守口街道を古川まで
11月になったある日、大阪メトロで守口駅へ向かった。散歩にはもってこいの季節。
前に小阪街道を歩いてひえ島の堤根神社に行って、宮野にも堤根神社があると知って気になっていた。あと、萱島駅構内にあるっていう楠も見たかった。
宮野の堤根神社近くを通る守口街道を歩いて、萱島駅から帰ろうと計画。
守口街道は京街道の守口駅近くから分岐していく道だって。京街道は大阪と京都を結ぶ道で、豊臣秀吉が淀川に堤を築かせ、その堤道を街道としたもの。当時の堤道はもうほぼ残っていないけれど、守口駅近くには残っていた。「文禄堤」と呼ばれていて、すっかり都会になった駅近にあり、そこだけ一本の高台の道になってた。街道沿いにはお店が並び、下に降りていく階段がいくつもあって、妙におしゃれな感じもするところ。
前に歩いた時、文禄堤の北端あたりから分かれて東に向かっていく清滝街道があったけれど、その清滝街道の一部を守口街道とも呼ぶみたいだった。
守口は、生駒まで伸びる森の入り口で「森口」と呼ばれたところだったそうだ。守口と表記されるようになったのは、大阪城の守りの要になってから。そんな話を聞いても、途方もなさ過ぎてぴんとこなかった。え、この大阪の都会が?って。でも、今は、少し分かる。
大阪は本来は緑あふれる素敵なところで、守口や門真は大きなクスノキが今でも育つ、特に水のあふれるところ。生駒山麓に通じる森だったところだって、感じられるようになってきた。
守口駅は1番出口から出た。駅の近郊地図を見ると、近くには「江戸川乱歩寓居跡」なんかもあった。
大正の時代、江戸川乱歩なる人が親のところで明智小五郎が初登場する短編を書き上げたらしい。それがここ、守口は八島なんだって。
あと豊秀町があった。これは豊臣秀吉からちょうだいしたのかな。
1番出口を出るとすぐ左に、坂に上っていく道があった。ここを上がると、文禄堤。
京街道でもある文禄堤は町並みもちょっと素敵で、上がっていくと、右手に高札場(再現したもの)なんかも見えていた。遠足の子どもたちが「わたしたちの守口は」と語る教師の、堤の説明を聞いていた。
左手(北)に進むと、「かさと丁ちん」の江戸時代みたいなお店があって、文禄堤は終わり。道は下って大通り(八島交差点)に出て、通りの向こうには今やマクドになった大塩平八郎縁の屋敷跡。
右折して屋敷跡の説明の立つ道に進むと、すぐに右手に難宗寺。ここも京街道歩きでやって来たことがあった。守口坊だったところ。出口、富田、守口、そして石山本願寺、淀川沿いは本願寺勢力の強かったところなんだな。
お寺の角には石碑がいっぱいたてられていて、「守口街道」とか「京」とか「御行在所」とか読めた。
京街道はここを左折して北上していった。その方向には、見覚えのある紫の「五十七次守口宿」ののぼり。
守口街道は直進して東に向かっていく。
そのまま車道を進んでいくのだけれど、車通りが多い割には狭い道だったので、難宗寺の南の道で東に進んでいった。
松月霊苑なる墓地があって、公園の中にあるのが不思議な光景だった。周りを遊具で囲まれているような神社はもう見慣れたけれど、遊具で囲まれた墓地は初めてだった。
京阪電車の高架に行き着いて、「奈良街道」の新しい道標があった。生駒を越えて奈良に至る道はみんな奈良街道と呼ぶんだな。清滝街道も清滝峠を越えて奈良に至るみたい。
線路沿いを東に進んでいった。
線路沿い(道路の右側)にもかつては歩道があったみたいだけれど、今は歩けないようになっていて、道路の左側を進んでいった。「大正天皇御下車跡」が高架下にひっそりと立っていた。
大正天皇が皇太子の時(明治時代だな)、淀川で行われた工兵の特別大演習を視察。電車でやってきて、このあたりに設けられた仮の停車場で下車したのだって。特別大演習って、シミュレーション通りに事が運べるか試してみる軍事演習のことらしい。
