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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
23/42

茨木街道と三島鴨神社

川沿いをリュック姿で散歩する人がいた。高槻市のウォーキングコース「万葉の里」コースにもなっているらしくて、川沿いの遊歩道には「→西面さいめ・三島江」と案内されていた。

これから進む139号線にはGUなんかが建ち並び、風光明媚とはかけ離れていたけれど、奥の川沿いと思われる道のあたりには緑も見えて、素敵な感じだった。いっそ「万葉の里」コースで三島江(茨木街道の終点近く、三嶋鴨神社があるあたり)に行こうかとも思った。けれど誘惑を断ち切り、車の多くて空気の悪い139号線で東進。茨木街道を進んでいった。

右手に玉川橋団地が現れた。どうやら全部がURの敷地らしく、前に通った総持寺団地にも似ていた。ここも元は何だったところなんだろう。

それから139号線のすぐ左手が歩ける堤になっているところがあって、玉川の堤上を歩いて行った。ブタクサの黄色が向こうのほうまで見えて、素敵だった。やっぱり玉川橋からここまでは玉川沿いを歩けばよかったな。

途中で玉川は139号線を離れて北に向かうので、堤から下りて139号線を東に進んでいった。

唐崎西交差点に出て、交差するのは14号線だった。空は広く、そこをまっすぐ走る広い車道がちょっと外国みたいだった。

それからすぐ唐崎交差点で、ここで交差するのは16号線。空気が悪かった。

唐崎交差点を過ぎるとすぐにまた信号があり、2つに分かれていく車道の間にもう一本細い道があって、ここに進んでいった。2本の車道の間に取り残されたような、大きな旧家がここに残っていた。いつか、なにもなかったみたいに消えていくのが目に見えていて、嘘みたいなところだった。

ここをつきあたりまで進んで右折。すぐ南の車道を東に進んでいった。

左手に皆念寺、信楽しんぎょう寺と現れ、右手にはJAと「茨木街道の道標」。枚方宿から淀川を大塚の渡しで渡り、それから唐崎、茨木へと進む茨木街道の道標で、明治43年に建てられたものらしい。

この近くにある唐崎神社に行ってみようと、道標を右折して、南に向かっていった。

このあたりに「石田梅岩生母出生地」みたいな碑もあった。石田梅岩って江戸時代の思想家らしい。亀岡出身のようなので、ここで生まれたお母さんは亀岡にお嫁に行ったのかな。


古い集落のようだった。立派な地蔵堂もあった。ところが中を覗いてみると、ここの大きな地蔵も、白く顔を塗られて、黒で眉と目が描かれていた。河内小阪の地蔵クラスのものを期待していただけにがっかり。

地蔵堂を左折。

すると、なんてことだ。こんな田舎なのに、ほんのすぐそばを、高いところを新幹線が通っていった。唐崎の集落を通っているらしい。

田舎らしい、旧家もいっぱいの、面白いところだった。けれど唐崎神社は、もうほぼ公園になっていた。手水所もあるけれど、もう水は出ない。水を出すつもりも全く無いようだった。七道の高須神社にも似た感じ。村の神社であることを、あきらめたような神社に思えた。

近くで遊ぶ「おばあさんと小さな孫」なんて、村の神社にすごく似合う感じなのに、神社は公園にとってかわられ、村は新幹線の通り道になってしまったんだなあ。


「茨木街道の道標」まで戻り、今度は反対に北上していった。

それから道をじぐざぐ東に進んでいった。ここが茨木街道かな。このあたりにいた北向地蔵も白と黒で顔が描かれていた。高槻では過半数の地蔵が顔を書かれているそうだ。

新幹線の高架下を通った。前に鳥飼あたりで高架下を通ったときは静かで驚いたけれど、ここではもうスピードに乗っているからだろうか、なかなかにうるさかった。

高架を過ぎ、つきあたりを右折して南下。

本当の茨木街道は、すぐにまた東に向かい、芥川を越え、まだ東に向かい、大塚あたりで淀川を渡るって道だったのかな? 淀川を「枚方宿から大塚の渡しで渡り」という説明によると。大塚や枚方宿はこの東の方角だった。

けれどここをずっと南下していくのを茨木街道と思っていて、南下して行った。「北新地公民館」などがあり、堤の感じのする道で、どこにたどり着くんだろうと思わされる、鄙びた雰囲気だった。

途中、「三島江・柱本(万葉の里コース)」の案内が現れた。今来た道には「唐崎過書浜跡」とあった。

三島江浜と唐崎浜は淀川の主要な河港だったそうだ。江戸時代、水運の要だった淀川は幕府の許しを得た(通行手形を持つ)船だけが行き来でき、その船(伏見、大阪間を航行した客船や貨物船)は過書船と呼ばれたことから「唐崎過書浜」というみたい。

