかな?

バス停も「上馬伏」だった。馬伏という地名は平安時代の頃からあったそうだ。お寺なんかもあって、古いところなのだろうな。

そばの宝蔵寺は産土神社の神宮寺だったと思われ、鎌倉時代の十三塔も残っているのだって。けれど詳細は不明。

高速に近づいて、またパン屋があったけれど、ここはつぶれていて、セーフ(?)。

高速(第二京阪)の下をくぐると巣本西交差点で、次の巣本交差点を右折。山が左にも前方にも近くなってきていた。地名は宮前町だった。なんのお宮の前だろう?

次には巣本南交差点が現れた。右手には墓地があって、ここを左折。

四宮って地名がちらほら見えた。このあたりは一時「四宮しのみや村」だったことがあるみたい。

上りの道になって、さっきから古い煙突が見えていた巣本温泉を通り過ぎ、猪鼻いのはな橋で川を渡った。

川は寝屋川で、寝屋川沿いに南に行くと、前に行った深北緑地だった。寝屋川の東側の大きな公園。深野池だったところの一部分が残るところで、寝屋川に洪水が起こると、ここに水を流して、近隣を守るっていうところ。さらに南下すると、前に古堤街道歩きで歩いた住道。ここで寝屋川は恩智川から分かれる。

反対に寝屋川沿いに北に行くと、萱島、寝屋川市と流れて、太間で淀川に合流。ちょっと地図が分かってきたな。

猪鼻橋を渡ると寝屋川市だった。ここまでは門真市、このすぐ先は四条畷市だったけれど、このあたりだけ北にある寝屋川市が伸びてきていて、寝屋川市になっていた。

そして寝屋川市には鉢担ぎ姫。見どころには小さな鉢担ぎ姫が立っていて、いろいろ案内してくれる。

寝屋川市に入ると、古い集落で、久しぶりの鉢担ぎ姫が立っていた。このあたりも、気になるところだった。地名は堀溝だった。

猪鼻橋、馬伏、近くには岸和田(ここも平安時代にはあったそうだ)や讃良があって、ただものじゃなさを感じさせた。

高速を北に行けば、2キロもせずに高宮だった。前に行った、高速そばの古そうな集落で、縄文時代の土器や大きな建物の跡なども見つかっているっていうところだ。

周辺には弥生時代の集落跡もいっぱいあって、後には讃良郡の郡衙も置かれたというところ。けれどそこに鎮座する高宮神社に祀られる神は、まったく正体不明というところ。


道は入り組んでいて、西邑さんや西村さんのおうちが目立っていた。

ここは寝屋川市の「文化と歴史のネットワーク散策コース」の一つ「讃良川コース」であるらしかった。

いくつも道の伸びる辻で迷子になりかけたけれど、鉢担ぎ姫の案内に助けられて、左斜めの道に入っていった。

古そうな道をしばらく進むと、鶯関おうかん神社が現れた。社殿は工事待ちなのか、足場が組まれて、立ち入り禁止になっていた。立派な楠がたっていた。

周辺は旧家でいっぱいだった。鳥居の前のお宅も、古いレンガ塀の大きな旧家で、いい味を出していた。

なんだか特殊な感じの道のいりくみ方だなあと思ったら、今来た道あたりが深野池の北端あたりだったんだって。

ここから深北緑地、さらには住道あたりまでも深野池だったんだな。

深野池は、かつて河内湾(今の大阪湾が大阪平野も覆って、生駒山地近くまで続いていた)だったのが河内湖に、それが古墳時代にはだいぶ小さくなって草香津に、さらに小さくなって深野池と新開池とに分かれたという、それでもまだ大きな池。深野池と新開池には大和川の支流たちが(淀川の支流たちも)流れ込み、深野池の水は西の新開池に注ぎ、新開池からはまた大和川として西に流れて淀川に合流。大和川がつけかえられて、こちらに流れなくなり、池は新田になって、今では深野池のほんの一部が深北緑地に残るだけ。