そして工兵というのは、実際に戦うわけじゃないけれど、爆破したり、塹壕を掘ったり、測量を行ったりする、戦場における技術屋だったみたい。明治時代には船での戦いも工兵の役目になっていたらしくて、淀川で行われたっていう大演習会は船を用いたものだったのかな。
門真市に入り、左手にはずっとパナソニックの建物が続いていた。「パナソニック100周年」と大きく書かれていた。
松下幸之助が鶴橋猪飼野のアパートで電球用ソケットを製造販売し始めたのが1917年。翌年、会社を立ち上げたのだって。門真に移ってきたのは昭和8年(1933年)だそうだ。
広いパナソニックの中にはさくら広場があって、パナソニックミュージアムがあって、松下幸之助歴史館があった。背は低いぶん、面積を大きくとった、立派な建物だった。握手をするように手を伸ばす松下さんの像が立っていた。背広の男の人たちが歩き、ガードマンさんが立っていて、大きなバスも2台止まっていた。
西三荘駅(京阪電車)が現れて、パン屋を見つけたのでパンをゲット。
このまま線路沿いの道を行ってもよかったのだけれど、あまり面白くないので、少し左手に入っていってみた。狭い路地道なんかがあり、蔵のある大きな旧家なんかもあった。浄徳寺があり、あたらしい感じの西方寺があった。古いアパートなんかもあったけれど、全体的に近代化してきている感じだった。
住友通商店街があって、このあたりは下町感でいっぱいだった。松下のほか、住友のなにかもあったのかな? いろいろ元気だった時代の感じが残っていた。
上を高速が走っていて、東に進む道が途切れ、線路沿いの道に戻った。
高速に並行してモノレールも走っているようで、京阪の門真駅と、モノレールの門真駅がいっしょになっているところを通った。
それからまた左手にパナソニックの建物が続いた。けれどなんだろう、線路とパナソニックに挟まれた車道だっていうのに、妙に落ち着く下町感。
パナソニックには「大阪府流入車規制」に適合していない車両は立ち入りできませんみたいなことがところどころで書かれていた。排ガスに関わる規制みたい。
幸福町なんていう地名になり、けれどそこは送電施設のようになっていた。
門真市役所を過ぎ、古川橋駅手前、古川橋交番西交差点で左手に分岐していく道へ。
途中、古川橋本通商店街と交差した。ここを右に行けば古川橋駅(京阪電車)みたい。左手に商店街は続いていて、なかなか賑わっていた。わたしも商店街を歩いてみることにした。ここをずっと行くと大日駅(大阪メトロ)だって。
途中で右折して商店街を離れ、本来の道に向かうつもりだった。けれど、なかなか右折の道が現れなかった。右手に大きな空き地が続いていて、小学校だったんじゃないかと思われた。合併されて廃止になったのかな。そこを過ぎるとやっと右折できる道が現れた。
ここは幸福本通商店街だって。アーケードもある商店街だったけれど、もうアーケードがボロボロだった。お店も大方がシャッターをおろしていた。なにやらいろいろヒモが垂れ下がり、古い建物に黄色いロープがはられて「キケン」なんて書かれてあった。
昭和の時代には元気で、みんなの生活を満たしていただろう幸福本通商店街。今も開いているお店は間口が狭くて、のぞくと、のれんと、誰も座っていない座布団。
奥に進んでいくと、カラスがばたばた飛んで、があがあ鳴いて、カラスにのっとっれようとしているみたいだった。
そしてつきあたりはまた別の商店街になっていて、別世界のように賑わっていた。幸福本通商店街も、みんな立ち退いたら、すっかりリニューアルされて、にぎやかな通りになるのかな。
ここを右手に行けば古川橋駅で、左手に行けば幸福町公園だった。