そして唐崎は、外国の人が住んだところで唐崎というようになったといわれているみたい。元は「辛崎」とも書いたらしく、「辛国神社」や和泉の「唐国町」が海外から帰ってきた物部一族の唐国さんが住んでいたことからきているといわれているのと同じね。


万里の里コースの案内に従って坂道を上っていったら、淀川の堤防だった。そこを南下して行った。

対岸にカラフルな観覧車が見えていて、ひらパーだった。

前に京街道を歩いた時、淀川の対岸をずっと歩いて行った。なかなかきれいに整備されて、公園みたいになっていた。それに比べてこちら側は殺風景で、工場なんかが見えるばかりだ。

右手に堤を下ったところに「築堤碑・修堤碑」があった。淀川は水運に使われて栄えたけれど、大災害をももたらした。水害と戦い、堤を築き、補修した。水害には強くなったけれど、周辺の村は様変わりした。そんなことが書かれてあった。

三箇牧小学校が見えてきた。唐崎や玉川や三島江あたりぜんぶで三箇牧村だったことがあり、その地名が残っているのかな。

古代(飛鳥時代の頃)に近都牧なる馬の放牧場があったところで、上中下3つあったから三箇牧さんがまきだって。鳥飼からこのあたりまでが鳥養牧なる近都牧だったところらしい。この南が鳥飼(摂津市)だった。

三箇牧小学校のプールの方向に下っていった。「三島江」とあった。妙見と書かれた灯籠などもあった。

そしてここは出口との渡しがあったところだって。

対岸が枚方の出口。蓮如のたてた光善寺のあるあたり。渡しは富田、茨木から大阪、伏見への行き来に使われ、たいへんに栄えていたそうだ。

ここは芥川と合流した後の淀川。枚方宿からじゃなく、光善寺から富田へ行くにはこちら側を通って、ここもまた茨木街道であったのだろうな。

けれど明治、昭和の堤の改修で一変。水害から守るために高く造られた堤によって、浜はなくなってしまったのだって。

玉川と同じように、「淀の玉枝」こと三島江も、淀川の自然を詠むときの定番の枕詞だったそうだ。「玉川の里」は里の生活感を、「玉江」は自然を表現する歌枕だったと説明書きされていた。

かつての姿を見てみたかったものだなあ。

今では出口は遠かった。観覧車が見えていても対岸は別世界みたい。でも渡しがあった時代、枚方はすぐそばだったのだろうなあ。


そのまま進むと、すぐ左手に三島鴨神社が現れた。ここが気になるがために茨木街道を歩いてきたのだった。

玉垣には目垣の人の名が連なり、裏側には柱本の人の名が連なっていた。

裏手は柱本で、そちらも古そうなところだった。

ここまで歩いてきた道々は、すっかり都市化してしまっていたり、新幹線に乗っとられたみたいな印象だったり。やっときちんと古さを残した感じのところだった。神社の裏手の一帯は、普通にのどかで、田舎で、旧家が建ち並んでいる感じだった。面白そうなところだったけれど、歩いてはみなかった。なかなかに長い散歩になって、時間もおしていたし、疲れていた。

柱本はくらわんか舟の発祥地なのだって。

淀川には客船の三十石船などが行き来し、そんな客船に売店がわりの「くらわんか舟」が物を売っていた。「もち、くらわんか~」とか言って。なんでも乱暴な言葉を使うと悪霊を退治できるとかで、乱暴な物言いがかえって喜ばれ、風物詩となっていたらしい。

柱本の人たちが始め、枚方宿に移っていって、枚方でも「くらわんか」を続け、有名になったそうだ。

境内にはお祭りの様子の写真が掲示されていた。高張提灯の宮入りが名物みたい。一人一人が縦に大きな提灯を掲げて練り歩いていた。


三島鴨神社の祭神は大山祇(オオヤマツミ)と事代主(コトシロヌシ)。

神社の説明によると、大山祇は仁徳天皇の時代に百済から渡来した神様ってことだった。茨田堤を造るにあたり、百済から勧請したのだって。茨田堤は淀川の向こうに造られた堤だった。当時、こちら側には玉川のあたりまで湖沼が広がっていたみたい。