平安時代の頃、ここに鶯の関が置かれていたそうだ。寺社などが関を置き、通行料をとっていたんだそうだ。ここは清滝街道を行く人が必ず通る場所だったのだって。鶯の関って前に歩いた竹内峠にもあったな。鶯の鳴く関だったのかな。

そしてここは、引退する斎宮が立ち寄るところでもあったそうだ。斎宮って、代々、天皇の娘が伊勢に祀られたアマテラスに奉仕する役目をした人のこと。アマテラスを伊勢に祀った倭姫命(11代垂仁天皇の娘で、ヤマトタケルのおば)の時代から続いていて、天皇が変われば斎宮も変わったそうだ。引退するときには難波にやってきて禊を行ったのだけれど、その難波への途中で立ち寄るところも定まっていて、そのうちの1つがここだったんだって。

ここの次には茨田真手で一泊して、それから難波での禊を終えてから、淀川で京に戻ったそうだ。


もう少し行くと一番くらいの高台になり、そこから緩い下りになって、地名(右手)は蔀屋しとみや本町だった。ここは四条畷市。見覚えのあるこの地名は、河内街道歩きで見たのかな? このもう少し先を河内街道が、更にもう少し先を東高野街道が南北に走っている。蔀屋の地名の由来はよく分からないそうだけれど、四宮しのみやと似ているのが気になった。

それから大念寺が現れた。鶯関寺と呼ばれていたお寺なのだって。

お寺の前には「右守口街道」と書かれた道標があった。このあたりからは守口街道ではなく清滝街道になるのかな。

清滝街道は大念寺前を右折するのだったけれど、この日の散歩は大念寺まで。後は南寝屋川公園経由で萱島から帰ろうと決めていた。

道なりに進むと鶯地蔵、本覚寺(掲示板には「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」)があって、堀溝交差点を渡った。交差点では、右手にはガスタンク、左手には旧家が見えていた。

岡部川を渡って、そのまま北上すると南寝屋川公園だった。けれど、川沿いを左に行けば公園への近道なんじゃないかと思って進んでいってみた。

寝屋川緑風園なる施設が現れた。なんだろうと思ったら、昭和39年にできた、し尿処理場らしかった。今は手続き業務とかだけしているのだとか。

川沿いに進むと、結局、公園には行けず。元の道に戻り、素直に北上して、南寝屋川公園を目指していった。自然のまま残された感じの公園だった。水路が流れ、丘がある。ここでパンをいただいた。こね屋のパンが、おいしかったなあ。

それから萱島駅に向かった。公園の西からすぐの高速の下を通ったのだけれど、出ると方向が分からなくなっていて、違う方向に進んでいってしまった。


成田山への道標があり、「成田山萱島不動尊」が道沿いにあった。

このあたりも田舎の素敵なところだったのだろうけれど、今では大きな道が交差していた。

太平ポンプ場前交差点あたりでは、高速そばの高いところ(トンネルの上?)に公園があったりして、なんだか複雑なことになっていた。

迷いつつも、どうにかてくてく萱島駅(京阪電車)へ。

萱島駅そばには「七五三」ののぼりが立っていて、その向こうに何かありそうだぞと萱島橋を渡って行ってみたら、神社があった。そこは電車の高架下の萱島神社なる神社で、祭神は萱島を開拓した神田氏の祖。

拝殿の向こうには、大きな木の根元が見えていた。大きな木が高架の上まで伸びていて、ここはその、日の当たらない根元の部分のようだった。葉が光を浴びていれば、根本はこんなに暗がりでも大丈夫なんだな。大きく元気に生きていた。

これは萱島駅のプラットホームに突き出しているというクスノキに違いなかった。

萱島駅に入ると、ちょうど電車がやって来た。わたしたちって、ばかだな。クスノキのことを一瞬忘れて、そのまま電車に乗ってしまった。気づいた時には遠く離れていた。

萱島の楠を見るために、萱島駅から帰ったっていうのに、根本しか見てないじゃないか・・・。

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