ここの商店街には魅力的なお店がいっぱいだった。門真レンコンうどんとか、これから帰るなら買って帰るのになあとお母さん。こね屋なるパン屋もあって、すでにパンはゲットしていたけれど、ここでも購入。
幸福町公園にも行った。「立小便禁止」の看板が大きく目立っていた。西成などでも目にするけれど、ここまで大きく目立たせている看板は初めて見た。
そして、目立たなくひっそりと立てられているのが「普賢寺遺跡」の説明板だった。一帯では6世紀初め頃のものと思われる古墳などが見つかっているらしい。弥生時代の遺跡や、中世(平安時代時代から)の大寺院跡なども見つかっているのだって。応仁の乱で燃えたのではないかとされているみたいだけれど、それが普賢寺だったのかな? このあたりは古くは普賢寺荘と呼ばれていたそうだ。
道を引き返し、古川橋駅方面に向かっていった。右手には小学校跡地と思われる空き地が広がっていて、そこを越えると壽命院。
商店街の賑わいがここにもあった。地元の人たちと思われるおじいさん、おばあさんたちが集まって元気にしゃべっていた。
左手に超願寺が現れて、この手前を左折して東へ。細い路地道で、素敵な道だった。古そうで面白かったけれど、すぐに道が途切れてしまって、また線路沿いの道を進んでいった。
地名は御堂町に。
前に枝切街道(小阪街道)を歩いた時に、願得寺のあったところの地名だった。
黒壁の立派な旧家があって、八坂神社も現れた。その裏が願得寺だった。
前に小阪街道歩きでやって来たときは、唐突な感じがした。ずっと近代化してしまった道を南下してきたところに、突然、古い存在感のすごいお寺が出現して。
今回、西から守口街道(清滝街道)でやって来ると、願得寺はやっぱり存在感のある古さがあったけれど、周囲も全く負けていなかった。古くて、面白い一帯だった。大きな旧家もあって、この道がさっき超願寺近くで途切れた道の続きだったのかもしれない。
守口からこっち、ところどころで目立っていた中道さんの表札をここでも見た。
なんだか特別なところの感じがした。ここと似ているところと言ったら、あえて言えば佐太天神宮と来迎寺との間。共通点は、昔はすごく近しかったお宮とお寺、その境界のない雰囲気が今も残っている感じがするってことかな。一帯がひとつの共同体だったっていう感じ。
願得寺は蓮如が開いた古橋御坊に始まるお寺で、八坂神社はそれより古く、平安時代の頃からあったのではないかとされているみたい。普賢寺の時代ね。
願得寺の西側の道をつきあたりまで行くと、なんだかお城だったような感じがしていた。そうしたら、当たりで、このあたりには古橋城があったと思われるってことだった。
しばしあたりの路地でいっぱいのところを散策した後、願得寺の東の門前を東に進み、つきあたると南下した。ここも枝切街道で歩いた覚えのある道だった。
京阪電車の高架下を過ぎてから、高架沿いを東に向かっていった。
すぐに古川橋で古川を渡った。昭和7年にできた橋だって。
左手(京阪電車の北側)は新興住宅地のようで、かさ上げもされているのか、高い位置にあった。右手は古くからの集落のようで、瓦屋根なんかも見えて、低い位置にあった。
守口街道はこのまま東に進んでいけばいいのだけれど、堤根神社(宮野)が少し北にあるので、寄り道ね。
ポリ所前を左折して、飲み屋街みたいなところを北上。右手に鳥居が見えた。
前回の散歩では、そこらじゅうに祭りののぼりが立てられていたけれど、祭りの季節も終わって、この日の散歩では「七五三参り」の文字が目立っていた。
そして左手にはおいしそうなパン屋さん。散歩していると、思うようにパン屋に出会わないから、出会うととりあえず買うことが多いのだけれど、もしかしたら京阪沿線には、パン好きが多いのかな。既に2軒で買っていたので、これ以上はやめておこうとパスした。残念だった。レーヴマルシェってお店だった。
そして堤根神社(宮野)へ。