元は淀川の中州(津の御島)に鎮座していたのだけれど、秀吉さんのときに淀川に堤が造られるにあたり、ここに移されたのだとか。

オオヤマツミが「仁徳天皇の時、百済から渡来」したなんて話は初めて聞いた。

茨田堤を築くのには、渡来してきた人々の最新の技術が使われたそうだ。進んだ土木工事を行っていた中国などのノウハウを知っていた人たち。だから茨田堤を築くにあたり、渡来系の神が祀られてもおかしくはないのだけれど、その神が大山祇ってことはないのじゃないかな。

ここ、淀川に元から鎮座していた三嶋鴨神社に、百済の神も合祀されたとか、反対に百済の神が茨田堤を築くにあたり祀られたところに、カモ氏が進出してきたとかで、祭神もごちゃごちゃになってしまったのじゃないかなあと思うのだけれど・・・。

対岸あたりに加茂健豆美命神社があるのも気になった。前に河内街道歩きで行った、桓武天皇のときの創建という神社。

伊予(愛媛の大三島町)の大山祇神社、伊豆の三嶋神社とここ三島鴨神社とで「三三島」というのだって。その中でも一番古いのが三島鴨神社で、伊予と伊豆とに勧請されたとも伝わるそうだ。

元々は伊予の神様で、伊予から伊豆などにもいったのではないかとも言われているみたい。

スサノオの妻のクシナダヒメのおじいちゃんが大山祇で、スサノオとクシナダヒメとの間の息子は大山祇の娘と結婚して、その子孫がオオクニヌシ。スサノオと大山祇の別の娘との間には大年神(昔はあちこちに祀られていたそうだけれど、今ではあまり残っていない神様)とウカノミタマ(今ではお稲荷さんに祀られている)がいる。

ニニギの妻のコノハナサクヤヒメも大山祇の娘。その子孫が神武天皇。

安威川周辺の三島(茨木や高槻の元の呼び名ね)では、近畿では早くから水稲栽培が行われていたけれど、四国経由で伝わってきているということだった。伊予のほうからも水稲栽培をする人々がやって来て、彼らが祀ったのが大山祇だったのかな??

そして出雲族にしても天皇家にしても、大山祇の一族と姻戚になることで力を伸ばしていったのかな。

実のところ、式内社の三島鴨神社がここだということさえ疑わしいらしくて、詳細は不明。後に式内社三島鴨神社に名乗りを上げたというパターンね。

摂津富田近く、赤大路に鴨神社があって、ここが本当の三島鴨神社かもしれないそうだ。

確かにここは、玉垣にある「西面」「柱本」の人々の神様にふさわしい感じの、今では低地の道端にある、小さな神社だった。

赤大路の鴨神社についても詳細は不明。祭神は大山祇だとか鴨氏の祖だとか推測されているみたいだけれど。


ここから茨木市駅まで3kmだって。神社が面しているのが138号で、バス通りだった。バスで帰りたいところだったけれど、時刻表によるとバスは30分も来ないらしかった。

138号線を西に歩いて行った。この道は馬街道ともいって、北西の五十鈴あたりで茨木街道に戻る道みたい。

かつてはたんぼだったのだろうこの地帯も、周りは大きな工場だらけだった。西面交差点を渡り、それから新幹線の高架下を通った。このあたりは右手(北側)は古い集落のようだった。

玉川を西面大橋で越えて、ここから茨木市(ここまでは高槻市)。

目垣交差点を渡り、このあたりも工場ばかり。それから左手に大きなお寺(佛照寺)。親鸞の弟子が開き、その後、蓮如たちがやってきて本願寺派となったそうだ。出口、富田、このあたりは本願寺派が強かったところなんだな。

右手に崇徳寺が現れて、道路は川を越すべく、上り坂を上っていった。

それから二階堂橋で安威川を越えた。茨木市駅までここまでで半分くらいかなあ??

平田1丁目交差点からは歩いたことがあった。左手の小倉山荘を過ぎて右折して北上。右手のイオンを過ぎてから左折。

このあたりは牟礼遺跡がみつかったところのようだった。北九州から徐々に何世代かかけて伝わった水稲栽培が行われていたと思われる遺跡。

あとは茨木市駅(阪急京都線)まですぐだった。

この日、記憶に残るくらい変わった苗字を見た。飯酒盃いさはいさんだって。新潟あたりで見られる名前だそうだ。

他に記憶に残ったのは、「瓦落下注意」の文字とブルーシート、白と黒で顔を書かれたお地蔵さん、あと、新幹線。

総合的に言ってこの日歩いた茨木街道は、疲れるばっかりの、面白くない道だった。様変わりして、近代的になりすぎているんだな。でも後で思い返すと、新幹線が通る不思議な町を歩いた日のように思えた。

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